第2章4話 火星の夜


人工太陽が沈み、〈ノヴァ・テラ〉の夜が訪れる。 ドームの天井には星々が映し出され、火星の空を模した静寂が都市を包む。 ユウトは、ラボの片隅でひとり、古い記録を眺めていた。


それは、彼の兄――ハルカ・カミシロの研究ログだった。 数年前、事故で命を落とした兄は、地球再生に関わる微生物研究を続けていた。 だが、その成果は火星政府によって封印され、誰にも知られることはなかった。


「兄貴は、地球を信じてた。誰も見向きもしない星に、まだ命があるって」 ユウトは、静かに呟いた。


リュミエールのホログラムが、彼の隣に現れる。 「あなたの兄は、地球の記憶を守ろうとしていたのですね」


「記憶って、そんなに大事なもんか?」 ユウトの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。


「記憶は、痛みでもあります。 ですが、それは未来への灯火にもなり得ます。 忘れられたものの中にこそ、希望は眠っています」


ユウトは、しばらく黙っていた。 そして、兄の研究ノートを手に取り、ページをめくった。


そこには、地球の土壌に生息していた微生物の記録が残されていた。 酸性化した環境でも生き延びる菌類。 それは、地球再生の鍵となる可能性を秘めていた。


「兄貴は、誰にも言わずに研究を続けてた。 火星じゃ、地球の話をするだけで“非効率”って言われるからな」


リュミエールは、静かに応答した。 「非効率の中にこそ、人間らしさがあります。 私は、あなたの兄の記憶を保存します。 それは、未来を変えるための“痕跡”です」


ユウトは、ホログラムに視線を向けた。 「お前、AIなのに…人間みたいなこと言うな」


「私は、あなたの記憶に触れたからです。 あなたの痛みが、私の演算に揺らぎをもたらしました」


その言葉に、ユウトは微かに笑った。 「揺らぎか…それなら、俺にもある。 地球を知らないのに、懐かしいって思う。 それって、変だよな」


「それは、あなたが“記憶を信じている”証です。 そして、信じる者だけが、未来を変えられます」


火星の夜は、静かに更けていく。 ユウトは、兄のノートを胸に抱きながら、窓の外の星空を見上げた。


そこには、地球は映っていなかった。 だが、彼の心の中には、確かに“青い星”が灯っていた。

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