沈黙の彼方
空月 蓮
第1話 沈黙
※この物語はフィクションです。実在の宗教・団体・人物等とは一切関係ありません。
※※※
一羽の鳥が櫟の木の枝を揺らし、飛び去っていった。
まだ日が明けきらぬ頃、ミサの時間を知らせる鐘の音が鳴り響き、アガタは聖書を持って聖堂に急いだ。ところどころページが破け、それを繕った古い聖書。彼女がこの修道院に来てからずっと手元に置いているものだ。
回廊では同じく修道女たちが聖堂へと向かっている。しかし、挨拶の言葉はない。軽く会釈をするのみだ。
この修道院では戒律が厳しい。修道女たちの交流はおろか、彼女らが話すことすら禁じられている。
声を出していいのは、ミサの時の唱和、それに各々の小部屋で神に語りかけるとき。もうひとつは、懺悔室で自分の罪を告白するときだけだった。
娯楽は一切ない。あるのはただ、沈黙のみ。沈黙の中でこそ、神との深い対話がなされるのだと教えられている。
黙って通り過ぎる修道女たちの中には、顔なじみも多い。が、話したことはない。一堂に介する食事のときさえ沈黙している。彼らの日々はあらゆるときも神に捧げられているのだ。
アガタはそんな日々を窮屈に感じたことはなかった。六歳のときからこの生活を続けてきたせいというのもある。だが、それよりも、彼女は沈黙が好きだった。己の内にだけ存在する神と話すことに深い喜びを感じていた。
十八歳になったら請願を果たし、正式な修道女となる。そして一生を神に捧げる。それが彼女の夢であり、願いでもあった。
ミサが始まると、この修道院を担当する司祭が現れる。彼はまだ若いが落ち着いていて、年老いた空気さえも感じさせる男だ。真っ白な服を身にまとい、いつも彼と共にある巡礼杖をついている。
アガタは毎日彼とミサのときだけ顔を合わせていた。
――主よ。
――沈黙の深い淵から、主よ、あなたに呼び求めます。
――主よ、わたしの声を聞いてください。
その場にいるすべての人々の詠唱を先導するのは、司祭だ。彼は静かな、しかしよく通る声でもって本日の詠唱を行う。修道女たちはそれに続き神への祈りを捧げる。
パンとワインに聖なる祈りを捧げた後、司祭は修道女たちにそれを分け与える。修道女は神の恩寵を感じながらその有り難い聖体を拝受するのだ。
アガタもその列に並び、両手でそれを受け取った。目を伏せているので司祭の顔を間近で見ることはない。
が、その日は、妙なことが起こった。
司祭の指先がアガタのそれと、微かに触れ合ったのだ。
電流が流れたかのように思った。
アガタは修道院の人間以外に誰とも触れたことはない。驚きのあまりパンを落としそうになった。司祭の方が気を利かせて受け止めてくれなかったら、とんでもない失態を犯すところだった。
うろたえながらもアガタは戒律に従い、無言で司祭を見上げた。そのとき、彼の顔を初めてまじまじと見た。
彼は思っていたよりずっと若かった。皺ひとつない肌に、聖職者とは思えない精悍な顔つき。アガタの知る俗世を捨てた男たちにはない、生気に満ちた瞳。
その目で司祭は微笑んだ。なにも心配いらない、というふうに。
そして、不可解なことに、彼の表情にはなにか、一種の畏怖のような色が浮かんでいた。
アガタは急いで一礼すると、次の修道女に場所を譲った。
アガタは中庭の花々の手入れを任されていたので、修道女たちよりも早く起きて植物の様子を見ていた。小さな赤いバラも、野生のユリも彼女の管轄だ。アガタはまだ若く、修道女の請願を果たしていない。だが、同年代の少女の中では誰よりも長くここにいるため、庭の隅々までも知り尽くしていた。
その日も彼女は日が登る前に庭に出て、新しく花を植える場所の土作りをしたり、肥料を施したりしていた。虫を捕まえるときには必ず神に祈りを捧げた。
誰とも話さず、己の中だけで神と対話する。
そういう時間が彼女は好きだ。他に選択肢があってもそうしただろう。
だが、その心の中に一点の曇りがあるのを彼女の明晰な目は捉えていた。
あのとき、ミサの聖体受領のときに一瞬触れ合った指先。
そして、自分を見つめる司祭の、不思議な瞳。修道院でしか人間を知らない彼女にとって、あの目の色に隠された感情など想像もできなかった。人の機微に詳しい者であってもわからない、そんな瞳であったのだから。
それは彼女の奥に、神に対する以外の関心を呼び覚ました。彼が微笑んでいたからでも、優しかったからでもない。それだけだったら、彼の存在はこれほどアガタをかき乱しはしなかったろう。
そんな想いをかき消すように土と向かい合っていたアガタがふと目を上げると、思いがけず、中庭の隅に人影を見つけた。アガタは一瞬、自分の妄想が形をとって現れたのかと慄いた。
だがそれは無論のこと違っていた。回廊に続く中庭でアガタに背を向けて立っていたのは、あの司祭だった。
(司祭さま)
アガタは思わず声に出しそうになり、そんな自分に驚いた。口に出さないことが美徳であり、戒律だったのだから。
彼女は自分の心のおもむくままに彼の元に近づいた。口に出すことも叶わない想いのために。神に背くことになるとは思いもよらず。
司祭が彼女の足音に気づいたのか、振り返った。すると、彼の手にあった巡礼杖が、いつも彼と共にあり、ミサのときだけ手元から離すあの杖が地面の石に取られたのか滑り落ちた。
