かの時 この時 時は 隔つれ、

 わたしはずるい人間だと思います。

 常に自分を守ることばかり考えています。

 それが、わたしの笑顔に現れています。

 嫌われないように、傷つかないように、悲しまなくてもいいように、わたしは笑顔で自分を守ります。

 もちろん、他の人に心配、不安、不快感、嫌悪感を与えないためでもあります。けれど、それすら自分を守るためです。嫌われないようにと、他の人に余計な負担を与えないようにと、笑顔を作るのです。

 そんな嘘や誤魔化しで満たされたわたしの笑顔を、好きだと言ってくれた人がふたりもいます。

 沙月ちゃんと玲花です。

 沙月ちゃんは笑っているわたしが好きだといってくれました。いつもわたしのことを気にかけて、なにかと世話をしてくれる優しさがあります。だから、わたしはその優しさに甘えてしまいます。手を差し伸べられれば差し伸べられるほど、わたしはその手にすがって、離せなくなります。

 わたしは沙月ちゃんの前だとほとんど笑っています。甘えて、すがって、救われて、安心して、笑っていられます。

 でも、笑顔の裏を知った時、沙月ちゃんは受け入れてくれるでしょうか。嘘つきな、誤魔化しの、本心を隠した笑顔なんて、沙月ちゃんはどう思うでしょうか。

 友達面をして、本音なんか見せたことがないのです。沙月ちゃんを騙しているのも同然です。

 そして、玲花。

 玲花もわたしの笑顔が好きだと言ってくれました。

 お泊まりの夜、その場の雰囲気、玲花の体温、色々なものに流されるまま、自分語りをしていました。

 きっと、玲花にだからしてしまったのだと思います。本当なら、あんなにみっともない自分をさらけ出すつもりはありませんでした。

 でも、玲花は黙ってわたしの話を聞いてくれました。その上で、わたしの笑顔が好きだと言ってくれました。更に、本心を話してほしいとも言ってくれました。そして、受け入れるとも、言ってくれました。

 わたしは思いました。

 玲花の前では、本心からの笑顔を見せようと。

 玲花に恥ずかしくないような、後ろめたくないような、心の底からの笑顔を見せたいと。

 わたしはわたしの居場所を見つけました。

 玲花なら、どんなわたしでも受け入れてくれるのだと、信じられるのです。


 沙月ちゃんの手にはスポーツドリンク、わたしの手には温かい紅茶。

 誰もいない小さな公園です。ブランコと滑り台、そしてベンチがひとつあるだけの公園です。

 放課後、沙月ちゃんとわたしはベンチに並んで腰掛けて、ペットボトルの蓋を取ることも忘れたように、無意味に手の中で転がしてみたり、手慰みを続けていました。

 秋もずいぶんと深まって、時折吹く風は冷たく、日差しも弱く、肌寒くありました。

 誘ったのは沙月ちゃんからでした。

 沙月ちゃんとまともに言葉を交わすことがなくなって、二週間近くなります。

 たまにお互いの動向を探るように、目が合うことがあっても、すぐに逸らしてしまいます。なんの進展もないままの日々に、正直疲れていました。どうでもいいと、投げ出したくなる時もありました。笑って誤魔化してしまえば、わたしの中ですべてなかったことになるのではないかと思いました。

 でも、沙月ちゃんは、彼女がどう思っていたとしても、わたしにとって大切な友達で、笑って誤魔化せる関係ではないのです。

 玲花に相談してみようかとも思いました。玲花はつらい時は話してほしいと言ってくれました。けれど、こればかりは玲花に相談するのは違うと思い直しました。美也乃さんたちの話によると、玲花とわたしが仲良くなったことが原因のようです。やはり、当事者かもしれない玲花には聞きづらいものがあります。

 どうしようかと、いつも通りうじうじと思い悩んでいると、沙月ちゃんから声をかけてきました。

「今日の放課後、付き合ってくれる? 話がしたい」

 久しぶりに、まともに顔を合わせる沙月ちゃんは、日焼けが少し薄くなって、髪も少し伸びたようでした。話さなくなってからそんなに時間もたっていないのに、沙月ちゃんの見た目が劇的に変わるわけがありません。だけど、些細な変化を見つけてしまいます。

