第8話
ヴァイツェンシュタットからフンベルクまで、馬車で2週間程かかる。直線距離は然程無いのだが、道の関係上、エーリアスの言う通り王都を経由しなければならない。その上、山を迂回しなければならないので、それらを考慮すると、それが最短となる。
これまでの人生全てをヴァイツェンシュタットの小さな町で過ごして来た私にとって、初めての遠出。気ままな馬車旅となる筈だったのだが——……
「……瞼が重たい」
「そりゃ、あれだけ大泣きすればね」
尋常ならざる泣きっぷりを見せた私は、物の見事に目を腫らせた。そりゃあもう、蜂に刺されたんじゃないのかってくらいに。
冷水を絞った麻布で目元を冷やしているものの、この腫れっぷりはヤバイ。折角の美少女が台無しだ。
汚い泣き顔を見られた羞恥も相まって、あああ、と声を上げて落ち込む。気を使ったエーリアスが「ほら、さっきより腫れも落ち着いたし、機嫌を直して」と隣から声をかけてくれる。優しい。
一方、正面に座ったペトラは今日も能面っぷりが冴え渡っている。眉ひとつ動かす事なく、いつも通り「フロインライン・アメリア」と私を呼んだ。
「これより貴女様は、シュナイダー家の町娘ではなく、フォーゲル家の伯爵令嬢となられます。プロフェッサー・アーデルハイトより仰せつかった任により、早速ですが、フロインライン・アメリアのご指導をさせて頂きます」
淡々と忠告するペトラ。ヴァイツェンシュタットの町を出るのとほぼ同時にするあたり、さすがと言うかなんと言うか。さてはタイミングを図っていたな?
町から離れるに従い、徐々に揺れを増す馬車の中、私は早々に言葉使いについてペトラから指導を受ける事となった。どうやらこの先はお嬢様口調を常にしなければならないらしい。
たどたどしい「わかりましたわ」の声に、エーリアスとブルーノが微笑ましそうに目を細めた。
さて、道中の詳細は別段語る必要もないだろう。
初めて見る町の外の景色にきゃっきゃと騒ぐ年齢でもないし、多少の違いはあれ、前世にも似たような風景はあった。勿論馬車に乗るなんて機会は全くと言っていい程なかったが。
なにより、風景よりペトラの顔と彼女が差し出した教本を見ることの方が多かった私は、あまりこの時間の事を思い出したくない。
フロインライン・アメリア、とペトラの冷ややかな声が呼ぶ度、ひくりと口元が引きつった、とだけ記しておく。
全く……誰だ、気ままな馬車旅とか言ったの。
私がペトラの指導に震えている間、同乗者たちは各々の過ごし方で馬車旅を楽しんだ。
エーリアスは学園のものらしき本を静かに読んでいるか、ブルーノと小難しいお家の話をしているかだった。私たちの邪魔はしないようにと気を使ったらしい。ブルーノも似たようなもので、エーリアスや馬車の御者イーヴォとばかり話しており、私やペトラには極力言葉をかけないようにしていた。
エーリアスと言えば、一度だけ、ギルベルトについて少しだけ話した事がある。
揺れる馬車の中で教本を眺めたせいで、酔ってしまったからとペトラに休憩を貰った時だった。
窓の外を見ていると良い、というアドバイスに従って、ぼんやりと眺めていたら、遠くの草原に子供が見えた。幼い——兄妹だろうか——子供が二人、くるくると踊るように遊んでいる。
ギルベルトと同じ飴色の髪を持つ彼らを見ていたら、ふと思い出してしまった。
「……ギルベルトに、さよならを言い忘れたわ」
独り言のつもりだったそれを、エーリアスは丁寧に拾い上げてくれた。読んでいた本を閉じ、名前を呼ぶ彼に私は苦笑を向ける。心優しいエーリアスに気を使わせてしまっただろうか。彼は形の良い眉を少しだけ寄せた。
「意外だな。ギルベルトに会わなかったのかい?」
「会えなかったのよ。……お互い、忙しかったから」
「昔から落ち着きのないヤツだったけど、ここ最近は以前に増してもって感じだったからなぁ」
顔くらい見せれば良いのに、と口を歪めるエーリアスに、私は自嘲的な笑みを浮かべる。
「……きっと、私に嫌気が刺したんだよ。思いっきり顔を引っ叩いてやったから」
ペトラが静かに私の名前を呼んだ。やっべ。
「嫌気が刺したんじゃないでしょうか。勢い良く頬を打ってしまいましたから」
慌てて言い直した私に、今度はエーリアスが苦笑を零す。やっぱり気を抜くと素が出るなぁと反省。そして、慌てていると不自然な程丁寧になるというのも、どうにかしたいものだ。
エーリアスはギルベルトと同じ瞳に優しい色を灯し、大丈夫だよ、と笑う。
「ギルベルトはそのくらいでアメリアを嫌いになったりしないさ」
「そうかしら?」
「兄の僕が言うんだから間違いないよ」
大丈夫、と繰り返すエーリアス。自信はないが、これ以上の問答は無意味だろうと私は一先ず頷いた。エーリアスも安心したように目を細め、再び本を開こうとした。
そして、ふと思い出したように「そういえば」と口にする。
「この前、変な事言ってたな。家の屋根より高い場所はないかって」
「領主邸の屋根より?」
平野続きの町で、唯一丘と呼べる高さのある土地に立つ領主邸より高いものなんてあるのだろうか。
うん、と頷くエーリアスにわざとらしく考える素振りを見せ、すぐに「無いんじゃないかしら」と答える。
「僕もそう言った。……ギルベルトは不服そうだったけどね」
その言葉と苦笑を締めに、エーリアスは再び視線を本に戻した。私も再び視線を窓の外へ向ける。可愛らしい兄妹の姿は、当然のように後ろへ流れてしまっていて、影も形もない。
ギルベルトが何を考えているのか、エーリアスにわからないものが私にわかるはずもない。
高いところだなんて……この間屋根から落ちたばかりだというのに、何を目的に……。
そこで、はた、と気付く。
ギルベルトは落下事故の日を境に、父親であるヴァイツゼッカー子爵より屋根への登る事を禁じられてしまった。高い所が好きな彼は、それを大層残念がったそうだが……まさかとは思うが、その代わりの場所を探しているんじゃないだろうな。
どうやらエーリアスも同じ事を思ったらしい。僅かに険しさを孕んだ表情で、帰ったらできるだけギルベルトから目を離さないように、とペトラに告げた。
彼女の「かしこまりましたわ」が、これ程まで心強く思える日は二度と来ないだろう。
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