第8話 家の幕

 午後の内庭は、陽の角度が柔らかかった。

 白線は昨日の円のまま、少しだけ擦れて、誰かの足跡の形が薄く残っている。

 アデルは約束どおり現れた。薄墨の外套は脱がず、代わりにフードの影から一人の娘を前へ押し出す。


 白い外套。痩せた手首。

 南門で粗い幕を張った、あの娘だ。


「名は?」

 私は距離を測り、半歩だけ近づく。

「ルーチェ」

 娘は緊張で喉が細くなっている。声は糸のように頼りない。

 アデルは短く言った。

「うちの分家筋。布は知らない。――押し返すことだけ教わった」


 押し返す。

 私は護紋スカーフの結び目を確かめ、ノアを見る。

 彼は親指の爪を二度押した。

 返す。二度。

 合図が、娘の肩の強張りを少しだけ鈍らせる。


「ルーチェ」

 私はできるだけ簡単に言葉を選ぶ。

「今日、あなたに縫い目を渡す。粗い幕を、受けて、渡す手に変えるための縫い目」

 娘は頷きかけ、途中で止まる。

「……痛いのは、嫌いです」

 正直。

 私は頷いた。

「痛みは、比べない。比べると、どちらかが黙るから。――言葉で言って。『嫌だ』でもいい。言った痛みは手順になる」


 アデルがわずかに顎を上げる。

 娘の視線は外套の影で揺れ、やがて私に戻った。

「嫌だ、は……言うのが怖いです」

「じゃあ、合図で言う。親指を一度強く押す。――緊急の合図」

 私は娘の親指をそっと取り、一度、強く押した。

 娘ははっと息を吸い、瞬きを二度。

 ノアが静かに続ける。

「二度は“平常”。“離さない”は声で言う。小さくでいい。言うという事実が、幕の縁になる」


 内庭の回廊には、昨日から見に来ている女たち、男たちがまばらに立っている。アデルの家の侍女たちも数人、影に控える。

 ミレイは帳面を持ち、線を引く準備を整えた。

「――始める。公開で」


 *


 第一段階は、触らない幕だ。

 私は娘と向き合い、薄い布を渡さずに、言葉と合図だけで縁を作る。

「今、怖い?」

 「……少し」

 娘の声は小さい。けれど出た。

「親指、二度」

 娘はおずおずと、自分の親指の爪を、もう片方の指で二度押した。

 合図が、娘自身の体内に落ちる。

「“離さない”」

 私は促す。

 娘は躊躇し、アデルを見、またこちらを見る。

「……離さない」

 掠れた声。

 私は同じ言葉を返す。

「離さない」


 ノアが半歩、娘の後ろに立つ。

 距離。肩一枚。

 彼の影が娘の肩に薄くかかる。

 影は押し返さない。受けて、ほどく。

 娘の呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。


「次。縫い目の感覚を渡す」

 私は薄い麻布を肩から肩へ。

 受け取りの合図――手首を軽く引く。

 娘の指は強く握りすぎる。

「抜いて」

 私は一本ずつ、指の力をほどく。関節の角度を整える。

 布が、怒らない角度。

 ノアが空気の目を撫で、双糸の片側を支える。

 娘の頬に、湯気のような涼しさが当たる。

「……涼しい」

 小さな声が、布の縁で揺れて、落ち着く。


「粗い幕の、違いを見せる」

 私はアデルを見る。

 彼女は従者に目で合図し、丸頭の押し返す幕の札を一枚持って来させた。

 強く押し返す訓練用の仕掛け。出力は弱めてあるが、性質は同じだ。

 ミレイが安全を確認し、頷く。

 ノアが一歩前に出る。

「ルーチェ、見て。これは押し返すだけの壁。引き受けない」

 仕掛けの先端が硬く風を押し、砂がざりと鳴る。

 娘の肩が跳ねる。

「これに反応して、押し返すと、反動が自分に戻る。――昨日、君の掌が赤かった理由」

 娘は無意識に自分の手のひらを庇い、目を伏せた。


「今度は、縫い目をつくる」

 私は娘の手首を取り、親指の爪を二度押す。