 改めて、沙月ちゃんとは長い付き合いなんだと、再認識するのでした。

「なんか、久しぶりだね」

「——うん……」

 口火を切った沙月ちゃんに、わたしは体を固くします。

 玲花と仲良くなったことを怒られるのでしょうか。でも、美也乃さんはそれだけじゃないと言っていました。

 今回のように、長期間悶々と悩んでいる沙月ちゃんは初めて見ました。今も口を開いた割には、次の言葉を探しあぐねているようでした。

 再度、沙月ちゃんがドリンクに口をつけました。小さく喉が鳴る音が聞こえました。

「最近——」

 言葉が喉に絡まったように、声を詰まらせました。よほど言いにくいことを言おうとしているのが、手に取るようにわかります。

 だから、わたしは耳を塞ぎたくなります。なにを言われるにしても、きっと辛い結果しか見えてこないから。

「雨森さんと、仲がいいね」

「——うん」

 まともに沙月ちゃんの顔が見られません。

「楽しい?」

「——……うん」

 なにを?

「毎日、お昼をいっしょに食べてるね」

「——うん」

 なにを?

「休み時間もいつもいっしょだね」

「——うん」

 なにを言っているの?

「いっしょに買い物に行ったりもするんだって?」

「——うん」

 なにを確認しているの?

「だったら、彼女の家も知ってるの?」

「——うん」

 なにが聞きたいの?

「彼女の家に遊びに行ったことあるの?」

「——うん」

 それを知ってどうするの?

「彼女って、すごく綺麗だよね」

「——沙月ちゃん!」

 わたしは叫んでいました。これ以上、尋問のような言葉に耐えきれませんでした。罪を告白させられているような、心にちくちくと針を刺されるような、そんな気分でした。

 沙月ちゃんははっとした表情になりました。奥歯をぎりっと噛み締めて、羞恥なのか後悔なのか——、そしてわたしは、へらっと笑ってみせたのです。こんな時にわたしの悪い癖が出てしまいました。

 場を和ませるため、これ以上の追求を避けるため、どちらにしても、ずるい笑顔には変わりありません。

「ごめん……。こんなこと言うつもりじゃ、なかった……」

 沙月ちゃんは素直に謝ってくれました。この潔さは沙月ちゃんらしいと思いました。

 わたしもさすがに笑顔を引っ込めて、真顔に戻ります。

「——怒ってる?」

 わたしの質問に、沙月ちゃんは少し逡巡を見せました。けれど、それは一瞬で、なにかを決心した表情になりました。そして、小さくとも、はっきりと頷いたのです。

「最初は怒っているというよりも、びっくりしてた、本当に仲良くなれたんだって。まさか、雨森さんが日向に心を開くなんて思いもしなかった。日向はあまり口にしないけど、雨森さんと仲良くなりたいっていうのは知ってたから、念願が叶ったのかって」

 わたしは黙って聞いていました。

 沙月ちゃんは喉を湿すため、ドリンクを飲みます。

「でも、すぐに腹が立ってきた。日向はわたしが彼女のこと嫌いなのを知っているはずなのに、どうして仲良くなったりなんかしたのかって。クラスでも浮いてて、嫌われてて、そんな人と平気で話しているなんて、どういう神経してるんだろうって、見ててイライラした」

 沙月ちゃんは言葉を切りました。不意に俯いて、下唇をきゅっと噛んだかと思うと、なにかを払拭するように、頭を左右に振りました。

 次に顔を上げた時には、新たに決意を込めた、強い意志を持った目でわたしを見つめました。

「なぜ、そんなに彼女に固執するの? 日向も嫌われて、クラスで浮いちゃうかもって思わなかったの? 見てて、ほんとにハラハラした。なのに、日向は全然そんなこと考えていなくて、それどころか、楽しそうに笑顔を見せて、ふたりだけの世界作って、日向がなに考えているのかわからない! わたしだって、美也乃や雪穂や、他にもクラスで仲良くしている人もいるのに、よりによってなんで彼女なの? わたし、裏切られた気分だった」

