男が守られる世界で、彼だけが私を守ってくれた
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 処刑台の雨
雨が観衆の顔をぼかしていた。
石畳を叩く音が、無数の舌のように私の名を舐めていく。リアナ・エルヴェ。女であり、剣を執ってきた私の名は、今日ここで「有罪」の響きを帯びる。
両手首に食い込む縄は濡れて、冷たい。
鉄の匂い。濡れ羽色の空。突き出された断罪台の上、私は膝を折らぬと決めて立つ。女が前に立ち、男は後ろに隠れる――この国の常識を、私は骨まで知っている。
だから、前に立つ苦さを知る。だから、退かない苦さも知っている。
「リアナ・エルヴェ。王命違反により――」
判事の声は、雨の幕にほどけていく。
その言葉の続きを、私はもう覚悟していた。覚悟は、剣帯の重みのように馴染む。けれど今日は剣帯がない。腰の軽さが、むしろ恐ろしい。
誰かが傘を鳴らした。ざわめきの隙間で、靴が水を踏む小さな音がした。
振り向く間もなく、その気配は前へ出る。私と判事の間に、雨粒を切り割る細い影が差し込んだ。
「僕が、彼女を守る」
笑いが起きた。
守る? 男が? この国で?
声の主は、宮廷の廊下で紙束と静けさを運んでいた、あの下級書記――ノア。薄い外套はたちまち雨を吸い、肩の線が骨の形にまで透けていく。
「下がれ。そこは女の場所だ」
「見世物が増えるぞ。あれは誰の息子だ?」
野次は石のように投げられ、音を立ててはじけた。
けれど彼は振り向かない。
私の前に立ち、私を隠すように、ほっそりとした背中を広げる。雨に濡れた外套の布が、私の呼吸に合わせて微かに上下する。外套の裾から覗く手は、白く、細く、震えていた。
私は思わず、その手の甲に指先を触れてしまう。熱い。驚くほど熱い体温が、夜店の温かいパンのように掌に移ってくる。震えているのに、退かない熱さ。
「どきなさい。ここは裁きの場だ」
判事の声は冷え切っている。
ノアは、ひと呼吸おいて、短く、静かに言った。
「守る、という言葉は、誰のものでもありません」
誰かが鼻で笑い、誰かが舌打ちし、誰かが興味深げに身を乗り出した。
次の瞬間、空気が押し返された。胸の前で、見えない布が翻る。
雨が一瞬だけ進路を変えるのが見えた。私に向けられていた視線の刃先が、鈍り、滑り落ちる。
観衆が息を呑む音は、いくつもの小さな鐘のようだった。
私は、その背中を見ていた。
細く、頼りなく見える背中。けれど、そこに立つ意思は、石よりも重い。
「守られる」という感覚は、思っていたより痛く、思っていたより温かい。胸の奥で、きゅっと音が鳴った。
*
私が拘留房へ移されたのは、嵐の目に落ち込むような時間だった。
正式な投獄ではない。処分保留の「安全な待機」――宮廷は、言葉で傷を包むことがうまい。実際のところ、鋭利な疑いは包帯では止まらない。
石壁の匂い。藁の湿り。
粗末な寝台と、鍵穴の向こうで揺れる灯。私は椅子に座り、濡れた髪から滴る水を指で払った。
扉が音を立てずに開く。
ノアが、盆を抱えて入ってきた。湯気を吸う外套は変えられていて、清潔な亜麻色のシャツが、骨張った肩に落ちる。
「……失礼します」
低い声。
彼は私の正面に静かに盆を置いた。木椀からは、薄いスープのやさしい匂いが立ち上る。
スプーンを取るより先に、私は口を開いた。
「なぜ、庇ったの」
ノアは一拍だけ目を伏せ、すぐ顔を上げた。
灰色の瞳は、曇り空の色に似ている。けれど曇りは、雨と同じで、どこか透明だ。
