第36話 総理、国会に挑む


 迎えた予算委員会当日。

 国会議事堂の総理控室には、張り詰めた空気が漂っていた。

 迅一郎は椅子に座り、バインダーに閉じられた分厚い資料に目を落としていた。


 今日の予算委員会で各議員から質問される予定の質問通告書。


 当然、その多くは今回のスキャンダルを受けて過熱した“首相秘書官との関係疑惑”、そして“エリクサーを巡る疑念”に関するものばかりだ。


 白い紙にずらりと墨のように並ぶ文字列は、どれも容赦なく彼に突きつけられる刃のように思えた。


「はやくも正念場だな、和泉総理」

「……官房長官」


 迅一郎の左隣に座る国継が、まるで他人事のように肩をすくめた。


 就任間もない総理に対するスキャンダル。

 それは本来、内閣の存続すら揺るがしかねない重大事だ。


 だが、官房長官の国継には焦りも動揺も、微塵も見えなかった。


 その態度が何を意味するのか。

 あえて、迅一郎は言葉にすることをしなかった。


 そのとき、入口扉からノックの音が響いた。


「失礼します——」


 控えめに開かれた扉の向こうから入室したのは、結月だった。

 彼女は、迅一郎と国継に短く一礼をしたあと、告げた。


「総理、委員会開始まであと五分です」


 迅一郎は質問通告書を閉じ、深く息を吸う。


「行こう」


 椅子を静かに引き、立ち上がった迅一郎は、深く息を整えながらスーツの上着に袖を通した。

 結月の先導に従い、控室を出て長い廊下を進む。

 歩くたびに刻まれる靴音が、研ぎ澄まされた緊張の空気に吸い込まれていく。


 その先に、待ち受けるのは、衆議院第一委員会室へ続く大扉だ。

 古びた木目が重厚に刻まれ、その存在だけで敷居の高さを物語っている。


 扉の向こうからは、幾百もの人の気配を感じる。

 先を歩く結月が、重厚な両開き扉を押し開けた瞬間、議場特有のざわめきと熱気が一気に迅一郎を包みこんだ。


 議員席はもちろんのこと、傍聴席も満席。

 無数の視線が、一斉に注がれる。


 四面楚歌。


 あえて今の議場の空気感を一言で表すとすれば、その言葉がふさわしい。


 迅一郎はその視線を受け止めながら、落ち着いた足取りで政府側席へと向かい、中央の椅子に腰を下ろした。

 その左隣に国継が静かに座る。


「和泉総理、お疲れ様です——」


 ふと背後から声がかかり、迅一郎は肩越しに振り返った。

 声の主は厚生労働大臣の福地だった。


「正念場ですが、頑張りましょう」

「ええ、よろしくお願いします」


 独りではない。

 心強い味方がいる——


 その事実が、胸の奥に小さな灯をともした。


 ――カンッ。


 委員長の木槌が打ち鳴らされ、鋭い音が議場に響き渡った。

 迅一郎は視線を委員長席に引き戻す。


「これより、予算委員会を開会します」


 委員長の宣言とともに、緊迫の時間が幕を開けた。


***


「続いて——国民参政の会、鳴上宗近なるかみむねちかくん」


 委員会進行に儀礼的なやり取りの後、いよいよ質疑が始まった。

 委員長の声が落ちると同時に、野党席の中央で一人がゆっくりと立ち上がる。


 その若い男は、よく仕立てられたスーツの胸元を軽く整えてから登壇した。


 鳴上宗近なるかみむねちか——

 野党第一党、国民賛成の会の若き党首。


 若干、三十一歳――

 その若さと端正な顔立ちに加え、聴衆を自然と惹きつける力強い語り口。

 彼の演説は明瞭明快で、古い政治体制へ真っ向からの挑戦を掲げるものだった。


 その主張のわかりやすさと、政治に関心の薄い層にも届く発信力の高さから、鳴上のSNSでの支持は圧倒的で、若年層を中心に大衆の心をつかんでいる。


 国民賛成の会が、新興政党でありながら野党第一党にまで大躍進した背景には、この男が持つカリスマ性が大きく影響していた。


「……ありがとうございます、委員長」


 ハリのある声が、議場に響く。

 柔らかい口調なのに、不思議と空気を支配するような力が込められていた。


「和泉総理……率直に申し上げて、僕は残念に思っています」


 口元には穏やかな笑みを浮かべたまま。鳴上は語りはじめた。


「本来、貴方とは、政策について語り合いたかった。日本の未来のため、本来議論しないといけない喫水の問題が山程あるのに、肝心の国会が、ワイドショーにメシの種を与えるだけの場になっている。そんな国会を変えたいと思って、私は国会議員になったのですから——」