「それで、怒ってたの?」

 わたしはさっきと同じ質問を繰り返していたことにも、気がついていませんでした。

 沙月ちゃんはこくりと頷くと、すぐにそれを否定するように、首を左右に振るのでした。黙り込んでしまい、重い沈黙が落ちてきました。

 沙月ちゃんの言葉は鋭くわたしの心に刺さりました。裏切りなんて言葉を投げつけられるとは思いもしませんでした。わたしが玲花と仲良くなることはそんなに罪深いことなのでしょうか。ただ、仲良くなりたかっただけです。わたしだけが玲花を独占するのではなく、他のクラスメイトとも仲良くなって欲しかったのです。わたしがきっかけとなって、玲花が少しでもクラスに馴染めればいいと思っていました。それなのに、玲花はそんなことにはまったく無関心で、クラスの誰とも仲良くなる気はありませんでした。

 わたしの目論見が外れたとは思っていません。玲花がわたし以外の誰にも仲良くなろうとしないことは、わたしにとって幸運だったのだと思います。なぜなら、それは玲花を独占できるということだったから。

 わたしは積極的に玲花とクラスメイトの仲を取り持とうとはしませんでした。それどころか、積極的に玲花とわたしのふたりだけの世界をつくろうとさえしています。

「ほんとは美也乃も雪穂も関係ないの。——わたしじゃダメだったの?」

 沙月ちゃんの顔が少し上気してきたようでした。言葉にも、さらに熱がこもってきたように感じます。

 だけど、質問の意味がわかりませんでした。わたしじゃダメなのかとは、どういう意味なのか理解できませんでした。

「今まで、うまくやってきたよね、学校でも、学校以外でも。休み時間はくだらない話をしたり、お弁当をいっしょに食べたり、授業中だってこっそり手紙やメールの交換したり、放課後もわたしが部活のない日にはいっしょに帰って、ドーナツ食べたり、カフェに寄ったりしたじゃない。わたしが部活を引退したから、もっと日向といっしょに帰る日が増えると思っていたのに——」

 沙月ちゃんの言葉は止まりません。目に見えて、沙月ちゃんの熱が上昇していくのがわかります。

「文化祭のこと覚えてる? 日向がメイド服着て、わたしがスーツ着て、最初は抵抗があったけど、どんどん慣れていって、すごく楽しかった。日向はすごく可愛くて、わたしも日向に負けないくらいかっこよくならなくちゃって、がんばっちゃった。あの調理実習室で二人きりの時のこと、憶えてる? わたし、ずっとドキドキして、ずっとこのままでいたいと思った。休みの日だって、いっしょにだったよね。買い物行ったり、遊園地に行ったり、夏休みはプールにも行ったね。よくお互いの家にも遊びに行ったし。そう、三年になっても同じクラスになれたのも嬉しかった。誕生日だってプレゼントの交換しあったり——」

 沙月ちゃんの話はずっと続きました。わたしとの思い出を掘り返すように、その思い出が尽きてしまうのを恐れるように。

 わたしは沙月ちゃんの話を聞きながら、徐々に冷静になっていきました。沙月ちゃんの語りに熱がこもればこもるほど、わたしの心は冷めていくのでした。

 そんなにも必死になって、過去のことばかり話し続けている沙月ちゃんが、少し悲しかったのです。楽しかった、嬉しかったわたしたちの過去を振り返って、思い出して、そこにわたしを繋ぎ止めようとする、もしくは玲花と離れさせようとする、そんな意図が見え隠れしてくるのです。

 でも、こんなことを考えている自分がとても傲慢で、沙月ちゃんのことを見下しているようで、最低だとも思います。

 この気持ちはどこからきたのかと考えると、きっと玲花の存在がそうさせるのかもしれません。

 わたしの居場所は玲花にあると認識した時から、そして玲花の居場所がわたしの元であってほしいと願った時から、わたしは何もかも振り捨てる覚悟をしたのです。

 玲花のことを受け入れることも、理解することも放棄してしまった人たちを、説得するよりも、わたしが玲花を独占できることに愉悦を覚えるのです。

 これまでの沙月ちゃんたちとの関係が壊れたとしても、わたしには玲花がいるのです。

 なんの確証もないのに、危うい思いを拠り所にしていました。

 あの玲花のマンションに泊まった夜が、なにかの分岐点だったのだと思います。

 風呂場で噛まれた肩、歯形はすぐに消えてしまったけれど、痛みと快感だけは体の奥底にはっきりと残っていました。そして、もっと強く噛んで、玲花の跡をわたしの体に残してほしいと思いました。血が出るほど噛んで、きっと傷が疼くたびに、玲花のことを思い出せることでしょう。その痛みに、わたしは幸福を感じられるでしょう。