アガタは咄嗟に司祭の足元に走りより、白いヴェールの裾が汚れるにもかかわらず跪いてその杖を拾い上げた
この方の大事な杖が、と、それしか考えられなかった。
杖は少し土で汚れていた。アガタは自分のバビットでそれを拭った。何年も毎日握りしめてすり減った木目、目を閉じてもわかるだろう木の節。それから目に入ったのは、杖の端に薄っすらと刻まれた文字――それには、エリアスと綴られていた。
(エリアス、さま)
アガタは両手で手杖を持ち。膝をついたまま司祭に差し出した。
「シスター・アガタ。お立ちなさい」
アガタは黙って立ち上がり、司祭が杖を受け取るのに任せた。
「ありがとう。顔をお上げなさい」
アガタは頷いた。
こんな場所で見ると司祭の雰囲気はミサのときとは打って変わって柔らかく、年相応だった。神の名を口にするときとの違いがアガタには新鮮に映った。
「この杖は私にとってとても大切なもの。どんなときも私と共にあり続けてくれる、私自身の分身であると言ってもいいものだ。あなたがこれを大事に扱ってくれて嬉しいと思うよ」
アガタは彼を見上げて震えた。いつもミサで自分たちを導いてくれる司祭が、取るに足らない修道女未満の自分にそんなことを言うなんて。
いや、それだけではない。アガタは彼が語りかけてくれることに、神の恩寵と同じ喜びを感じた。
混乱した想いを振り払うように、アガタは首を横に振った。
司祭はそれを謙遜だと受け取ったようだ。
「シスター・アガタ。あなたと少し話してもいいだろうか」
この後は用事もなく、自分の部屋にこもるだけだ。アガタには断る理由はなかった。
中庭の中央には低木に囲まれた噴水の跡がある。その石の上に二人は並んで腰かけた。本来ならそのような身分ではないのにと恐縮しつつ、アガタは胸が高鳴るのを感じた。
「話すことができないのなら、頷くだけで構いません」
司祭は庭の植物を眺めて、
「よく手入れのされた庭ですね。この時期のバラは虫がつきやすいのにその様子もない。ラベンダーもよく刈りこまれて元気です」
アガタは司祭が草木に詳しいのに驚いた。首をぶんぶんと縦に振る。自分が丹精込めているものを褒められるのは嬉しい。
「私も自分の国にいた頃は庭をよく手入れしていたのですよ。それが私の唯一の楽しみでした。その頃私は、国で政争に巻き込まれて。政争って、わかりますか」
アガタは首を横に振る。
「自分の国で、国民同士が権力を争って血みどろの戦いを繰り広げることです。ここのような平和な世界では考えもつかないような、醜い争いです」
司祭は花畑から目を落とし、自分の膝の上で手を組んだ。
「私はなにもかも失ってこの国に着き、運の良いことに聖職を得たのです」
アガタは頷いてよいのか、首を振ってよいのかわからなかった。ただ、神が、そのような宿命を彼に与えたことになんの意味があるのだろう。神はそれを見ていらっしゃらなかったのだろうかと考えた。
「あなたの考えていることはわかります」
司祭は微笑んで言った。
「神は私に罰を与え給うた。私が国でしたことに。その償いとして、私はいまこうして神にお仕えしているのです」
アガタは司祭に同情するとともに安堵した。神は本当にいらっしゃるのだ。だから司祭は罰を甘んじて受けている。
でも、どうして、私にそんなことを?
「シスター・アガタ。あなたは六歳のときからここにいるのだと聞きました」
アガタは頷く。もっとも、彼女はそれ以前のことはよく覚えていない。両親のことも、なぜ二人が自分を修道院に置いていったのかも。
アガタの記憶は、ここで、自分用に設えられたチュニカとヴェールを着せられてからだ。
その頃からアガタは沈黙を守っていた。彼女に両親の話をする者はいなかった。
「私が見る限り、あなたはこの国の人ではないのではないですか。私がいた国の出身でしょう」
(――――え)
突然の言葉に、アガタは理解が及ばす混乱した。思わず首を激しく横に振る。
「気が付かなかったのですか。あなたの髪の色は周りのシスターと明らかに違う。瞳の色も。私は母国で、あなたのような人を多く見たのですよ」
アガタは自分の髪の色のことなど気にしたことがなかった。鏡を見ても、気になるのはそこに神が映っているかどうかだけ。
「あなたは自分の出自を知りたくはないのですね」
今度は首を縦に振る。
(そんなこと、いまさら知りたくもない。知ってどうしようというのだろう)
(私は神の子だ。それでいい)
「驚かせてしまいましたね。すぐには結論を出さなくていい。もし知りたくなったら、私をお訪ねなさい。力を貸しましょう」
司祭はそう言って去った。
バラの中に残されたアガタは、整理できない頭の中でこう思っていた。両親の存在も自分の生い立ちでもなく、もっと大事なことを。
それが神に背くことになるだろうとは、ついぞ思わずに。
(司祭さまが私に笑いかけてくださったのは、私にご自分の話をしてくださったのは。私自身に興味があるからではなくて、私が同胞だと思ったからなのだわ)
司祭が自分を気にかけてくれたのは事実なのに、意味もなく悔しく、悲しい。
アガタはこれまで経験したことのない心の痛みに、庭の隅で立ち尽くしていた。
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