第4話「小さな日課」

 昼休みの鐘が鳴る。校内のざわめきが一斉に弾け、椅子の引かれる音と話し声が廊下に溢れ出す。だが敬の足取りはそれらの喧騒とは無縁だった。

吸い寄せられるように、彼の体は校舎の裏手にある中庭へと自然と向かっていた。

 そこは、コンクリートに囲まれた校舎の谷間にありながら、木漏れ日が優しく差し込む静謐な空間だった。風が枝葉を揺らし、光と影が交差する中庭の一角。

昼休みのざわめきがまるで別世界の出来事のように遠ざかる、ふたりだけの秘密の場所。

 萌はすでに到着していた。白いハンカチをベンチに広げ、小さなお弁当箱の蓋をそっと開けている。その手つきはまるで儀式のように丁寧で、指先からあふれる静かな気配が空気を柔らかく染めていた。

 ふわりと香るのは甘い卵焼きと、トマトのほのかな酸味。優しさでできた匂いだ。敬は胸の奥にぽっかりと空いた小さな空白が、そっと埋まっていくような感覚を覚えた。

「今日もありがとう、萌ちゃん」

 敬はそっと笑いながら、手作りのサンドウィッチを手に取る。パンの柔らかさが手のひらに伝わってきて、それだけで心があたたまる。

「ううん、私が作りたくて作ってるの。食べてくれるの、嬉しいよ」

 萌は恥ずかしそうに目を伏せ、ほんの少し微笑んだ。その頬に、木漏れ日がやわらかく落ちる。風に揺れた髪が光を受けて、金色に輝いて見えた。

 サンドウィッチを口に運ぶと、パンの香ばしさと卵のやさしい甘み、きゅうりのシャキッとした歯ざわりが、口いっぱいに広がる。敬は静かに目を閉じて、その味を心の奥で反芻した。

(こんな時間が、毎日続いたら……)

 そんなことを考える自分に少し照れながらも、幸福感が胸の奥に滲んでくる。

「萌ちゃんのサンドウィッチは、やっぱりうまいなあ」

 最後の一口を頬張りながら呟くと、萌は小さく笑った……けれど、その目はどこか遠くを見ていた。

「……敬ちゃんはいいな。友達、たくさんいて」

 かすかに漏れたその言葉は、ほんの少しの寂しさを含んでいた。敬は驚き、萌の横顔を見つめた。普段はおっとりと笑っているその顔に、かすかな翳りが差しているのがわかった。

 彼女の膝に置かれた手が、ぎゅっと小さく握り締められている。

「え……?」

「私、引っ込み思案だから……。みんなと話すの、苦手で……クラスの雰囲気にもついていけないの」

 言いながら、萌は目を伏せた。その髪が風に揺れ、頬にふわりとかかる。その姿に、敬の胸がぎゅっと締めつけられた。

 ——この優しさの裏には、こんな孤独があったんだ。

 しばらくの沈黙。どこかでスズメの鳴き声がして、春の風が二人の間をそっとすり抜けていった。

「友達ってさ……」

 敬はゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。

「何人いたっていいような気もするけど……でも、100人、1000人いたって、本当に困ったときに駆けつけてくれる人って、どれだけいるんだろうな」

 敬の声は、自分自身の過去を遠くから見つめているような、穏やかで深い響きを持っていた。八十年という時間の中で、彼が得た答え——それが、目の前にいる彼女に今、言葉として形を与えている。

「だからさ」

 敬は柔らかく笑った。

「たった一人でいいんだ。いなければ……俺がなるよ。君の友達に」

 萌は目を見開き、そしてそっと笑った。頬にじんわりと涙が浮かび、それが光の粒となってこぼれ落ちた。

「……ありがとう、敬ちゃん」

 その声は細く震え、けれど確かに温かく、二人の心を結んだ。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎の向こうから響いてきた。二人は静かに立ち上がり、並んで歩き出す。

その距離はごくわずかだったが、歩くたびに世界が少しずつ広がっていくような、そんな不思議な感覚があった。

 放課後。教室に残っていたざわめきが少しずつ遠ざかり、廊下に静寂が満ちていく。敬が鞄を肩にかけて校舎を出ると、ちょうど校門のそばに萌の姿があった。

 夕暮れの光が彼女の髪に差し込み、横顔が淡く照らされている。その佇まいは、まるで映画のワンシーンのようだった。

(今日も……きれいだな)

 思わず見とれそうになる視線を逸らすようにして、敬はひとつ深呼吸をした。そして、小さな勇気を胸に握って、声をかけた。

「萌ちゃん、今日……部活ないなら、一緒に帰らない?」

「あ……うん! いいよ」

 萌はぱっと顔を上げ、うれしそうに笑った。その笑顔に導かれるように、ふたりは並んで校門を出る。夕暮れの光が長い影を落とし、道には淡い朱色が広がっていた。

「そういえば……間鳥居公園って、この先だったよね?」

「そうそう、ちょっと寄ってく?」

「うん、行こう」

 そんな何気ない会話の中に、不思議と自然なリズムがあった。気がつけば二人は、公園のベンチに腰を下ろしていた。

 萌は空を見上げ、夕陽に染まる雲を見つめている。

「中学の頃、よくあそこのベンチでピアノの練習をしてたんだ」

「ピアノ……昨日、音楽室でも弾いてたね。すごくきれいだった」

 萌は少し照れたように頷き、地面に軽くつま先で円を描いた。

「今はもうあまり弾かないけど……指がね、勝手に覚えてるの。不思議だけど、やっぱり楽しいの」

「……俺は剣道をやってたな。中学のときは本気で全国目指しててさ」

「うん。敬ちゃん、なんかそういうの似合う」

 小さな笑い声が風に溶けていく。その穏やかさに、時間の流れがゆっくりになったように感じられた。

「ねえ、萌ちゃん……俺といて、楽しい?」

「え……? うん、楽しいよ。すごく」

 その答えは照れながらもまっすぐで、敬の心をじんわりと温かく包んだ。

「俺もね……最近、萌ちゃんといるときが一番落ち着くんだ。なんか……いいなって、思ってる」

 萌がそっと敬を見つめる。その目はきらきらと輝き、夕焼けよりも美しかった。

「だからさ、今度さ——お弁当のお礼に、一緒に映画でも行かない?」

「え、本当に? いいの?」

「もちろん。どんな映画がいいか、一緒に決めようよ」

 萌の顔がぱっと明るくなり、目が輝く。

「じゃあ……恋愛ものがいいな。ちょっと切ないやつ」

「俺も、そういうの……好きかも」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。その笑顔の中に、ほんの少しずつ、新しい何かが生まれ始めていた。

 夕暮れの風がやさしく吹き抜ける。ベンチに並んで座るふたりを包むその空気は、何気ない日常の中にある、ささやかで確かな幸福のかたちだった。

(これからも、こんな時間が続けばいいな……)

 敬は心の中でそっと願った。そして、となりにいる少女の横顔を見つめながら、胸の奥に芽生えた想いを静かに抱きしめていた。

(つづく)

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