疲れた胸の裡を 花瓣が通る

 十二月に入るとすぐに街はクリスマス一色に塗りつぶされています。クリスマスソングが流れ、街頭、街路樹、ところ構わずイルミネーションが施されて、田舎街ながらきらびやかな演出しています。道路を挟む商店もクリスマスらしく飾り立てて街を盛り上げています。

 その雰囲気に合わせるように、行き交う人々もふわふわと浮かれて、華やいで見えます。

 教室の中は、もっぱら受験の話題で持ちきりでした。黙々と机に向かう生徒、グループになってわいわいと騒ぎながらも教え合っている生徒たち、達観したように何もしない生徒、様々な様相を見せていました。

 少数の推薦やAOで合格した生徒たちは、気楽な様子を見せながらもどこか取り残されたような、居場所がないような、居心地の悪さを感じているようでした。

 それでも、冬休みはやってくるわけで、概ね話題はそちらの方に流れていくのでした。冬期講習がみっちりだと言いながらも、なんとかクリスマスと正月には時間を作ろうと足掻く声がそこかしこで上がっています。たまには息抜きも必要でしょう。

 玲花とわたしの孤立は、決定的なものになっていました。

 冷ややかな視線、遠巻きに聞こえる中傷、侮蔑の表情、更に、わたしたちはいないものとして完全に無視を決め込む——。

 玲花とわたしがいる席は、ぽつんと取り残されています。教室のざわめきとはまったくの無縁です。

 そんな状況でも、直接手を出したり、持ち物を隠したり壊したり、いじめのようなことがなかったのはまだマシでした。それは玲花が刃物を振り回すという事件を起こした事実から、なにをしでかすかわからない危険人物と見做されたからなのかもしれません。

 時折、痛々しい視線を投げかけてくるのは、美也乃さん、雪穂、そして沙月ちゃんです。その三人の視線だけは少し辛くはありました。

 そのことを抜きにすれば、わたしたちはそれで平気でした。逆にその状況を歓迎すらしていました。

 ふたりきりで過ごせるのだから、当然です。誰からも邪魔されないのだから、幸福でした。

 お互いに進路も決まって、受験勉強に集中し邁進——、できたらいいのですが、うまくいかないものです。主に玲花の部屋で勉強をするのですが、すぐに脱線してしまうのです。疲れたからお茶の時間と称して、参考書を横によけてしまうと、ぐだぐだした時間の始まりです。お喋りが始まり、勉強など二の次三の次となってしまいます。

 玲花は一流の誰でも知っている大学を目指し、わたしは知る人ぞ知るといった大学を目指します。卒業後、玲花はもともと一人暮らしをする予定だったし、わたしも大学に受かると実家を離れなければならなくなります。大学は違っても、比較的隣接した街にあって、いっしょに住むという夢も現実味を帯びてきたのです。

 それがわたしの心を余計高揚させました。まだ受験すらしていないのに、もう合格した気になっていました。ふたりで暮らすことが確定事項のように、将来設計をはじめたのです。

 お互いが通学しやすい最寄駅を探します。不動産屋のサイトで家賃や間取りを調べます。地図アプリを開いて、駅周辺、物件周辺の様子を調べます。

 スーパーがここにある、これはホームセンターかな、駅にカフェもあるね、ここはお蕎麦屋さんかな、玲花お蕎麦好きだもんね——。

 部屋の家具や家電の種類や配置などにも話は膨らんでいきます。

 夢や妄想ばかりが先走ります。たとえふたりとも志望校に合格できたとしても、いっしょに暮らせるとは限りません。お互いの親が許してくれるかという懸念もあります。

 それでも——、それでも語らずにはいられなかったのです。わたしが玲花と暮らすことを望むように、玲花もわたしと暮らすことを望んでいることを確認したかったのです。

 それでよかったのです。勉強なんて、ふたりで過ごすための理由付けでしかなかったのですから。

 玲花はもともと勉強はできるし、わたしは予備校にも通っているので、そこで勉強すればいいだけでした。

 だから、ふたりきりでも孤独を感じることはありません。むしろ充実していたと思います。

 目の前には玲花がいて、声が聞こえて、手を伸ばせば触れることもできます。誰にも邪魔はされません。

 友達以上には進展しないままでも、この甘やかな日常に、どっぷりと浸っていました。もどかしさを抱えて、歯痒さに身悶えて、そのやり場のない気持ちですら、愛おしく思えてくるのです。