 隠し続けて、押し潰して、こんなにも歪にゆがんでしまった想い。

 玲花に与えられた罰。

 もう、わたしの気持ちは誤魔化せません。

 肩につけられた歯形のように、わたしの心にはっきりと刻印されてしまいました。

「——もう、雨森さんと、話さないでほしい。同じクラスだから、会わないっていうのは無理だけど、もっと距離を置いてほしい——」

 どうして? と問い返す前に、沙月ちゃんは言葉を続けます。

「——……き、なの……」

 それまでと違って、呟くような弱々しい口調でした。それなのに、熱量だけはそれまで以上のものを感じました。溢れ出す熱量に、言葉が追いつかないようでした。最初の言葉が聞き取れず、語尾も風に吹き飛ばされるようでした。

「え——?」

 聞き返すわたしに、沙月ちゃんは挑むような目を投げかけました。わたしがあまりにも鈍いので、怒っているようでもあります。

 沙月ちゃんは不意にわたしに体ごと向き合いました。そして、わたしに腕を伸ばし、抱き寄せました。

「好きなの! 日向のことが、ずっと好きなの——」

 震える声で、頼りなさげで、消え入りそうで、なのに熱い吐息とともに耳元で囁かれる言葉は、しっかりとわたしの心に届きました。

 いつもみたいに笑ってしまえればどれだけ楽だったでしょうか。冗談にできればどれだけ楽だったでしょうか。

 いつもみたいに、女子高生のノリで「わたしも沙月ちゃんが好き」と軽く返せればどれだけ楽だったでしょうか。

 でも、沙月ちゃんの切実な思いはそれを許してはくれませんでした。

 沙月ちゃんが熱っぽく語り続けていた過去の出来事、その意味がさっきの告白ですべてが理解できました。わたしの中の沙月ちゃんが、これまでの沙月ちゃんの行動が、先ほど囁かれた言葉に集約されました。沙月ちゃんの言葉は痛いほど突き刺さり、だけどそれは痛みしか伴わないのです。

 わたしはその思いを知っています。

 わたしも同じ思いを、同じ感情を、心に秘めているから。

 けれど、それは沙月ちゃんに対してではないのです。

 だから、沙月ちゃんを抱き返すことはできませんでした。わたしの腕はだらりと垂れたままで、行き場もなくしていました。それなのに、沙月ちゃんの腕はさらに力が加わり、この息苦しさは、抱きしめられているからなのか、告白されたからなのか、もうわかりません。

 ぐるぐる乱れる気持ちの中で、友達だった人が、友達以外の何者かに変わってしまったのだと、寂しさを覚えました。

 沙月ちゃんはいつからわたしを好きだと思い始めていたのでしょうか。そして、その理由は?

 気持ちに気がついてから、どんな思いでわたしと付き合ってきたのでしょうか。

 なによりも、好きになった相手が女の子だということに、戸惑いも躊躇いも、もっといえば嫌悪はなかったのでしょうか。

 すべての問いかけはわたし自身に投げ返されてしまいます。

 わたしはいつから玲花のことを——。

 どうして玲花のことを——?

 どんな思いで玲花と付き合ってきた——?

 戸惑いは? 躊躇いは? 自分に対する嫌悪は?

 女の子なのに、女の子同士なのに——。

 こんなにも追い詰められて、ようやくわたしは認めることができるのです。鈍感なのか、ただ臆病なだけなのか、沙月ちゃんのわたしへの思いが、皮肉なことにわたしの気持ちに楔を打ち込んだのです。

