第6話「雨に滲む記憶」
萌と付き合い始めてから、時間はまるで柔らかな羽毛のように、静かに、けれど確かに敬の心を包み込んでいた。
朝、一緒に校門をくぐる瞬間。昼休みに中庭のベンチで頬張るサンドウィッチ。放課後、帰り道で並んで歩く影。
どれもが当たり前のように連なっていたけれど、その一つひとつが、心の奥で小さく光を灯していた。
幸福とは、こんなにも静かで、穏やかなものなのか。
敬はふとそう思った。
だが、季節の境目に吹く風が気まぐれに向きを変えるように、ある日、その穏やかな風景にそっと影が差し込んだ。
それは、灰色の雲に覆われた午後のことだった。
昼下がり、授業が終わるチャイムが鳴ったあと、萌は何かの用事で先に教室を出ていった。
敬はノートを片づける手を止め、ふと窓の外を見た。
雨だった。
しとしとと、まるで囁くような音で降りしきる雨。グラウンドに落ちる滴が、ところどころ小さな水たまりを作っていた。
下校時、敬は下駄箱の前で立ち尽くしていた。
傘を持ってきていなかったことに気づいたときには、すでに外は本降りになっていて、校舎の外階段の軒先に雨が跳ねる音が響いていた。
(雨……展覧会……誰かが、一人で……)
不意に、胸の奥に小さな疼きが走った。
それは言葉にならない痛みで、まるで雨音が封印されていた記憶の蓋を開いたかのようだった。
記憶の糸がゆっくりと巻き戻されていく。
まだ幼かったある日のこと。風邪をこじらせて家で寝込んでいた。
その日、間鳥居美術館(かんとりーびじゅつかん)では小さな絵の展覧会が開かれていた。敬の描いた絵も展示されることになっていたが、発熱で行けなかった。
後日、友人がぽつりと教えてくれた。
「……一人で、展覧会に来てた子がいたんだ。敬の絵を見に来たって言ってたよ」
誰だったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、雨の日だった気がする。傘をさして、誰かが自分の絵を見に来てくれたという話を聞いた。
そして――
その翌週。
教室の前の席がぽっかりと空いていた。
「……事故だったらしいよ」
信じられなかった。信じたくなかった。
けれど、どこかで自分がその原因になってしまったような、妙な罪悪感が胸に巣食って離れなかった。
あのとき、その子の名前は――
「敬ちゃん!」
はっとして顔を上げると、そこに萌がいた。
ピンク色の傘を片手に、小走りで駆け寄ってくる。
「お待たせ。傘、入る?」
いつもの、変わらぬ優しい笑顔。
けれど敬の目には、その笑顔がどこか儚げに見えた。
「萌ちゃん……」
声が自然とかすれた。
「ちょっと……聞きたいことがあるんだ」
萌は一瞬きょとんとし、首をかしげる。
「なあに?」
その問いかけに、敬は言葉を呑みこんだ。
言わなければならないことと、言ってはいけない気がすること。その狭間で、言葉が心に引っかかって抜けなかった。
「……いや、なんでもない」
萌は「ふふっ」と笑って、傘を差し出す。
二人でその中に入った瞬間、雨の音が少し遠ざかっていくようだった。
その夜。
布団に沈んだ敬の耳に、雨音がしとしとと忍び込んでくる。
目を閉じるたびに、幼い頃の教室の風景が浮かぶ。白い壁、掲示された絵、空っぽの席。あのとき、あの子は――
(萌……だったのか)
まだ確信には至らない。けれど、あまりにも符合が多すぎた。
自分の絵を、わざわざ見に来てくれた少女。雨のなか、ひとりで歩いて。
そして、事故で亡くなったという悲報。
その面影と、今、目の前にいる彼女の姿が、重なっていく。
(もし、そうだったのなら……)
胸の奥に、言いようのない痛みが広がる。
過去に守れなかった命。その後悔が、時を超えて自分のもとに帰ってきたのだとしたら――今度こそ、彼女のそばにいなくてはならない。
翌朝。
雨は止んでいたが、空にはまだ重たい雲が流れていた。
校門の前で、萌が待っていた。
カーディガンの袖を両手で握って、控えめに笑うその姿は、まるで春の雨上がりの陽射しのように、柔らかくてあたたかい。
「おはよう、敬ちゃん」
敬は、ゆっくりと頷いた。
「おはよう、萌ちゃん」
何でもない言葉。だけど、敬にとってそれは、過去と未来を繋ぐ大切な挨拶だった。
――もう、見落とさない。
雨の向こうに消えかけていた記憶も、そこにあった痛みも、そして今、手を伸ばせばすぐ届く彼女のぬくもりも。
ぜんぶ、自分が受け止めていく。
昨日と同じように見える通学路が、今日はほんの少し違って見えた。
水たまりに映る空は、灰色から、ゆっくりと淡い青へと変わりはじめていた。
(つづく)
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