 わたしたちは幸福でした。

 つかみどころのない将来設計を組み立てるのですら、楽しかったのです。

 なのに、いつからなのか、わたしは玲花に違和感を覚えるようになりました。

 その日もわたしたちはパソコンを開いて、不動産屋のサイトを見ていました。

「この間取り素敵じゃない」

 六階建てのマンション、最上階で2LDK、家賃もそこそこで、ふたりでシェアするにしても、明らかに分不相応な物件でした。駅にも十分ほどの距離で、近くに公園もあります。商店も充実しているようで、利便性は抜群でした。

 もちろん、こんな部屋に住めるなどとは思ってもいません。あくまでも、夢の話です。

 だから、より楽しい夢を語るのです。

「部屋割りはどうしようか? やっぱ、ひとり一部屋?」

 玲花の問いかけに、わたしはきょとんとしてしまいました。その顔が面白かったのか、玲花は吹き出しました。

「なんて顔してんの。ふた部屋あるんだから一部屋ずつでいいんじゃない」

「え、でも——」

 わたしは言い淀みます。単純に考えれば、それが一番合理的です。ひとり一部屋なら、プライバシーなどの問題もクリアできます。だけど、そうではないのです。これは夢語りです。だから思い切って言ってみます。

「寝るのは一緒がいいな……」

 今度は玲花がきょとんとする番です。その発想はなかったという表情です。

「深い意味はなくて、ひとりで寝るのは寂しいし、ふたりだとあったかいし——、えーと、あの——」

 言葉が続きません。なにを言っても言い訳じみて聞こえます。

 玲花がにやにやと、わたしをからかおうとする笑顔を浮かべます。

「そうか、日向はわたしとベッドに入りたいのか」

「ベッドに入るだなんて、そういう意味ではなくて——」

「だって、一緒に寝るんでしょ」

「それはそうだけど——、言い方——」

 玲花がわたしの耳元に口を近づけて囁きます。

「日向って、大胆」

 ご丁寧に息を吹きかけてきます。距離を置いて、耳を押さえて、玲花を睨みました。顔は真っ赤になっていると思います。

「だって、いつだって一緒にいたいんだもん!」

 わたしはたまらず叫んでいました。このストレートな言葉に、玲花の顔がぽんと赤くなりました。

「あー、この子ったら——、なんか負けた……」

 玲花は手でぱたぱたと顔を扇いでいます。「ちょっとトイレ」

 そう言って、傍らにあったスマホを手に立ち上がりました。そして、顔を扇ぎながら、トイレに向かったのです。

 わたしは玲花の後ろ姿を見送りながら、勘違いして期待しちゃいそうだよと聞こえない程度に呟いていました。

 玲花にからかわれたり、玲花をからかったり、そこまではいつも通りでした。

 でも、トイレに行くときまでスマホを手にするようになりました。

 これが、わたしの感じた違和感でした。

 玲花が最近スマホを頻繁に気にするようになったのです。以前なら、カバンの中や制服のポケットに入れっぱなしで、特に頓着することもありませんでした。逆にどこにしまったのかと探すことのほうが多いくらいでした。

 それなのに、最近は玲花の傍らには常にスマホがあります。無意識のうちにスマホをちらちらと見てしまっています。今回のように、トイレに行く時ですらスマホを手放さなくなりました。

 それは誰かからの着信を待っているようでした。確信はなくても、なんとなくわかります。

 けれど、玲花はこの街に引っ越しする前に、スマホを新しく買い替えていました。当然電話番号は変わっています。その際、それまでの連絡先は消去されてしまいました。登録されているのは、両親と、緊急連絡先として彼らの秘書もしくはマネージャーだけでした。玲花自身の友人はひとりも登録されていないはずでした。

 だから、玲花にとって、スマホは動画を観たり、調べ物をしたりする道具であって、コミュニケーションツールとしての役割はほとんどありませんでした。わたしとの連絡以外では、もっぱら母親との事務的なメッセージのやり取りがほとんどのはずでした。

 なのに、どうして?