 わたしは玲花が好き……。

 友達としてではなく、それ以上の特別な人として、わたしは玲花が好き——。

 あの夏の夜に出会った瞬間から、二学期の始業式の日に再開できた時も、玲花が好き。

 挨拶しても無視されて、それでも諦めきれませんでした。それくらい玲花が好き。

 初めてちゃんと言葉を交わして、お昼もいっしょに食べて、あの日から、わたしは玲花のことしか見えなくなりました。玲花以外いなくても平気だと思えるくらい、玲花が好き。

 それからは怒涛のように、玲花一色の生活が始まりました。学校では休み時間は常に玲花とお喋りして、放課後もいっしょに帰るようになりました。

 買い物、お泊まり、料理、お菓子、お風呂、大きなベット——。

 わたしは玲花が好きです。玲花もわたしも女同士だということを認めたうえで、玲花が好きなのです。

 玲花の家に泊まった夜、本当はキスをしたかったのです。玲花の胸を直接触りたかったのです。肩を噛まれたことも嬉しかったのです。

 玲花に居場所を見つけたとか、玲花の居場所になりたいとか、そんなのは建前の綺麗事で、ただただ、玲花に依存して、玲花を独占して、わたしだけの玲花、玲花だけのわたし、それを望んでいたのです。

「どうして……?」

 湿り気を帯びた囁きが耳に届き、わたしを現実に引き戻します。その絶望を含んだ声に、わたしはなにも返せませんでした。抱きしめ返すことはもとより、言葉を返すことすらできません。

「どうして……?」

 沙月ちゃんは繰り返します。その答えを知っているはずなのに、わたしに答えさせようというのでしょうか。さらなる絶望に叩き落とせというのでしょうか。

 それでも、わたしは言わなければならないのです。最終宣告となるこの言葉を。

「わたしは——」

 言葉が喉に絡まります。「玲花が好き——」

 一瞬、沙月ちゃんの腕に力がはいりました。そして、腕は解かれて、ふたりの間に冷たい風が吹き抜けていきました。

 沙月ちゃんは顔を上げませんでした。少し伸びた髪に、目元は隠されて、表情は読めません。

「わかってたんだ。日向があの子のこと好きなの、わかってたんだ。でもわたし、往生際悪いから、我慢できなかった。本当なら、告白なんてするつもりもなかった。日向とあの子を見てたら、耐えきれなくて……」

 沙月ちゃんが言葉を切ります。顔を上げます。泣き笑いのような表情。

「告白なんてするつもりもなかったのに。何も言わないまま卒業するつもりだったのに。日向が雨森さんとどんどん仲良くなっていくのが耐えられなかった。焦って、悪あがきして、日向を困らせちゃったね。それでも、もしかしたらって希望だけは捨てないでいようって、無理だとわかっていたのに、言わずにいられなかったの。だから、きっと、やっぱり、日向を困らせたかったんだと思う。——ごめんね……」

 沙月ちゃんは言葉を詰まらせました。

 なんで、沙月ちゃんが謝るんだろう。

 なんで、沙月ちゃんに謝らせているんだろう。

 なんで、沙月ちゃんにこんな表情をさせているのだろう。

 わたしはなにも言えないままでした。自分の情けなさ、不甲斐なさ、顔も体も凍りついたように動けなくなりました。自分がどんな表情をしているのかすらわかりません。

「日向は笑ってる顔が可愛いのにな」

 沙月ちゃんの右手がすっと伸びて、わたしの左頬に触れました。指先はとても冷たくて、わたしは思わず目を閉じていました。

「こんな状況で、笑えないよね——。ごめんね」

 わたしは、はっとして目を開けました。そこには瞳に潤ませながらも、なんとか堪えて、無理やり笑顔を見せる沙月ちゃんがいました。また、沙月ちゃんにごめんねと言わせてしまいました。

 笑って場を和ませようとするのは、わたしの役目のはずなのに、わたしが笑えないなんて——。

 でも、こんな時の笑顔なんてわたしにはわかりません。

「——ごめんね」

 だから、わたしも同じ言葉を繰り返すしかありませんでした。

「やだな、謝らないでよ。——泣かないで」

 沙月ちゃんの冷え切った指が、わたしの頬をなでました。わたし自身も気がつかないうちに、涙が流れていました。

「しょっぱ……!」

 涙のついた指を、沙月ちゃんが舐めました。「明日から——、ううん、明日からはわたしがムリか。ちょっと時間がかかるかもだけど、いつか前みたいに戻るから、その時はまた友達として、遊んでくれる?」

 わたしは頷くことしかできません。涙が溢れて、声が出せませんでした。

「やっぱり、日向は優しいな」

 沙月ちゃんの右手がわたしの左手を掴みました。そして、そのまま、沙月ちゃんの頬にわたしの左手は添えられました。

「——あったかい……」

 沙月ちゃんが呟いた瞬間、わたしの手に感じた熱い雫。

 沙月ちゃんは余韻に浸る間もなく、慌てて手を離すと、三度目のごめんねを残して、駆け出していきました。

 宙をさまようわたしの左手。

 わたしは公園にただ一人取り残されました。冷たい風が少し強く吹いて、熱かったはずの雫もすぐに冷めてしまいました。

 わたしはその指を口に運びました。

「——しょっぱ……」

 それがわたしのものなのか、沙月ちゃんのものなのか、混ざり合ってわからなくなっていました。


 お昼休み、わたしはぼんやりと教室を見渡していました。机の上にはお弁当箱があります。これから、玲花といっしょに学食に行きます。

 当の玲花はお手洗いに行っています。

 今、わたしの周りには誰もいません。以前なら、沙月ちゃん、美也乃さん、雪穂、それに釣られるように他のクラスメイトたちが集まってきていました。こう表現すると、わたしを中心にみんなが集まってくるような印象があります。けれど、わたしが積極的に動こうとしないので、集まざるを得ないというのが実際のところです。けして、わたしがグループの中心になっているわけではありません。グループを取り仕切るのはあくまでも沙月ちゃんたちで、わたしはへらへらと笑って末席に着いているだけです。

 それも今ではなくなってしまいました。

 ほんの数歩歩けば、沙月ちゃんの背中に手が届きます。なのに、その数歩が、とても遠く感じられます。手を伸ばすことすら、憚られる気がします。

 沙月ちゃんたちの笑い声に、教室に満ちるざわめきに、わたしはひとり取り残されたようでした。

 早く玲花が戻ってこないかと、教室の入り口をちらちらと見てしまいます。

 あの公園の日から、沙月ちゃんとは言葉を交わさないどころか、目を合わせることもなくなりました。それだけ、沙月ちゃんの傷が深いということなのかもしれませんが、結構重い代償を払ったような気がします。気を使ってか、美也乃さんや雪穂が話しかけにきてくれます。クラスのみんなも、なにかあれば気さくにはなしかけてくれます。ただし、それは玲花がわたしの側にいない時に限って、なのですが。

 それでも、教室で孤立している感じは否めません。沙月ちゃんの懸念は少なからず当たっていたわけです。

 覚悟はしていたはずでも、実際現実に起きるときついものがあります。

 だから、わたしは玲花をこれまで以上に求めます。玲花の中のわたしの居場所を頼ってしまいます。

 そして、わたしは考えるのです。女が女を好きになることについて。

 わたしは恋をしたことがありません。人見知りで口下手で、人に嫌われないことばかりに捉われていたわたしには、誰かを好きになることなんてありませんでした。

 そんなわたしが、女の子に恋をしたのです。でも、これが本当に恋なのかというと、判断できなくなるのです。

 経験が乏しすぎて、判断する材料がないのです。

 常識的に考えて、恋愛は男女でするものではないのでしょうか。女同士なんて、どこか異常ではないでしょうか。

 でも沙月ちゃんは、わたしのことを好きだと言ってくれました。そして、わたしはその気持ちを違和感もなく理解し受け入れたのです。最初は偏見に満ちた考えをしていました。でも、最終的には、女同士などということも忘れていたように思います。だとしたら、わたしの気持ちは異常ではないのでしょうか。そもそも、常識とはなんなのでしょうか。

 わかりません。わからないけれど、わたしは玲花が好きです。玲花が女の子だとはっきりと認識した上で、玲花に恋しています。これは恋です。

 玲花といっしょだと楽しいし、嬉しいのです。学校でも予備校でも、もちろん家でも玲花のことを考えない時はありません。受験勉強をしなければならないのに、いつの間にか玲花のことばかり考えています。