 そう語る鳴上は声色こそおだやかなものの、瞳からは感情の色が一切見えず、冷たく研ぎ澄まされている。

 その冷徹な眼差しが、真っ直ぐ迅一郎へと向けられていた。


「けれど、今のこの状況。総理に向けられる疑惑の声。国民に対してきちんと説明する義務があります。ですからあえて聞きましょう。先日、週刊誌において報じられた女性秘書官との不適切な関係——ああ、ちょうどいい。本日、そちらに当事者の白瀬秘書官が控えておりますよね」


 議場がざわめく。

 好奇の視線が、政府側席の後方に控えていた結月へ一斉に向けられた。


 鳴上はその反応に応じるかのように、口角をつり上げる。


「あれは虚偽なのか、事実なのか。総理、国民の前で、ここで——はっきりとお答えください」


 迅一郎はまっすぐ鳴上の視線を受け止め、静かに右手を上げた。


「和泉迅一郎くん——」


 委員長の指名の声に応じ、迅一郎は政府側席の答弁台に立つ。


「只今の鳴上委員の質疑にお答えします。写真は事実です。ですが、報道にあったような不適切な関係は一切ありません。あの写真は、休日の夜、娘を遊園地から送り届けた帰り、同行してもらった秘書を自宅前で降ろしたときに撮られたものです。それ以上でも、それ以下でもありません」


 途端、議場のあちこちから野次が飛ぶ。


「苦しい弁明だな!」

「都合のいい説明をするなー!」

「秘書と夜に二人きりはアウトだろ!」


 委員長の木槌が何度も打ち鳴らされるが、場内のざわめきは収まる気配を見せない。

 その喧騒の最中、鳴上はやれやれと言わんばかりに、わざとらしく肩をすくめた。


「あくまでも、疑惑はただの疑惑であると、そうおっしゃるんですねえ。わかりました」


 鳴上は余裕しゃくしゃくの笑顔を浮かべたまま言葉を継いだ。


「ですが総理、あなたは公人中の公人です。女性秘書官と二人きりで親密という誤解をされただけでも……それがすなわち政治不信に直結するんです。真面目に政治をしている我々まで同じような目で見られるんですよ?」


 そして、まるで議場全体を抱き込むように大きく両手を広げた。


「まず、謝罪の言葉があるのが筋なんじゃないですか!?」


 その発言をきっかけに、議場のボルテージが一気に上がった。


「そうだ! そうだ!」

「謝罪をしろ! 謝罪を!」

「我々に迷惑をかけてるんだよ!」


 怒号にも近いヤジが飛び交い、容赦なく迅一郎へ降り注ぐ。

 それは迅一郎という一人の政治家を押しつぶそうとする政治圧そのものだった。


 迅一郎は瞳を閉じて、少しの間逡巡する。


 議場での謝罪が何を意味するのか。

 政治家として、その行為が引き起こす結果を痛いほど理解していた。


 政治家の言葉は切り取られ、曲解され、独り歩きする。

 言葉の意図に重きをおかれることはない。

 発せられた言葉こそが、重要なのだ。


 だからこそ、と、迅一郎は腹を決めていた。


「……謝罪します。週刊誌報道を端に発し、世間に誤解を招いたこと。そのことで政治不信を招きかねない状況になってしまったこと、すべて総理であるこの私の責任です」


 ザワッ、と議場が揺れた。

 鳴上は、してやったりといわんばかりに満足げに頷く。


「では総理。次に国民に対してどのような責任の取り方を考えているのか、お聞かせください。まず、件の女性秘書官については、どのような処分をお考えですか?」


 その問いの直後、傍らに座る官房長官の国継から低い声が届く。


「――切り捨てるべきだな」


 迅一郎は、わずかに息を吸う。

 そして迷いのない声で答えた。


「お答えいたします——先に答弁したとおり、私と白瀬秘書官はなんら不適切な関係にありません。ゆえに、処分など




《TIPS》国会答弁

国会の質疑に対して政府側が公式に回答する行為を指す。主に内閣総理大臣や各大臣が、議員からの質疑に対し法律・政策・事実関係に基づいて説明する場であり、政府の見解を示す重要な手段となる。答弁内容は国会記録に残り、政府の責任や方針が明確化される。

なお、多くの質疑では、事前に議員が「質問通告書」を政府に提出し、その内容に基づいて担当省庁が事実確認や資料作成を行う。






次回、第一章最終話です!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る