 最初、小さかった不安は、徐々に膨れ上がり始めました。わたしは玲花に聞き出すこともせず、玲花もわたしに話そうとしない。そんな状態が続いています。またわたしは玲花が自分から話してくれるのを待つだけだというのでしょうか。そして、また後悔をするのでしょうか。

 わかっていながら、口にはできません。

 玲花の過去を掴めたと思っても、それはほんの一部でしかないのです。もっと知らなければならないことがたくさんあるはずなのです。

 なのに、躊躇います。現在いまを、未来——夢を守るためには、知らなくてもいいことがあるのではないかと、思い悩みます。

 玲花はそんなわたしの不安に気が付いていたでしょうか。たぶん、気が付いてはいなかったと思います。だから、玲花がなにも話そうとしないのは当然です。玲花自身も、スマホを見てしまうのは、無意識におこなっていたのでしょう。それほど、玲花の気持ちはスマホに向けられていました。

 玲花がトイレから戻ってきました。

 元いた場所に腰を下ろして、スマホをテーブルに置きます。ちらっと画面を確認してから——。

 聞かなければ、早く聞き出さなければ、この不安はそのうちに大きな傷となって、心を裂くかもしれせん。

 だから——。

「クリスマス、どうしようか?」

 口をついて出たのは、まるで関係ないことでした。たった一言、最近よくスマホを気にしてるね、とでも言えばいいだけです。どこまでも臆病なわたしです。

 気楽に、などと思っていたら、もっと気楽な話題を振ってしまいました。

「え、ああ、クリスマスか……」

 なんとなく気もそぞろな玲花。本人にそのつもりがなくても、わたしには感じられます。

 わたしとのクリスマスよりも、他に気になることがあるのです。だから、それを聞き出さなくてはならないのに、わたしは玲花の様子を見て見ぬふりをしてしまいます。

「うん、クリスマス。この前も話したけど、希望ばかりで具体的になにも決まってないし」

「そうか。もうすぐだもんね。——でも、そんなに余裕を見せてていいのかな?」

 玲花はくすくすと笑います。それは普段通りの様子で、わたしは内心、ほっと息をつきました。

「いいの。クリスマスは特別だから」

 そう、理由なんてなんでもいい。ふたりで過ごす口実が欲しいだけ。

「なにか案はあるの?」

 玲花がちょっと体を乗り出しました。

「ほんとは少し遠出して、イルミネーションとか見に行きたいなって思ってたんだけど、受験生だし、自粛かなって」

「イルミネーションなら素敵なところ知ってるんだけど、ここからなら、少し遠いかな。電車に乗って行かなきゃいけないし。去年のクリスマスに行ったんだけど、日向にも見せたいな」

 玲花はにっこりと笑顔を見せます。イルミネーションも気になるけれど、それよりも誰と言ったのかが気になります。そんなところにひとりで行くはずがないし、もしかして彼氏と……、などと今まで想像もしなかった影が思い浮かびました。

 玲花なら彼氏がいても不思議ではありません。それどころかいないほうが不思議なように思います。彼氏の存在を思いつけなかったところに、女子高という環境と、わたし自身の経験不足があります。

 もしかして、スマホを気にしているのも、彼氏からの連絡待ちなのかもしれません。どうにかして、お互いに連絡先を知ることができたのではないでしょうか。

 再会の約束を待っている?

