第5話 再会

病院から家に戻った。

玄関の鍵を回す音が、妙に懐かしく感じられる。

扉を開けると、ほこりの匂いが鼻をついた。

久々の我が家──その空気は、どこか落ち着く。

けれど、リビングに足を踏み入れた瞬間、思わず言葉を失った。

部屋の中は、まるで嵐が通り過ぎた後のようだった。

ソファのクッションは散乱し、テーブルの上には未開封の郵便物が山積み。

キッチンには洗い物が残り、床には脱ぎ捨てられた衣類が点々と落ちている。


「とりあえず、家の片づけをしようか」

僕が言うと、敦子は申し訳なさそうに頷いた。

「そうね……ごめんなさい。こんな状態で」

「気にしなくていいよ。心配かけて、ごめんね」

二人で手分けして片づけを始める。

敦子は黙々と動きながらも、どこか機嫌が良さそうだった。

その瞬間──僕の耳に、軽やかな音が響いた。

澄んだベルのような音。

高く、柔らかく、心地よい。

これが、進化の力──「感情を音で感じ取る能力」なのだろう。

病院では静かな環境だったせいか、はっきりと感じることはなかった。

けれど今、敦子の感情が音として僕に届いている。

彼女は、今──穏やかで、嬉しい気持ちなのだ。

一週間ほど入院していたが、強盗はまだ捕まっていない。

警察からも進展はないと聞いている。

ただの通り魔だったのか?

それとも、僕を狙った何かだったのか?

僕のような人間が襲われる理由なんてあるのだろうか。

お金も持っていなかった。

取られたのはカバン、携帯電話、そして財布。

携帯は敦子がすぐに止めてくれた。

電子マネーが少し入っていた程度で、現金はほとんどなかった。

実質的な被害は、ほぼゼロに近い。


「はい、これ」

敦子が新しい携帯電話を差し出してくれた。

白くて薄い、最新型のスマートフォン。

「ありがとう」

手に取ると、画面が優しく光る。

設定をしながら、ふと考える。

友達の番号はすべて失われた。

でも──友達と呼べる人がいたかどうかも、正直怪しい。

仕事関係の連絡先さえあれば、今の僕には十分かもしれない。

「お昼、どうする?」

敦子が声をかけてくる。

「食べにでも行こうか」

「そうね」

二人で近所のファミレスへ向かう。

秋の風が心地よく、街路樹の葉が少しずつ色づき始めている。

歩きながら、すれ違う人々の感情を耳で感じ取る。


高音──機嫌が良い。

中音──平常心。

低音──不機嫌。


基本はこの三段階。

慣れれば、もっと細かく聞き分けられるようになるのかもしれない。

敦子は、相変わらず軽やかな高音を奏でている。

彼女の隣を歩くと、まるで音楽の中にいるような気分になる。

そのとき──

目の前から、顔色の悪い男が歩いてきた。

パーカーを深く被り、目元は陰に隠れている。

すれ違う人々とは違い、彼からは非常に低い、重たい音が響いていた。

不機嫌──というより、怒りと苛立ちが混ざったような、濁った重低音。


「まったく……やっとロック解除したのに、全部止められてるじゃないか」

「役に立たねぇ……」

男はぶつぶつと独り言を呟いている。

すれ違いざま、目が合った。

「なんで……?」

男の目が見開かれ、僕を凝視する。

その瞬間、背筋が凍った。

──こいつだ。

直感が告げていた。

この男こそ、僕を襲った犯人だ。

「敦子、走って!」

僕は彼女の手を握り、駆け出した。

「ちょ、ちょっと、どうしたの?」

背中に、男の冷たい視線を感じる。

そして、耳には嫌な重低音が鳴り響いていた。

「とにかく走って!」

「……あいつだ! 僕を襲ったのは!」

敦子が僕の手を振り払い、立ち止まった。

「え……?」

彼女の身体から、甲高くも腹の底に響くような音が聞こえた。

怒り──それも、深い怒り。

「ダメだ!」

僕は彼女の手をもう一度握り、強引に引っ張って走った。

路地を何度も曲がり、男の姿が完全に見えなくなるまで走り続けた。

「はぁ……はぁ……」

息が切れ、足が震える。

「なんで止めるの?」

敦子が問いかける。

「危ない。敦子に何かあったら……」

「警察に届けましょう」

「……そうだね」

二人で警察署へ向かい、被害届を提出した。

だが、証拠はない。

写真もない。

記憶と直感だけが頼りだった。

「人相は……こんな感じで」

僕はできる限り詳細に説明したが、警察の反応は慎重だった。


──ぐぅ。

腹が鳴った。

犯人に遭遇し、警察に届け出をしていたため、昼食をすっかり忘れていた。

さすがにこの状況で、楽しく外食という気分にはなれない。

「コンビニで何か買って帰ろうか」

「そうね」

家に帰った初日。

久々の我が家で、穏やかな時間を過ごすはずだった。

けれど──

再会は、思いがけない形で訪れた。

そして、進化の力は、確かに僕を守った。

だが、それは同時に、過去の影を呼び起こすものでもあった。

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