5話 いつかへと送られた手紙


 それからは、午前中奈々さんがおれの部屋を掃除するタイミングで質問をする流れが出来た。改めて初めから解き直してはいるものの、どうにもマイナスの理屈が呑み込めない。同じような質問をして、似た様な答えと違った考え方を教えてもらう。


「マイナスで数字が引かれるのはいいんですが、マイナス引くマイナスでマイナスに行くくせに、かけるとプラスになるのはどういう了見ですか?」

「なんだい難しい言葉を使うね。君は理解できるまで理屈を呑み込まないタイプみたいだ。これは厄介な御仁だ」

「御仁って何ですか?」

「あとで辞書を引きなさい。それよりも、数学にはルールがあります。赤信号は止まれ、青信号は進んでよい、黄色信号は止まれないなら進むべし。ということを知っているでしょう? なんでとか、考えたことある?」

「ないです。黄色はそういう意味なんですね」

「それも調べておいて。で、君は知っていることのルールはおとなしく従うのに、新しく知ったルールは納得できないと言う……」


 ジトっと奈々さんに睨まれる。しかし俺もここは引けない。目に力を入れて見つめ返す。


「にらめっこじゃないんだから、さっさと解いた解いた。真面目にね、そうやって覚えて行かないとついていけなくなるよ? 今はわからなくても、使えば馴染むものだからね。変な使い方をすればおかしなことになるのもわかるでしょう?」


 変なトレーニングをすればおかしな体型になる。そういうことだと思うけど、筋トレならどこがどこに効くかは分かるからなぁ。俺の納得していない顔を見て奈々さんはため息をつく。


「疑問を覚えておくのはいいことだよ。でもね、簡単なことほど証明が難しいこともあるんだ。だから今君が持っている疑問は、これから先高校や大学に進んだ時に分かると思うよ」

「……それってすごい先の話じゃないですか。覚えていられる自信がないです」

「ノートにでも書いておけばいいよ。どうせ必殺技とか書いたノートがあるんでしょう? そういうのと一緒にしまっておきたまえ」

「そんなのないですけど!」


 どうかなと奈々さんは取り合わない。挙句、どこに隠してるのかなと棚をあさり始める始末。初対面の時にはもっとキリっとしたお姉さんに見えたのに、今じゃ同級生みたいにはしゃいでくる。別に嫌ではないけれど、ちゃんとしている時と不真面目な時でふり幅がありすぎて奈々さんがよく分からなくなる。あんまりよくわからないけど、もし俺に姉がいたらこんな風だったりするのかな?


 鼻歌まじりにポンポンとはたきを棚に並べた本にかけていく。

 

「なかなか今時珍しいラインナップだね。漫画日本の歴史に、漫画世界の歴史、世界の偉人シリーズ。ふふ、私も後で読ませてもらっていい?」

「好きにして下さい。父さんのお下がりなんです」


 棚の中段には俺の好きな雑誌や本が並ぶ。こっちも読ませてって言わないかなとチラチラ奈々さんをみたが、俺からすると信じられないくらい興味なさそうにはたいていた。んん、女子はみんな筋肉が好きと言われてたけど、やっぱりあれは大袈裟な話だったんだな。俺にマッチョ志向を教えてくれた友達のことを思う。今更仕舞うのも揶揄われそうで、出しっぱなしの写真を眺める。今頃は俺と同じく課題に四苦八苦しているのかもしれない。それともさらりと終わらせているか。彼女は頭が良かったから、終わらせているかもな。そんな想像をしていたらやる気が出てきた。ペンを握る手に力を込め、いざ課題に向き直る。

 

 しかしやる気というのは出た瞬間に横槍を入れられるものだ。

 バタバタと紙や本の落ちる音。そちらを見れば気まずげに奈々さんが苦笑いしている。


「いや、ちょっと気になるのがあったもので……」


 手に持っているのは一冊の文集。俺が卒業するときに配られたやつだ。自分の書いた文章が載っているのが嫌すぎて一度も開かないまま放り出していたやつだ。恥ずかしいから父さんたちにも存在を知らせていないそれを、口元をにやつかせた奈々さんが持っているわけで。


