希望と疾駆

 翌朝、十時。目が覚めてからほとんどずっと歩き詰めていたふたりは、スイスとEFの国境になっている崖の前に立っていた。切り立った岩壁を二十メートルほど下ったところから広がる深林は、フランスのそれだ。

「ここなら、ほかと比べて国境警備の監視も薄い」


「ここを降りるの……どうやって」


「最初から、ここの崖にくることは決めていたからな。食事といっしょに、無人販売機でロープを買っておいたんだ」


「そういうこと!」


「ああ。まず、ロープを木に固く結びつける。そして、ロープを肩から股に回して、外れないようしっかり固定する。握ったロープは、ぜったいに放さないようにするんだ。俺が上から補助するから、足を岩壁に踏ん張って、ゆっくり降りていくんだ。ぜったいに、下を見ないようにして」


「この崖を……」


「大丈夫。絶対に、握ったロープを放さないで」


 ゲオルネは、来た道を振り返った。生まれ育った、そしていま自分たちを拒む、故郷の国土。

 深呼吸する。きっと大丈夫。今までもそうだった。兄さんといっしょなら、きっと助かる。

「やる。ロープ貸して、結ぶから」


「よかった。そうそう、その調子。絶対に解けないよう、慎重に……」


 ゆっくりと正確に、ロープは準備された。

 ロープをしっかりと握って、後ろ向きに崖から踏みだす。ゲオルネは、努めてたのしい記憶を思い出そうとした。いま、何かの拍子でロープが切れてしまえばかんたんに失われてしまう、自分の命から目をそらすために。

 岩壁に足を踏ん張る。いまもし、ほんのすこし風が吹けば、ゲオルネの命は無いだろう。

「よし、支えてるからな。一歩ずつ、ゆっくり降りていくんだ」


「うん」


 一歩、また一歩。掌にロープがひどく食い込んだ。それでも、指の一本一本を力強く握りしめて、次の一歩を岩壁に踏み締める。

 残すはあと五メートル。

「あとちょっと、気をつけて」


 その時。林の静寂を破る人声がひびいた。

「おい、そこのお前。こんなところで何をしている」


「……」


「ここは私有林だから、うっかり迷い込んだのなら早く出ていってくれないか」


 落ち葉をふむ足音が近づいてくる。どうしよう、と兄の方を見たゲオルネに、マスミルドは小声で声をかけた。

「ぎりぎりまでこのまま降ろすから、地面についたらまっすぐ走れ。けどあせらず、慎重に」


「それじゃあ、兄さんはどうするの」


「……とにかく、いまは急ごう」


「まさか、私をかばって自分は死ぬつもり?」


「安心しろ。俺もすぐ行く。まだチャンスはいくらでもある。見つかってもすぐには殺されないだろうし、そもそも彼が俺たちのことを知っているはずはない」


「けど……」


「ほら、はやく」


 マスミルドの勢いに押し切られてしまったゲオルネには、ただそっと彼から目をそらすことしかできなかった。

「ぜったいに、無事でいてね」


 あと二メートル。

「困るんだよ、勝手に私有地に入られちゃ。おい、返事はないのか」


「すみません、すぐに立ち去るので、少しそこで待っていてもらえませんか」


「なに言っているんだ、ごまかそうといってもそうはいかないぞ」


 足音が近づいてくる。

「ゲオルネ、飛べ!」


 マスミルドは妹に向けて、小声に叫んだ。勢いまかせにロープを引きちぎる。ふだんの彼からは考えられない膂力だった。

「すみません、この崖があまりにも実験にぴったりで。ついつい……」


「ついついじゃないよまったく。このご時世、国境近くに人を入れるだけでスパイを疑われちゃうんだから。ほら、はやく片付けて」


 FGSの仲間ととりあえずバレなかったことに胸を撫で下ろしたマスミルドは、崖下を覗き込んだ。ゲオルネが、脚を押さえてうずくまっている。

「大丈夫か」


 そう身振りで伝えると、「大丈夫」と返された。「はやく、森に隠れて」「わかった」

 無声のやりとりを済ませたマスミルドは、地主のほうに向き直った。

「すみません、すぐに片付けるので」


「キミ大学生?困るんだよ、こんなふうにね、勝手に人の土地に入られちゃ」


「すみません」


 顔を伏せ、素早くロープを回収する。地主は林から出てきて、マスミルドのすぐそばに立っていた。小太りで赤ら顔の中年男だ。肩にライフルを背負っている。

「キミ、どっかで見たような顔だねえ。……もしかして、FGSのやつらの一員だったりするかい」


「まさか。そんなわけ」


「あぁ、思い出した。見つけたら捕まえろ、殺してもいいって、知らせがあったな。名前は忘れたが……もう一人一緒にいるんじゃないか?」


「妹なら、途中で置き去りにしました。一緒にいても足手まといになるだけなので」


「そうか。なら、お前だけでも来てもらおう。この国の大変時に裏切るなんていう、愚劣な悪魔どもには生きている資格などないからな」


「そこをどうにか!」


 マスミルドが地べたに這いつくばる。誇りも何もかも捨てて、生き延びたかった。守るべき相手のためにも。

「何をしている、早く立て」


 無情な銃口が向けられる。マスミルドは渋りながら立ち上がると、ゲオルネのほうを見やった。

「何を見ている?」


「なにも」


「そのロープで、何かを下におろしたんだろう?いや、誰か、か」


「ゲオルネ、走れ!」


 マスミルドが叫んだ。ゲオルネは、まだ疼く足を押さえて駆け出す。地主が銃を構えた。

 ライフルが火を吹く。五発の自動発射。素人の撃った弾は、ことごとく対象を外した。

 走る、走る、走る。森の深い木々に隠れると、銃声は止んだ。一般市民の持つ安物の銃に、透視機能はない。

 ゲオルネは、森の中を走った。下草を踏みつける。針葉が触れ、肌を刺す。それでも、走り続けた。これまで生きてきたどんな時よりも、速く。

 走り続けて、息が上がってきたとき。

 森が突然に開けた。

 そこには、見渡す限り大量の戦車が並んでいた。


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