「その質問は、あなたが答えを選んでしまう気がします」
「……私が?」
「あなたが、強さだけで世界を測るから」
胸の中の何かが、きゅっと縮む。
私の背筋の硬さを、彼は見抜いている。
私はスプーンを取った。スープをひと口。温度が喉の奥を滑っていく。塩は控えめで、出汁の甘みがじんわり広がる。戦場で覚えた味ではない、家の味だ。
思わず、二口、三口と運んでしまう。
彼はその数を、指先でそっと数えているように見えた。
「……生き延びるには、体温が要ります」
「兵士に教えるような台詞ね」
「兵士ではないやり方も、あります」
彼は椅子を引き、私と卓を挟んで座った。
座る動作は、紙を揃えるみたいに静かで正確で、どこにも無駄がない。
私は気づく。彼の右手の甲に、うっすらと赤い筋があった。
雨の断罪台で見えた、見えない布――庇護術〈ヴェール〉。古い護符術の噂を、私は訓練所の壁に残された落書きで知っていた。攻撃ではなく、傷を引き受ける術。使い手は少ない。女の戦場では、見せ場にならないから。
「さっきのは、何?」
「古い布です。家で習いました」
「家?」
「母方のほう」
彼は、そこまで言って口を閉ざした。
やわらかな沈黙。スープの湯気と、濡れた髪の匂いが混ざって、部屋は小さな台所みたいになった。
私は、息をひとつ吐き、椅子の背にもたれた。
「あなたには……笑われたでしょう」
「少し」
「怖くは、なかったの」
問いは、私自身への問いでもある。
ノアは考えるように、左の親指の爪を人差し指で撫でた。癖なのだろう。
そして首を横に振った。
「怖かったです」
「それでも、前に出た」
「前に出ないと、守れませんから」
言葉は短いのに、しみこむ。
私が、剣を持ってもなお取りこぼしていた言葉。前に出ることの理由を、私はいつも“勝つため”と結びつけてきた。彼の理由は、もっと小さくて、もっとまっすぐだ。
私は、笑ってしまった。力が抜けた笑いだった。
「あなたのほうが、よほど騎士みたいね」
「似合いません」
彼は照れたわけでもなく、事実として言った。
私はスプーンを置いた。木の器の底に、出汁の光が揺れた。
「……ありがとう」
「はい」
「あなたの名前、まだちゃんと聞いていないわ」
「ノア。ノア・リース」
短い名。紙の角のように簡素で、引っかからない響き。
私は繰り返してみた。ノア。舌の上で短く跳ねる。
彼は、ほんのわずかに口角を上げた。笑った、というより、受け取った、という顔。
そのとき、戸が小さく叩かれた。
侍従長ミレイの声は、乾いた紙の音のように簡潔だ。
「リアナ・エルヴェ。処分は保留。監視つきの仮宿に移す。監視は――」
ミレイは私の背後に視線を置き、微かに眉をひそめる。「ノア・リース。あなたが兼ねる」
「え?」
私とノアの声が、同時に重なった。
ミレイはわずかに口元を動かした。笑った、と言えなくもない。
「常識の番人に見張らせるより、非常識をした当人に見張らせたほうが、何が非常で何が常か早くわかる」
「皮肉ね」
「事務です」
彼女は、手短に説明をして去った。鍵が鳴り、戸が閉まる。
ノアは、盆を抱え直し、微かに首を傾げる。
「……ご迷惑なら、別の人に」
「迷惑じゃないわ」
口が先に動いた。
ノアは目を慎重に瞬いた。私は慌てて付け加える。
「だって、あなたは、私を見張るのではなく――」
「守る、つもりです」
それは、雨の下で聞いたのと同じ声だった。
私は頷いた。頷く動作に、少しだけ震えが混ざる。
守られることは、こんなに体温を必要とするのか。私は今日、初めて知った。
*