 それは他愛もないことばかりです。

 今日も綺麗だなとか、ちょっと眠そうだなとか、放課後いっしょに帰れるかなとか、今何を考えているんだろうとか。

 最後はいつも、やっぱり玲花のことが好きだなと行き着いてしまいます。

 そして、玲花はわたしのことが好きなのかなと、期待と不安を感じるのです。これだけいっしょにいる時間が長いのだから、嫌われてはいないと、消極的に安堵するのです。

 玲花のことを考えていると、胸が高鳴ります。体温も上昇していくようです。ほっこりと、でも切なく幸せを感じます。

 それに、玲花とキスをしたい、直接肌を触れ合いたいとも思います。

 相手が男の子だとしても、きっと同じ気持ちを持つのではないでしょうか。

 だから、これは恋です

 わたしの初恋です。

 今はまだ、公言する勇気はありません。女同士だという躊躇いも戸惑いも葛藤も、嫌悪も、完全に払拭できたわけではありません。それでも、玲花とふたりぼっちになる覚悟だけはあります。いえ、玲花とふたりきりになりたいとさえ願うのです。

 だから、今のわたしが感じている孤立感は、完全にその覚悟ができていない表れなのだと思います。

 その証拠に、ほら、玲花が戻ってきました。

 わたしは気が付かれないように、なるべく小さく安堵の息を吐きます。でも、玲花はわたしの顔を覗き込むようにして、尋ねてくるのです。

「どうしたの? なにかあった?」

 簡単に悟られてしまったことの喜びと嬉しさ、照れ臭さと気まずさ。

 玲花はわたしのことをよく見ていてくれる。孤独感は一瞬で吹き飛び、それは幸福感に変わり、自然な笑顔を浮かべることができました。

「なにもないよ。学食行こ。お腹すいちゃった」

「うん、ごめんね、いつも付き合わせちゃって」

「いいの、いいの。いっしょに食べたほうが美味しいもん」

 わたしはお弁当を携えて、玲花と共に教室を出ます。ドアを閉める前に、ちらりと沙月ちゃんたちのグループに視線を向けます。誰もわたしたちを気にかける人はいません。

「今日はなに食べようかなぁ。お蕎麦かな」

「麺類、好きだね」

「つるつるって、楽に食べられるから」

 こうして隣を歩いていると、学校内なのに手を繋ぎたくなります。たまに偶然触れ合う手に、そのまま伸ばしそうになります。その欲求を我慢しながら、玲花も同じ気持ちでいてくれたらと思うのです。

「今度、お弁当作ってこようか?」

「え、ほんと⁉︎」

 玲花がぱっと顔を輝かせます。でも、すぐに怪訝な表情を浮かべます。

「お弁当って、日向のお母さんが作ってるんだよね。わたしの分までなんて、さすがに気が引けるなぁ」

「なに言ってるの? 玲花の分くらいわたしが作ります。——当たり前だけど」

「日向の手作りかぁ。すっごく楽しみ!」

 再び顔を輝かせます。

「毎日は無理だからね。できるだけっていうか、早起きできたらっていうか——」

 玲花のあまりにも大きそうな期待に牽制をします。

「うん、うん。日向の負担にならない範囲でね」

 綺麗と可愛い、そして無邪気。

 この笑顔が見られるのなら、毎日でもできそうだと思わせてくれます。

 ほんと、ずるい人だ、つくづく思います。

 やっぱり、玲花が好き。

 それを実感します。

 わたしは玲花が好き。

 その気持ちさえあればいい。

 きっと、それは嘘ではないから。

 でも、玲花がわたしと同じ気持ちを持っているとは限りません。友達以上を求めるわたしの気持ちを知った時、玲花はどんな反応を示すのでしょうか。

 常識的に考えて、やはり嫌悪され、距離を置かれることになるのでしょうか。

 そんなことに怯えている自分が嫌になります。

 常識とか非常識とか、普通とか異常とか、人が人を好きになるのは、そんなにおかしなことなのでしょうか。

 でも、こんなことを考えている限り、わたし自身が偏見を持っているのでしょう。だから、玲花に本当の気持ちを伝えられないのです。

 ずるいのはわたしです。

 また、玲花の手が触れました。すると、玲花の小指がわたしの小指に絡んできました。さりげなく、けれどしっかりと繋がれた小指と小指。

 それは、玲花とわたしの心が繋がったようです。玲花もわたしと同じ気持ちでいてくれると思わせてくれます。

 今はまだ、小指程度の繋がりかもしれない。けれど、いつか、もっと強い繋がりになれたらと願うのです。

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