「見ても、いい?」

「ダメって言って諦めるんですか?」

「そりゃどうしても見られたくないならね。でもでも?」

「もういいですよ。俺からすればポスターも写真も見られて、どうでもよくなってますからね」


 許可を得るや否や、俺のベッドに座ってペラペラと文集を捲り始めている。まあいいか、課題をやろう。あまり楽しくない現実から逃避するように、俺のペンはスラスラと動くのだった。


 ***


「ねぇ、君が筋肉付けようって思ったのは、木崎さんの影響?」


 読み終えた奈々さんは俺の傍に立ち、机の上の写真を指差す。

 肩まで伸びた黒髪といい笑顔。木崎茜。小3からずっと一緒のクラスだった、俺の友達。


「よく分かりましたね。というか、名前まで分かるんですね」

「君、さては文集読んでないな? これ読んだらすぐに分かるのに」

「自分の文章って恥ずかしくなるので読みたくないんです。というか、木崎は筋肉について書いていたんですか」

「ネタバレになるから言えないけど、部分的にイエス」


 なんだそれ。

 写真を取り上げて、まじまじと木崎の顔を見ている奈々さん。


「写真見たいなら卒業アルバム出しましょうか?」

「えっ見たい!」


 これみよがしにため息をついて、押し入れに向かう。別に構わないけど、なんで昔の写真を見られるのは恥ずかしく思うんだろうな。


「あれ?」

「今度はなんですか? 今出しますから大人しく待ってて下さいよ」

「そうじゃなくて! これ、多分手紙だよ」


 手紙? なんのことやら分からない。押し入れに突っ込んでいた頭を抜き出し、奈々さんを振り返る。文集は結構いい装丁で製本されていて、カバーもついている。そのカバーを取った素の文集を奈々さんは俺に向けて掲げている。簡素なタイトルだけが印字されている文集のカバー裏、その裏表紙。


 そこには1通の封筒が貼り付けられていた。


***


 白の下地に桃色のラインが入った封筒。たまに家に届く両親宛の茶封筒とは違って、柔らかな色合いだ。そしてその色合いを好む人間を俺は1人だけ知っている。


 無言のまま文集を受け取る。封筒はきっちりとテープでくっつけられている。キャラクター物の、何度も貼れる後に残らないテープ。これは小4くらいの時にクラスで流行ったやつだ。みんないろんなところに貼り付ける物だから、学校に持ってくることがあっという間に禁止になったやつ。


 ぺりぺりと丁寧に封筒を剥がす。表と裏を見るけれど、どちらにも名前はない。


「開けます。誰からかは、多分分かってますけど」


 中には3枚の手紙。両面に書かれている。下の方にはP1とページ番号が書かれている。見れば、1枚目の裏面はP4。どうやら3枚目まで書いてから、書き足りずに1枚目の裏側を使ったらしい。可愛いものとか、文字の書き方にこだわるくせに、そういうところが雑なんだ。


 手紙から目を離すことなく机に戻る。1枚目の一行目。こう、書いてあった。


 "この手紙、陽真君はいつ見つけたかな? もう大人になってたりしてね"


 ***


 しばらく黙って手紙を読んで、もう一度頭から読み返した。そして今日何回目かのため息。多分、人生で一番深かったと思う。


「やっぱり、木崎からでした」

「えっと、なんで隠してあったのかとかも、書いてあった? ううん、答えなくていいよ。それは君宛の手紙だもの」

「別に気にするようなやつじゃないと思いますけど。でも、それなら黙っておきます」


 手紙を丁寧に折りたたみ、変に折れたりしないように慎重に封筒に戻す。どこにしまうべきか考えて、とりあえず写真の隣に置いてみる。どうにも違う気がする。引き出しに入れてみたり、文集に挟んでみたりするけどどうにもしっくりこない。


「ねぇ、しまうのはいいけど、返事は書かないの?」

「……返事ですか?」


 その発想はなかったな……。そうか、手紙だものな。童謡のヤギでさえ返事を書くんだ、俺も返事を出さないといけないんだな。


「そうそう。なんで隠していたのか、どんな気持ちで手紙を書いたのかは分からないけどね、送られた君はちゃんと答えてあげないとね」


 じゃ、私は業務に戻るよ。そう言うとはたきをバトンのように回しながら奈々さんは俺の部屋を出て行った。

 扉が閉まるのをぼんやり見ている。そして、もう一度手紙を取り出す。丸っこくて、それでいて大きなハネが特徴的なその文字を目で追う。今度は、一文字一文字を噛み締めるように。


 ***


 手紙なんてまともに書くのは初めてだった。だから困る。これは、何を書けばいいんだ? 頼りにしたかった奈々さんはさっさと部屋を出て行った。掃除をするって言ったのに邪魔をするのも気が引ける。それに多分教えてはくれないだろう。手紙を送られた俺自身が、ちゃんと書かないといけないんだ。


 レポート用紙に、勢いよく一文字目を書きつける。黒のボールペンがくっきりと白い紙に跡を残す。


 "やってくれたな、木崎"


 一行目はそれだけ。これが俺が本当に思ったことだから、これでいいんだ。ぐるぐるとこの手紙の意味だとか、なんで隠したのかとかを考えている。でも、はじめに読んだ時に思ったのはただそれだけ。これでいいんだ。これがいい。多分、木崎は笑ってくれるから。


 頭に浮かんだ言葉をそのまま紙に写す。難しい言葉も、綺麗な表現も一切なく、ただ手紙の返事を書く。手紙について、中学について、新しいジュニアプロテインについて。そして木崎について。

 するすると3枚きっかしで書き上げた。読み返せば破りたくなりそうな、俺の本心がそこにある。ただ、何か物足りない気がした。

 そうか、これを忘れちゃダメだったな。用紙の最後、一番下の余白にただ三文字を追加する。


 "またな"


 帰り道、いつもの曲がり角で、そう言って次の日の約束をしていたもんな、俺たちは。

 

***


「奈々さん、切手ってどこに――」


 部屋を出て奈々さんを呼びながらリビングに向かう。あれ、もう帰っちゃったかな? いつの間にかお昼を回っていたから、帰っていてもおかしくはない。俺が集中している時はご飯の準備を済ませて書き置きしていることもあるから。


 一応リビングを覗くとマグカップ片手にゆったりとソファに座る奈々さんを見つけた。


「あれ、書き終わったの?」

「はい。なので切手を貼りたいんですけど、しまってある場所わかりますか?」


 自分の家なのに奈々さんに聞くのはちょっとどうかと思う。案の定、奈々さんは俺を呆れたような顔で見てくる。マグカップを机に置いて、片手でこめかみを抑える仕草までしている。流石に自分の家のことに無関心すぎたかな。


「あのねぇ……。そういう手紙はね、直接渡すべきだよ」


 思いもよらぬ発想だ。手紙なのに手渡し。直接会うなら話せばいいだけなのではなかろうか。しかし奈々さんはそう思わないらしい。


「男の子はあんまり手紙の文化なさそうだもんねぇ。特に君は」


 何も言い返すことができない。だが、考えてみてほしい。俺が真剣に、本気で手紙に向き合った結果がこの3枚の紙にまとめられている。これを、手渡すの? その場で読まれるんだよ? これを。

 考えただけで冷や汗が出る。今更ながらにとんでもないものを書いたような気がしている。


「怖気付いているな? でも、周りのこと一切気にしないくらい、真剣に手紙を読んでたろう? 届けられた気持ちに応えようと時間も忘れるくらい集中していたんだろう? なら、その気持ちを手紙と共に伝えて上げたらいいよ。卒業以来会ってないんでしょ? いいきっかけじゃない」


 ――話したいこと、書ききれないくらいあるでしょ?


 手元の紙をみる。レポート用紙3枚にきっちり詰めて書いた俺の気持ち。たくさん書いたなぁと思っていたけど、こんなの全然だ。ペラッペラ。俺の話したいこと、聞きたいこと、伝えたいことが1/10もない。

 木崎の顔を思い出す。そうだ、俺は気持ちを伝えるとか、そう言うのは別にどうでもいいのかもしれない。ただ、木崎の声が聞きたくて、それで手紙を書いたんだ。また一緒に遊ぼうと、最後に書いた三文字のために。


「……ちょっと出かけてきます」

「ん、行ってらっしゃ──待った待った。君、そんな封筒で送るつもりだったの?! ほら、せめてこっちの封筒をお使いよ。流石に友達に送る手紙に茶封筒はないよ。それに、部屋着のままじゃなくて、ちゃんとした服に着替えて行くこと」


 自分の姿を見る。中学のハーフパンツとよれたTシャツ。確かに。俺は頷いて、着替えることにした。

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