 その考えに、わたしは叫び出しそうになりました。

 だから、わたしはなるべく楽しい話題を作らなければなりません。わたしたちの未来さきにはこんなに楽しいことが待っているんだよと、いざなわなければなりません。

「イヴはパーティーしようか」

「ふたりで?」

「うん、ふたりで」

「日向はそれでいいの? 家族と出かけたりしないの?」

「しないよー。ちっちゃい頃はパーティーみたいなことはしたけど、中学生くらいで、もうしなくなっちゃった」

「そっか、そんなもんか。うちなんか、パーティーとかしたこともなかったな。クリスマス時期は歳末商戦とかで特に忙しいみたいだし——、もともとほとんど家にいない人たちだったしね」

 玲花はあっけらかんと笑顔を見せます。そんな境遇が当たり前で、慣れてしまっていることが伝わってきました。

「ねえ、たまには日向のうちで集まろうか?」

 玲花は名案を思いついたかのように、目をきらきらさせています。一方わたしは突然の提案に戸惑います。わたしの家に玲花が訪れるなんて、思いもしませんでした。

 確かに、初めてまともに会話を交わした日、クッキーを作らないかと我が家に誘ったのともありました。しかし、それはほとんどその場の勢いだけで、なにも考えてはいなかったのです。

 わたしの家には両親がいます。パーティーのような食事会ともなると、顔を合わせることになります。

 玲花が極力他人との関わりを避けていると思っていたので、まさに想定外だったのです。そんな玲花がわたしの両親がいるのにも拘らず、家に来ようと言ってくるのです。わたしの戸惑いは当然かもしれません。

 わたしは思ったことをそのまま口にしました。すると、玲花はにっこりと微笑みました。

「いいよ。一度日向の親御さんに会ってみたかったし」

「え、でも——」

 言い淀むわたしに玲花は笑顔を消してしまいました。

「嫌なの?」

「嫌っていうわけじゃないけど——」

「じゃあ、なんで?」

 顔を覗き込むように詰め寄ってきます。「わたしとしては、日向にいつもお世話になっているから、ちゃんと挨拶したいなって思っているんだけど」

「お世話なんて、特別なにもしてないよ」

「そんなことない。食事やお菓子を作ってくれたり、勉強も一緒にしてくれたり、なによりも、わたしと仲良くしてくれているじゃない。わたしはそれが嬉しいし、感謝もしているんだよ」

 それらはすべてわたしが望んでやっていることばかりです。ただ、玲花と同じ時間を過ごしたいから、玲花の笑顔が見たいから、それだけです。

 だから、感謝されるほどのことでもありません。けして、純粋な気持ちだけでやっているわけではないのですから。

 それに、改まって両親に挨拶などと言われると、いろいろ妄想が膨らんできます。

 娘さんとお付き合いしてますとか、娘さんをくださいとか——。

 いくらなんでも飛躍しすぎです。

 けれど、わたしの両親と笑顔で会話している玲花を想像すると、多幸感に包まれます。

 少なくとも、わたしの両親は玲花のことを認めてくれたのだと——。

 突然、玲花のスマホが震えました。着信があったことを伝えます。

 玲花とわたしは同時にスマホに視線を集中させました。短い振動はメールかメッセージなのだとわかります。

 わたしはスマホから玲花の顔に視線を移しました。玲花はスマホを見つめたまま、微動だにしませんでした。

「見ないの?」

「え、あ、うん。——どうせ母からだと思う。最近、受験勉強をちゃんとしてるかって、うるさくて」

 無難な返答のように感じました。この時期だし、離れて暮らしているから、特におかしな返答ではありません。

 なのに、それ以降の玲花はそわそわと落ち着きがなくなったように見えます。スマホを見たいけれど見ないようにしている、そんな焦ったさも感じます。

 その玲花の様子に釣られるように、わたしも落ち着かなくなってしまいます。

 変にぎこちない空気が流れます。玲花の意識をわたしに向けさせなければなりません。クリスマスの話題に戻します。

「わたし、クリスマスは玲花の家で過ごしたいな……」

「どうしてわたしの家にこだわるの?」

「それは、初めての玲花と一緒のクリスマスだから——」

「だから?」

 玲花が詰め寄ってきます。ここまで言っているのに、玲花は察してくれません。恥ずかしい台詞を何度言わせようとするのでしょう。それとも、わざと言わせようとしてる?

 わたしは上目遣いになって、玲花を睨みつけました。でも、玲花は、と小首をかしげるだけで、なにも届いてはいないようでした。

 わたしは睨むのをやめて、視線を外しました。小さく吐息をつきます。

「だから——、ふたりっきりで過ごしたいな、って……」

 しばしの沈黙。

 なんの反応もしてこない玲花をちらりと見てみます。

 思った通り、顔を赤くしています。さっきトイレに行ったばかりなので、今度は逃げ場を見つけられないのか、座ったままで深呼吸などしています。

 言った本人も恥ずかしいけど、言われた当人も恥ずかしいという、形容し難い空気が流れます。

「ダメ、かな?——」

 再び上目遣いのわたし。

 玲花はどぎまぎしながら、なんとか平静を取り戻そうと大きく息をつきました。

「——うん、まぁ、初めてのクリスマスだしね——」

「いい、の?」

「いいんじゃ、ない——」

 わたしと目線を合わせないように、そっぽを向いてしまいました。「わたしもほんとは気を使わないですむしさ」

 強がりなような口調で嘯きます。

 わたしはそんな玲花に見惚れてしまいます。

 やっぱり可愛い人だな、と。

 だから、わたしはとびっきりの笑顔で喜びを伝えます。

「やった——! ありがとう」

 これでさっきの着信なんか忘れてしまえばいい。

 そして、口走る余計なひと言。

「玲花、大好き!」

 玲花が驚きの表情で見返してきます。

 わたしだって、驚いています。当たり前のように、とても自然に出てきた言葉。

 だから、これはそんなに深い意味はないはずです。女の子同士が嬉しいことや感謝を伝えるために、よく交わす挨拶のようなものです。

 でも、玲花が大好きだという気持ちに嘘はなくて、それでも重たく受け止めなくてもいいというか——。でも、冗談にはしてほしくないというか——。

 つまり、これは告白とかではなく、やっぱり慣用句的なもので、深い意味もなく、挨拶なので——。

 ダメです。

 思考が同じところをぐるぐる回っています。

 一旦落ち着かなければなりません。

 話の流れからして、告白だと受け止められることはないと思われます。わたしがいつもと変わらない態度を取れば、挨拶代わりのようなものだと思われるはずです。

 わたしの本心をまだ伝えるべきではありません。本気の告白など、勇気はまだありません。恐怖しかありません。

 わたしはぎこちなくならないように気をつけながら、笑顔を浮かべます。

 イマジャナイ——。

「クリスマス、楽しみだね」

 玲花も笑顔を取り戻します。

「日向は大袈裟だなー」

 イツニナッタライイノ——?

「だって嬉しいんだもん!」

「それで、どんなことをして、わたしと過ごしたいのかな?」

 モウ、クルシイヨ……。

 玲花の前では取り繕った笑顔をやめようと決めたはずなのに、今だけは許してほしい……。

「ローストチキンは焼こうと思ってる」

 玲花がおおーと歓声を上げます。

「ローストチキンて丸焼きのやつだよね」

「そうそう、ここのオーブン、性能がいいから挑戦したくなっちゃった」

「ん? 挑戦ということは——?」

「そう、初めてだよ」

 再び歓声が上がります。

「日向ってやっぱりすごい! なんにでも挑戦できるって、すごいよね!」

「やめてよー。そんなすごいことじゃないし、失敗しちゃうかもしれないし」

「でも、やろうとするんだよね。それがすごいって言ってるの!」

「だから、失敗するかもっていってるんだよ」

「日向ならできるよ!」

 なぜか勢い込んで太鼓判を押してくれる玲花なのです。しかも、わたしをおだてて調子に乗せようとしているような素振りがまったく感じられないのです。

 言葉通り素直に感心しているのか、わたしに自信をつけさせようとしているのか、ただ単に食べたいだけなのか。

 全部だろうけど、玲花の気持ちはありがたいものでした。こんなわたしでも、前向きになれます。この人のために美味しいものを作ろうという気持ちになります。

 わたしはがんばるねと笑えるのです。

 そのあとは、他のメニューを決めていきます。まずはわたしの献立から、そして玲花のリクエストを織り交ぜて。豪華に、華やかに、特別な、初めての玲花とわたしのクリスマス。

 楽しく、素敵な思い出になるように——。

 そして、来年も一緒に過ごしたいと思えるように——。


 学校に行くのが辛いなんて、いつ以来でしょうか。遠巻きの視線にも、聞こえよがしの噂や陰口にも慣れたつもりなのに、心の奥底では耐えきれない何かを抱えていました。

 それでも、玲花がいるから、玲花といっしょにいたいから、玲花を守りたいから、それだけの思いで学校に行っていました。

 普段弱音を吐かない玲花が、わたしに縋り付いてまで、不安を打ち明けてくれたのです。そんな玲花をひとりにすることなんてできません。

 わたしとふたりでいることで、玲花の支えになれるのなら寄り添いたいと願います。

 でも、わたしは弱い——。

 教室で、玲花がちょっとした用事で席を外し、ひとりきりになってしまうと、それだけでそわそわと落ち着かなくなり、その場にいたたまれなくなります。すぐに出入り口を見て玲花の戻りを待ってしまいます。

 こんな状態に慣れるものではありません。最近はひとりだと俯いていることが多くなった気がします。不特定多数の視線もざわめきも怖いのです。

 噂が拡散され始めてから一ヶ月以上たちました。新しい情報が披露されることもなく、ある程度落ち着いてきた様子はあります。

 けれど、それはわたしたちを孤立させることが定着してきた証でもありました。

 たまに話しかけてくれる美也乃さんと雪穂、そのふたりでさえ、玲花がいない時を見計らって話しかけてきます。沙月ちゃんは少しは話しかけてくれるようになったとはいえ、ふたりに比べるとその頻度は少ないものでした。それでも、まったくないよりはましなのかもしれません。

 あと三日もすれば冬休みに入ります。二週間程度とはいえ、学校に来なくてもいいという状況に安堵します。三学期になれば、受験が本格的になってきます。わたしたちのことよりも受験に集中しなければならないので、もっと事態が落ち着いてくれることを願うばかりです。

 終業式前日の放課後、玲花とわたしは誰もいない教室に残って、明日の予定を話していました。明日はパーティーの食材を一緒に買いに行く予定になっています。メニューはもう決まっています。

 ローストビーフのサラダ。

 シュリンプカクテル。

 生ハムとクリームチーズのカナッペ。

 メインはもちろんローストチキンです。

 デザートはシンプルにショートケーキ。スポンジはわたしが焼いて、デコレーションは玲花とふたりでします。

 ふたりで食べきれない量ができてしまいます。でも、初めてのクリスマスだから、豪華で華やかなパーティーにしたいのです。

 買い物をノートに書き出し、そろそろ帰ろうかという頃でした。

 教室のドアが不意に開きました。現れたのは沙月ちゃんでした。

 沙月ちゃんは教室に入ろうとして、わたしたちの姿を認めると、入るのを躊躇う素振りを見せました。しかし、すぐに気を取り直して、教室に踏み入れ、自分の机に向かいました。

 わたしは声をかけることができませんでした。緊張と気まずさが入り混じった空気が、わたしを縛り付けます。目を合わせるのも怖くて、沙月ちゃんの動向をちらちらとしか見ることができません。

 玲花はというと、窓の外を見ていました。沙月ちゃんが玲花に話しかけることなんてありませんでした。だから、無関心に窓の外を眺めていたのだと思います。それに、話しかけるとしたら、わたしに、そして玲花が側にいない時にと決まっていました。

 なのに、沙月ちゃんはコートを羽織り、マフラーを巻き、カバンを肩にかけると、出口ではなく、わたしたちの席の方に歩いてきたのです。

 近づいてくる足音に顔をあげると、沙月ちゃんはやけに真剣な表情をしていました。その視線はわたしではなく、玲花を見ていました。まるで決闘に向かうような目付きです。

 わたしは嫌な予感がして、がたりと音を立てて椅子から立ち上がりかけました。それを察した沙月ちゃんは、ちらっとわたしに視線を移すと、だいじょぶだというように、小さく頷いてみせました。

 沙月ちゃんの態度に押されて、椅子に座り直しました。なにも言えないまま、ふたりを見守る状況になっていました。

 沙月ちゃんが玲花の前に立ちます。すぅーと息を吸い込みます。

「雨森さん——」

 落ち着いた声音でした。

 玲花が座ったままで沙月ちゃんを見上げます。自分が話しかけられるとは思っていなかったのか、怪訝な表情を浮かべています。

 二人の視線が合いました。沙月ちゃんはもう一度息を吸い込みました。

「わたしね、あなたのこと大嫌いなの」

 なにを言い出すのかと思ったら、直球を投げつけてきました。さすがの玲花も怒って反論するどころか、きょとんと目を見開いています。

「傲慢で冷徹で気取ってて、全部気に食わない。あの噂のこともあるし、それで日向までクラスで孤立してしまってるし。それをいいことに日向を独占して、いつもべったりなのがものすごくイヤなの」

 沙月ちゃんは息をつぎます。「でも、日向があなたを選んだ。わたしにはわからないあなたのいい所が日向には見えているんだと思う。わたしはあなたなんか信用できない。でもわたしは日向を信じてるから、あなたを認めるしかないの。——だから、日向をお願いします」

「イヤだ」

 沙月ちゃんが言い終わるのとほぼ同時に、玲花は言い放ちました。今度は沙月ちゃんが目を見張っています。

「いきなり話しかけてきたかと思えば、お願いしますって、意味わかんないし。あまりにも一方的だし、日向の気持ちなんて、考えているようで考えてないし。自己チューもいいところじゃない」

「そんなんじゃない!」

「だってそうでしょ。わたしに日向を任せて、自分は身を引きますって。潔くってかっこいいかもしれないけど、日向の気持ちは無視して、——さっきわたしのことを傲慢だとか言ってたけど、藤島さんのほうが傲慢だと思う」

 沙月ちゃんは怒りも露わに、唇を噛んでいます。冷静に対応する玲花とは対照的でした。睨み合いのようになっています。

 わたしは自分の名前が何度も出ているのにも拘らず、まるで他人事のように聞いていました。わたしをめぐって対立している状況に、理解が追いつきませんでした。

 それに、玲花が放った「イヤだ」の一言。

 その言葉が、やけに耳に残って、わたしを呆然とさせたのでした。玲花の真意がわかりません。わたしは玲花にとって、重荷なのでしょうか。

「ふたりは付き合い長いんでしょ。仲がいいっていうのもわかるし。それが、わたしが日向と仲良くなったからって、なんでわたしに一任されなきゃなんないの? 藤島さんだって、日向のこと大切な友達だって思っているんじゃないの?」

 沙月ちゃんはぐっと唇を噛みました。

 玲花、それ以上言わないで。沙月ちゃんはわたしのことを——。

 わたしは言葉を飲み込みます。言えるわけがありません。わたしだって、今の玲花に対する気持ちを他人に喋られたくはありません。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

 わたしが玲花を好きになったから?

 沙月ちゃんの気持ちに気付いてあげられなかったから?

 それとも、女が女を好きになってしまったから?

「でもね——」

 玲花が言葉を続けます。その目は先ほどまでの険がなくなっていました。玲花は沙月ちゃんからふいっと視線を逸らしました。

「わたしは藤島さんの気持ちが少しわかる気がする——。つらいよね、そういうの——」

 再び顔を上げた玲花と沙月ちゃんの視線が絡まりました。

「雨森さんに共感なんてしてほしくない!」

 たまらず、沙月ちゃんが叫びます。「それに、同情なんていらない!」

「いいの? ほんとにそれでいいの?」

 沙月ちゃんは怒っていながら、今にも泣き出しそうな顔をしていました。そして、静かに声を出します。

「——いいわけない……。わたしはずっと日向を見守ってきたの。雨森さんみたいに急に現れて、奪われるなんて耐えられない——!」

「わたしは奪うつもりなんてないよ。さっきも言ったけど、日向は誰のものでもない。わたしも日向は大切な存在だし、藤島さんにとっても大切な存在なんじゃないの? わたしのことは関係なく、前みたいに仲良くはなれないの?」

 こんなの、わたしが考えていいことなのかわかりません。沙月ちゃんもわたしも、お互いの気持ちを知ってしまいました。相容れない気持ちを知ってしまいました。友達以上の特別な気持ち。前みたいに笑えるようになるには、なにをどうすればいいのか、——どうやって折り合いをつければいいのかわかりません。時間しか解決方法が思いつかないのです。

「できるわけない!」

 沙月ちゃんがまた叫びます。今度は涙を流しながら——。「あなたと日向が仲良くしているのを目の前で見せられて、平然としていられるほど、割り切れないの!」

「じゃあ、藤島さんの言葉じゃないけど、日向のこと、奪っちゃうよ」

 沙月ちゃんとわたしはほぼ同時に玲花に視線を集めました。ふたりとも驚愕の表情を浮かべていたと思います。

「ダメ!」

 沙月ちゃんは今までいじょうに大きな声を出しました。本人が一番驚いていたと思います。思わず叫んでしまったのがありありとわかりました。

「素直になろうよ」

 諭すような玲花の声音。沙月ちゃんは顔を赤くします。

 わたしはといえば、奪っちゃうよという言葉に囚われていました。

 どういう意味?

 わたしは玲花に選ばれたの?

 今はっきりと、しかも他の人がいる前で。

「わたし、やっぱり雨森さんのことキライ」

 そう言い捨てると、沙月ちゃんは教室に入ってから、初めてまともにわたしを見ました。「もう、こんな状態は耐えられない。明日から、前みたいに話しかけるから。雨森さんに遠慮なんかしないから」

 涙はもう流れていなくて、以前の沙月ちゃんに戻ったような、すっきりした表情でした。

 沙月ちゃんはカバンを肩に掛け直すと、足早に教室を出て行きました。ドアを閉める音が心なしか大きく響きました。

 わたしたちはしばらく沙月ちゃんが消えたドアをみつめていました。

「帰ろうか」

 立ち上がりかけた玲花のコートの袖をつかみ、もう一度座らせました。帰る前にどうしても確認しておかなければならないことがあります。

「ねえ、わたしのことを奪うってどういう意味?」

 玲花は目を逸らします。

「それは——、売り言葉に買い言葉というか……」

「じゃあ、沙月ちゃんがわたしのことをお願いした時、すぐにイヤだって言ったのは?」

「——そんなこと言ったっけ?」

「とぼけないで、ちゃんと答えて」

「あれは、藤島さんの本心じゃないと思ったし、わざと怒らせたっていうか——」

「じゃあ、沙月ちゃんのお願いはイヤじゃなかったってこと?」

 玲花はこくりと頷きました。言葉はない、目も合わせない、けれど、わたしはそれだけで満足でした。

「帰ろうか」

 わたしが先に立ち上がり、玲花の腕を取って立ち上がらせました。そのまま玲花の腕にわたしの腕を絡めます。

「日向っ⁉︎ まだ学校だよ」

 わたしはにっこりと微笑みます。

「たまにはいいよ。誰も見てないし」

「それはそうだけど……」

 わたしは絡めた腕に力を込めて、玲花を引き寄せます。そして、俯いて、小さな声で呟きます。

「——早く、奪ってよ……」

「え?」

 聞き直す玲花。わたしはそれには答えません。ただ、帰ろと促すだけなのでした。

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