仮宿は、宮廷の北棟にある空き部屋だった。
窓は細く、庭は遠く、床板はささやき声で鳴く。
ミレイの用意した最低限の調度――机、寝台、棚、薪。
ノアは、部屋の隅に小さな火を起こし、濡れたマントを丁寧に絞った。
「湯を沸かします」
「あなたが?」
「台所は、男の戦場ですから」
私が眉を上げると、ノアは少しだけ困ったように笑った。
火が小さく鳴り、やがて金の縁取りを持ち始める。
彼は手早く薬草を包丁で刻み、袋から取り出した干し根菜を砕いた。包丁の音は、剣の音とは違う。もっとやさしく、同時に、確かな意味を持つ音だ。
「戦の前は、脂を避けます。味は薄く、けれど温かいものを」
「戦、ね」
「あなたが戦うなら、僕は準備をする」
「私が戦わないなら?」
「その準備を、もう少し良くする」
変わらない。
彼の言葉の芯は、状況で揺れない。そこが恐ろしく、そして救いだった。
湯気が立ち昇る。
私は右手を火にかざし、左手で濡れた髪を束ねる。指にからむ髪の重さは、今日一日でずいぶん増した気がした。
ノアが布を差し出す。清潔な布だ。
受け取って髪を拭くと、布から乾いた陽の匂いがした。どこかで、よく干してある。
「あなたの家は……どこ?」
「北の布の町です」
「布?」
「織りと、縫いと、紋。布は、ただ覆うだけではなく、意味を結びます」
「意味」
「庇護も、意味の結び目です」
彼の言葉は、糸で縫うみたいに、こちらの皮膚へ静かに入ってくる。
私は布をたたみ、卓の上に置いた。掌がじんわりと温かい。
彼の手の甲――そこにうっすらと見えた赤い筋が、ふいに意識の表面に浮かぶ。
「さっき、あなたの手に傷が」
「大したものでは」
「ヴェールの、代償」
ノアは、ほんのわずかに間を置き、頷いた。
火がぱちりと弾け、私の心も小さく跳ねる。
「痛みは、移ります。完全ではないけれど。僕のほうに」
「じゃあ、私は――」
「助かります」
「あなたが、痛むのに?」
「僕が痛むことを、あなたが怖がらないなら」
不意に喉がつまった。
私は、両手を膝に置き、そこに視線を落とす。膝の上で、掌がひらく。
正しい返事を、私は訓練で教わらなかった。
勝利の合図は覚えている。命令の返答も覚えている。けれど、「守られる」という状況での言葉は、私の中にまだ作られていない。
「……練習、したい」
「練習?」
「守られることの。うまくできないから」
ノアは目を大きくも小さくもせず、じっと私を見る。
それから、立ち上がり、部屋の真ん中に来て、右手を差し出した。
「手を」
私は、少しだけ迷って、彼の手を取った。
彼の手は薄い。けれど、骨が確かで、掌はほの温かい。
指と指が、恐る恐る絡まる。絡ませる、という動作を、私は剣の柄ではないもので初めてした。
「合図を決めましょう」
「合図?」
「怖いとき、退きたいとき、やめたいとき。言葉が追いつかないときに、使う合図です」
私は考え、首を振る。
「あなたが決めて」
「では、こう」
ノアは、私の親指の爪を、やさしく二度、押した。軽い、印。
それから、私の手の甲に、額をそっと触れた。
触れた時間は、ほんの一息。
けれど、その間に、心臓の音がもう一つ増えた気がした。
「恐くても、手を離さない。――僕が、離さない」
私は、頷いた。喉が焼けるみたいに熱い。
火の粉がひとつ、床で消える。
外の雨は、まだやまない。けれど、部屋の中の湿り気は、少しやわらいだ。
*
夜半、窓の外で人影が動いた。
庭のほうから、猫の鳴きまね。次に、衣ずれ。
私は反射で立ち上がり、枕元の短剣を――無い。そうだ、武器は没収された。