 返ってきた二度は、遅いが、確か。

 ノアが空を撫で、私は布の縁を娘に渡す。

 仕掛けの硬い風が、縫い目の角でほどける。

 押し返す力の逃げ道ができ、反動は自分に戻らない。

 娘の目が、驚きで少しだけ開いた。

「痛く、ない……」

「痛みはゼロにはならない。でも、比べない。比べず、渡す」

 私は言葉を短く置く。

 アデルの侍女が回廊の影で指を組み、小さく息を吐いたのが見えた。


 *


 次は、合図の遅延を見つける練習だ。

 娘は合図が遅れがちだ。

 遅れる前――視線の泳ぎ、呼吸の浅さ。

 私は娘の視線が私の肩から外へ滑りそうになる瞬間を待ち、先に肩を二度、軽く叩いた。

 点検。

 座る。

 湯。

 娘の肩から、無駄な力が降りる。

 ノアが静かに言う。

「湯は弱さじゃない。長く張るための条件」

 娘は小さく頷いた。

 「……“離さない”」

 彼女の声に、先ほどより少しだけ水分が戻る。

 私は返す。

 離さない。


 訓練は、噂の縫い目と同じで、繰り返しだ。

 粗い幕の仕掛けに向き合い、縫い目で角を取る。

 緊急の合図を覚え、前に出る/下がるの切り替えを体に入れる。

 娘の指の角度が、少しずつ変わる。関節が押し返す硬さから、受ける角度に変わる。

 アデルは何も言わない。見ている。見せられている。

 ミレイは線を引き、必要な時だけ短く言葉を足す。

「緊急の後は、必ず湯」


 娘が三度目の緊急を出したとき、アデルが一歩だけ前へ出た。

 外套の裾が砂をかすめ、彼女は低い声で言う。

「交代」

 私は頷き、娘を座らせ、ノアと視線を合わせる。

「――双糸の縫い目を、アデルにも触ってもらう?」

 自分で言いながら、胸骨がわずかに鳴った。

 彼女は公爵家。秩序の顔。

 けれど、渡すのなら、ここでだ。


 アデルは短く笑った。

「布は、嫌いじゃない」

 彼女は外套を肩で少し持ち上げ、袖口をまくる。

 白い指。

 針の傷はない。

 私は薄い布の端を、彼女の肩へ渡した。

 受け取りの合図。手首を軽く引く。

 彼女の指は、美しいが、強い。

「抜いて」

 私は一本ずつ、指の力をほどいた。

 彼女は一度だけ私を見て、力を抜いた。

 布が怒らない角度。

 ノアが空を撫で、縁が通る。

 アデルはわずかに目を細め、鼻先で笑った。

「……涼しい」

 その笑いには、嫌味が少なかった。


 粗い幕の仕掛けが風を押す。

 アデルの指が本能で押し返しかけ、私は合図を入れる。

 親指を一度強く。

 アデルは頷き、指の角度を戻す。

 縁。

 角。

 ほどける。

 反動は戻らない。

 アデルの胸がひとつ上下し、肩の筋が解けた。

 私は小さく言う。

「離さない」

 アデルは、ほんの僅かの間をおいて、声で返した。

「離さない」


 回廊がざわめく。

 公爵令嬢の喉から、公開でその言葉が出た。

 詩は、秩序の音にもなる。


 *


 訓練の終盤、ミレイは帳面を閉じ、短く告げた。

「公開の手順を、もう一段階増やす。――引き受ける/押し返すの見分け方を札にする」

 ノアが紙を広げ、見出しを書く。

 > 引き受ける手/押し返す手

 > 指の角度/合図/湯

 私はルーチェの傍に座り、彼女の手のひらに軟膏を塗った。

 拒まない皮膚。

 薄い裂け目は、今日で増えていない。

「痛い?」

「……少し。――でも、前より、怖くない」

「怖さは、消えなくていい。合図にして、手順にして、お湯で薄める」

 娘は頷いた。

 アデルがそれを見て、ひとつ息を吐く。

 その息は、午前よりも重さが軽い。


「ルーチェ」

 私は立ち、娘に手を差し出す。

「公開の実演に、立つ?」

 娘の瞳が揺れる。

 回廊の侍女が心配そうに身を乗り出し、アデルの指先が外套の裾を摘まむ。

 娘は唇を噛み、そして、小さく頷いた。

「……立ちます」


 ミレイが頷く。「夕刻、広場。三本の矢と、粗い幕一度。――“湯”を忘れるな」


 *


 夕刻の広場。

 昨日と同じ帆布。昨日より近い群衆。

 ユリウスは立ち、公開の実演を宣言した。

 「本日は“家の幕”。――粗い幕で育った者に、縫い目を渡す」


 第一射。

 ルーチェはノアの半歩前、私の半歩後ろ。

 位置は合意。

 合図、二度。返る、二度。

 双糸の縁が矢の角を取り、石にやさしく落とす。

 第二射。

 娘の視線が泳ぎ、私は肩を二度叩く。

 点検。湯。

 座る。湯気。離さない。

 第三射。

 娘の親指が一度強く。緊急。

 私は半歩前へ、木剣の柄で線を払う。

 縁が隙を埋め、矢は転がる。


 拍手が、昨日より早く揃った。

 ユリウスが頷き、手を上げる。

「粗い幕――押し返す力の実演」

 仕掛けが風を押し、娘の肩が跳ねる。

 ノアが私の爪を一度強く押す。

 緊急。

 私は即座に双糸へ切り替え、娘の手首を軽く引く。

 角がほどけ、反動は戻らない。

 私は静かに言う。

「離さない」

 娘は、今度は震えない声で返した。

「離さない」


 回廊から、ため息に似た音が広がる。

 アデルは腕を組み、笑ってはいないが、口元の線が柔らかい。

 ミレイは帳面を閉じ、宣言する。

「手順は公開。家の幕の縫い直し、希望者は庇護組へ申請を」

 群衆がざわめき、子どもが札を指差し、女が頷き、男が布の端を確かめる。


 そこへ、年配の男が一人、群衆から進み出た。

 アデルの親族らしい徽章。

 厳しい目。

「公爵家の名は、押し返すことで保ってきた。今さら引き受けるなど――」

 言葉は硬いが、声の底に揺れがある。

 アデルが一歩、彼の前へ出る。

「見せ方を変えるわ。名を捨てない。縫い直す」

 男は口を開き、閉じ、苦い顔で息を吐いた。

「誰が縫う」

「人が縫う」

 アデルは私に視線を寄越し、わずかに顎を引いた。

「うちの子が――人でいられるように」


 男は長い沈黙の後、こわばった顎を一度だけ下げた。

 降参ではない。合意だ。

 噂の縫い目が、家という厚い布にひと針入った音がした。


 *


 夜。北棟の部屋。

 机の上には、今日の紙と、アデルの紋が入った小さな封筒。

 中には短い書状。


彼女を預ける。

“離さない”を、見せてやって。

 丁寧ではない文。けれど、私文だ。

 私は封を戻し、護紋スカーフの結び目を指で弄んだ。

 ノアが湯を置き、座る。

「今日は、渡せました」

「うん。あなたの“見せ方”が、私の手順を支えた」

 私が言うと、ノアは少し目を見開き、笑みとも頷きともつかない小さな仕草をした。

「僕の“見せ方”は、あなたの詩に支えられています」


 私は、少しだけ照れて、彼の親指の爪を二度押した。

 返る。二度。

 声で。

「離さない」

 彼も、声で。

「離さない」


 灯を落とす前、私は窓を少し開けた。

 夜風が札を揺らし、机の上の見出しが小さく鳴る。

 > 家の幕の縫い直し

 > 押し返す手から、受けて渡す手へ

 その文字が、今日の広場で増えた縫い目の数を、静かに数えているように見えた。


 眠りに落ちる直前、私は思う。

 守られることを選ぶ勇気は、家の重さにも負けそうになる。

 だから、家ごと縫う。

 合図で。距離で。交代で。

 そして、詩を捨てない手順で。

 渡した言葉が、明日も声で返ってくるように。


 私は手を伸ばし、彼の親指の爪を二度押した。

 暗闇のなか、すぐに二度、返ってくる。

 ――その速さに、また一つ、縫い目が増えた。


 *


《次回予告》

第9話「宮廷の嘲り、もう一度」

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