end of life それは走馬灯のように・・・
かわまる
第1話「傘寿から青春へと零れ落ちる時」
2043年、冬。
玄関先の郵便受けに新聞が落ちる音で、私は目を覚ました。重いまぶたを上げると、すでに朝日は東の空を真っ白に染めていた。
三重 敬――みつしげ けい。80歳。傘寿を迎えた今、私は誰からも求められることのない、ただ静かに日々を送る老人である。
木造の家は、冬の朝の冷気をそのまま飲み込んでいて、寝室の隅に差し込む光すら冷たい。布団の中でしばらく身じろぎもせずにいた私は、やがて息を吐き、ぽつりとつぶやいた。
「……いったい、何をしてきたんだろうな……」
──人生って、こんなに短かったっけ?
朝から夜まで働きづめだった日々。会社から「ちょっとだけ出てくれ」と頼まれれば、休日だろうと喜んで出向いた。そうすることが“父親の務め”だと、自分に言い聞かせながら。
だが、家族の心は、どうだったのか。振り返る余裕などなかった私は、結局、自分ひとりが納得していたに過ぎなかったのかもしれない。
妻は十年前に先立ち、二人の子供は独立して今ではそれぞれ家庭を持っている。年に数回、娘の香音(かのん)が孫たちを連れて遊びに来てくれることだけが、私の数少ない楽しみだった。
先日の傘寿祝い、香音が「おとうさん、まだまだ元気で頑張ってね」と笑顔で言ってくれたとき、胸が締めつけられるような寂しさを覚えた。優しさに包まれながらも、どこか“別れ”を予感させるような……そんな響きがあった。
静まり返った家の中で、ふと呟く。
「終活……か」
身辺整理。運転免許の返納。不要品の処分。どれも「自分のため」ではなく「残された誰かのため」にやっておくことばかりだ。だが、手をつけるにも気が重い。物は想いを宿している。片づけとは、記憶との別れでもある。
意を決して、屋根裏部屋に足を踏み入れたのは、その翌日のことだった。
薄暗く、埃の匂いが鼻を刺す。古びたダンボール箱が無造作に積まれ、まるで時が封じられた小さな墓標のように並んでいる。
懐かしい竹刀が出てきた。中学時代、剣道に明け暮れた青春の象徴。プラモデル、古いアニメ雑誌、色あせた玩具。触れるたび、胸の奥に波紋のように記憶が広がっていく。
その奥、見慣れない箱があった。
「こんな上に箱を積むなって……」
そう呟きながら手を伸ばした瞬間、重みに耐えきれず積み上げられた荷物が崩れ落ちた。
――ドサッ。
強烈な痛みが後頭部を直撃し、私はそのまま倒れこんだ。
世界が、音を立てて暗転する。
。。。。。。。。。。。。
「三重!(みつしげ) 三重! 起きろよ、おい!」
耳元で誰かが怒鳴っている。身体が跳ね起きる。眩しい。
「え……今、何の授業だったっけ?」
戸惑いながら問い返す私を、腕を組んだ若い教師が呆れたように見下ろしている。
「ホームルーム中に居眠りする奴があるか! ったく、お前は……」
周囲からクスクスと笑い声が起きる。
信じられなかった。目の前に広がるのは、あの頃の教室だった。懐かしさが胸に染み込む。
私は机の上に手を置いた。そこには、しわもシミもない、若々しい指。肌には張りがあり、目にかかる髪は黒々としている。制服の袖、手首の細さ。これは――17歳の私だ。
「夢……? これは夢なんだろうか……?」
教室の空気は、確かに昔のままだ。木製の机のぬくもり、白い蛍光灯のチカチカした光、外から聞こえる運動部の掛け声。すべてが、生々しい。
「さあ、みんな席替えだぞー! 紙に番号書いてあるから確認してな!」
教師の号令とともにクラスがざわつく。私の手元にも、一枚の紙があった。
「えーと、25、25と……?」
机を動かしていると、横から柔らかい声が聞こえた。
「三重くんの隣だね」
振り返ると、そこにいたのは、どこか見覚えのある少女。
「……君は?」
「あ、私? 如月 萌(きさらぎ もえ)。よろしくね、三重くん」
ボブヘアが肩に揺れ、瞳がキラリと光る。どこかで聞いた名前だ……どこだったか……。
「え、あの……変なこと聞いていい?」
「うん?」
「今って……何年?」
萌はきょとんとしたあと、笑った。
「1980年、だけど?」
1980年――。
頭の中で何かが爆ぜたような衝撃。
「え、えええぇえええっ!?」
私の叫びに、クラスメイトがどっと笑う。教師も呆れ顔で頭をかく。
「三重、お前ほんっと面白いな!」
だが、私はそれどころではなかった。これはただの夢か、それとも――。
机に手を置く。その温もり、皮膚の感触、心臓の高鳴り、すべてが本物だ。
それとも私は――もう、あの屋根裏で死んでしまったのか? これは、死の間際に見る走馬灯?
それとも、神様がくれた“やり直し”の時間なのか。
まだわからない。ただ、あの無機質な家とは違う。ここには、若さの息吹と、眩しい希望が満ちている。
私はもう一度、自分の手を見た。
そこにあるのは、青春の只中にいた自分自身だった。
まだ始まったばかりの、不思議な物語。
そして、その隣には確かに──如月萌の、柔らかな笑みがあった。
(つづく)
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