代わりに、手近の薪を握る。
ノアが、布の音を立てずに動いた。
彼は私の前に立ち、手を上げる。掌が宙の一点を撫でた。布の縁がめくれるように、空気の手触りが変わる。
次の瞬間、窓を打った黒い影が、見えないものに柔らかく弾かれた。
鈍い呻き。走り去る足音。
私は息を吐く。腰が抜けそうになるのを、膝に力を入れて堪えた。
「暗殺、未遂」
「……すみません」
なぜ謝るの、と言いたかった。けれど、出た言葉は別だった。
「痛い?」
「少し」
ノアは、額に汗を浮かべている。息は乱れていないのに、指の先だけが微かに震えていた。
私は、手を伸ばし、彼の手首を両手で包んだ。
彼の脈が、浅く、速い。
私は、合図を思い出す。彼の親指の爪を、二度、押した。
ノアは、ふっと息を吐き、笑みとは言えない穏やかさを目に宿した。
「大丈夫です」
「私も、大丈夫。……練習の、成果」
「はい」
そのとき、戸口が開き、侍従長ミレイが入ってくる。
後ろには数人の女兵が続き、庭へ散っていく。ミレイは部屋の窓を検め、床を見、私たちの立ち位置を見、最後に私とノアの手を見た。
「手を、離しなさい」
私は、思わず握り直した。
ノアは、私の手をやさしくほどき、ミレイに向き直る。
「侵入者は南壁へ逃走。痕跡は薄く、内通の可能性は――」
「黙っていなさい、書記風情」
ミレイの声は冷たい。けれど、冷たさの底に、複雑な温度がうごめいている。
彼女は私を見て、目を細めた。
「リアナ。あなたは明日、再審に立つ。剣は持たない。言葉で立ちなさい」
「……はい」
「付添は、ノア・リース。あなたの判断で、保護の術を使ってよい。ただし、命より誇りを守るような真似は、どちらにもさせないこと」
ミレイはそう言って、踵を返した。
扉が閉まる音が、今夜の雨の中で一番乾いていた。
ノアは、私のほうを見た。
私は、深く、息を吸った。胸の奥に、明日の重さが沈む。
私が強さの定義を改めなければ、明日は負ける。勝ち負けではなく、私自身が崩れる。
「……ノア」
「はい」
「明日、私はあなたの後ろに立つ」
言いながら、心臓が跳ねる。
その言葉は、この国の常識では「敗北」を意味する。女が後ろに立つことは、弱さとみなされる。
けれど――私は、負けたくない。
自分の心に。
あなたが見せた“前に出る理由”に。
「守られることを、選ぶ。だから、私の背中は、あなたに預ける。……いい?」
「はい」
ノアは、うなずき、そっと一歩、近づいた。
彼の手が、ためらいがちに私の肩に触れる。
肩の骨に、安心が入ってくるみたいだった。
「恐くても、手を離さない」
「うん」
「僕は、離さない」
「……うん」
雨はやまない。
けれど、私の中で、嵐の目が少しだけ静かになった。
私は寝台の端に腰を下ろし、濡れた外套を脱ぎ、布を肩にかける。ノアは火の番をしながら、静かに椅子に座る。
眠りは浅かった。けれど、何度目かに目を開いたとき、火はまだかすかに生きていて、ノアの横顔も、かすかに生きていた。
彼の手の甲の赤い筋が、火の光にわずかに浮かんだ。
それが何に由来するか、私はまだ知らない。
どれほど古い痛みが、どれほど深く彼の中に沈んでいるかも、まだ知らない。
ただ、ひとつだけ知っている。
明日、私は彼の後ろに立つ。
それが、私の「前へ」のかたちだ。
そして、――その背中の痣を、私はまだ知らない。
*
《次回予告》
第2話「借りた背中」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます