ポカポカポカポカ暖かだつたよ

 玲花の部屋番号、そして、呼び出しボタン。

 土曜日、わたしは玲花のマンションを訪れます。もちろん、部屋に上がるのは初めてです。よくエントランスの死角から、玲花が外出するのを待っていたのは、秘密です。今思うと、ほぼストーカー状態でした。

 ピンポーンと軽快なチャイムの音がして、すぐにインターホンから声が聞こえてきました。

『はーい!』

 少しはしゃいだ声に聞こえるのは気のせいでしょうか。わたしと同じだと思うと、気持ちが繋がっているようで、嬉しくなります。

「わたし、日向です」

『今開けるね』

 オートロックが解除されて、ガラスの自動ドアが開きます。

 わたしはエントランスに足を踏み入れる前に、後ろを振り返り、空を見上げました。十月下旬ともなると、昼前なのに、かなり寒くなってきました。風も北向きに変わってきたのか、強く吹くわけでなくても、冷たく感じられます。雲は目立つけれど、晴れ間は見えました。

 上々のお天気だと思いました。もっとも、今日は部屋でクッキーを作るので、お天気はあまり関係ありません。

 でも、玲花の家に初めて招待された日です。晴れていれば、そのぶん気分も高揚してきます。

 わたしは少し足を弾ませて自動ドアをくぐりました。そのままの気分で、エレベーターへ、五階建ての最上階、そこに玲花の部屋があります。

 部屋番号を教えてもらったときは、不思議とどきどきしました。他の友達から教えてもらうのとは違う、特別な、秘密の番号のようです。

 部屋の前で、改めてチャイムを押します。

 鳴り終わるか鳴り終わらないかで、ドアが開きました。まるでドアの前で待っていたかのようです。

「いらっしゃい!」

 目一杯の笑顔で、玲花はわたしを迎えてくれました。わたしも負けないくらい、笑顔を浮かべています。

 今日、この日が待ち遠しかったのが、お互いに認識されました。それが嬉しくもあり、照れくさくもあり、ふたりとも刹那、黙り込んでしまいました。

「さ、入って——」

「お邪魔します……」

 玲花に促されて、部屋に入りました。

 まず思ったのは、匂いが違うということでした。もちろん我が家とは違って当たり前です。でも、最近嗅ぎ慣れた匂いのようで、なんとなく安心できるような……。この匂いに包まれているようで、安らぐような……。

 そこまで考えて、ここは玲花の暮らしている家で、だとすると、この匂いは玲花の匂いということで、つまり、わたしは玲花の匂いを嗅ぎ慣れていて、その匂いに安心と安らぎを覚えて——。

 一瞬で頭に血が昇りました。

 安らぎどころではありません。なんだかものすごく背徳感があります。

 冷静ではいられません。玲花はどんな時でも、わたしの心をかき乱します。困惑させながら、幸せな気持ちにさせる乱しかたです。

 廊下を玲花の後をついて歩きながら、平常心を保とうと、自分に言い聞かせます。

 今日はお泊まりで来ています。まだこれから、なにが起こるかわかりません。こんな序盤で、動揺していては、心も体もいくつあっても足りません。

 途中、ここがトイレでここがお風呂場で、などと説明を受けますが、上の空だったのは、仕方のないことだと思います。

 廊下を抜けて、足を踏み入れたリビングは予想を上回る広さでした。天井は高く、開放感にあふれています。1LDKのようで、右手にはキッチンがあり、左手にはドアがあり、もう一部屋あるようでした。

 リビングには、ローテーブルとソファー、大画面テレビ、目立つものといえばそれだけです。良くいえばシンプル、けれど第一印象は殺風景でした。生活感がまるで感じられません。確かに玲花の匂いで満たされているけれど、それ以外の生活臭というものが感じられません。

「しかし、すごい荷物ね」

 玲花の口調は呆れているようでもあり、感心しているようでもあります。「重かったでしょ」

「あ、自転車で来たから——」

 実際、わたしは、大きめのリュックサックと大きめのトートバッグのふたつを持っていました。リュックには、パジャマや下着、タオル類、歯磨きセットにシャンプーセット、スキンケア用品など、どこに何泊の旅行に行くのかと、つっこみたくなるほどの荷物が入っています。無駄にテンションが上がってしまって、なにを持っていけばいいのかわからなくなりました。結果、全部持っていこうと用意したものを詰め込んでいました。

 トートバッグには今日のお昼の食材が入っています。カルボナーラの予定です。メインにはローズマリーとにんにくオリーブオイルで漬けたチキンを用意しておきました。あとは焼くだけにしてあります。簡単なサラダと、ラタトゥイユはあらかじめ作ってきました。

 リュックの中身と理由を言うと、玲花は全部貸すつもりだったと、大笑いしました。

「でも、そんな日向がかわいい」

 ただでさえ心拍数を落ち着かせようとしているのに、また跳ね上がってしまいます。

 一旦、食材の入ったトートはキッチンに、リュックは玲花の寝室に置くことにしました。

 玲花の寝室は、さらに玲花の香りが濃く、わたしはくらりとめまいのようなものを感じます。

 真っ先に目に飛び込んできたものは、ゆったりとした大きなセミダブルのベッドでした。そして、本棚、勉強用のテーブルと椅子。目立ったものといえば、それだけでした。ぬいぐるみや置物、ポスターといった、装飾品はまったくありません。リビングに負けず劣らず、がらんとした印象は拭えません。

「適当に置いていいからね」

 わたしは部屋の隅のあまり邪魔にならない場所に、リュックを置きました。

 改めて、部屋の中を見回します。

「あまり見ないで。なんにもなくて、びっくりした?」

 どう言葉を返そうかと悩んでいると、テーブルの上に、一冊の文庫本を見つけました。

『中原中也詩集』

「あ、これ」

 手に取ってみました。角は擦り切れて、何度も読み返したのがわかるほど少し黒ずんでいて、大切にしているのがよく伝わってきます。

「日向はどこまで読んだ?」

「いちおう、全部読んだけど——、ははは、半分も理解できなかったかな。詩ってむずかしいね」

「でも、気になったのってあった?」

「やっぱ、蝶々の詩かな」

「『一つのメルヘン』ね。わたしも好き。止まった時間が、ぱっと動き出す瞬間なんて、感動モンだね」

 わたしはちょっと興奮気味に同意する玲花に、後ろめたさを感じます。

 詩を読み解くなんて、わたしには難しくてよくわかりません。『一つのメルヘン』が印象に残っていたのは、玲花が朗読してくれたからなのです。耳元で囁きかけるような玲花の声は、今も耳に残っています。

 しばらくお喋りをして、お昼にすることにしました。

 メニューを告げると、玲花は目をキラキラ輝かせます。

「カルボナーラって、家で作れるの⁉︎」

「コツさえつかんじゃえば、誰でもできるよ」

「それにチキンとローズマリーって、レストランみたい!」

「これも、漬けて焼くだけだし」

「あと、ラタ——、ラタ? だっけ?すっごく、オシャレっぽい」

「なんか、猫のおやつみたいになってるよ。ラタトゥイユね」

 全部に驚いて、感心してくれる玲花が可愛いと思ってしまいます。プレッシャーを感じつつも、張り切っている自分がいます。

 キッチンはシステムキッチンで、コンロはIH、ビルトインのオーブンレンジ、食洗機もあります。

 棚や引き出しの中には、鍋やフライパン、包丁など、ひと通りの調理器具も揃っています。先週、いっしょに買ったボウルや麺棒なども、片付けられていました。

 道具類のどれもが、使われた形跡もなく、ほぼ新品同様でした。玲花の普段の食生活が想像できます。

 だからこそ、今日は玲花に満足してもらわなければなりません。腕が鳴るというものです。

 早速、調理に取り掛かります。時間はたっぷりあるとはいえ、お腹も減っています。その後にも、クッキーを作るといったイベントも控えています。

 チキンを焼いて、パスタのお湯を沸かし、その間にカルボナーラのソースを用意します。

 手持ち無沙汰な玲花が、キッチンの周りをうろうろと歩き回っています。

「なにか手伝おうか?」

「すごい! 手際がいいね」

「だいじょうぶ? 熱くない?」

「フライパンが振れるのってかっこいいね。コックさんみたい!」

 子どもを相手しているようでもあり、新婚さんのようでもあり——。

 いえ、なんでもありません……。

 玲花の言葉と、わたしの心をなんとかいなしながらも、料理は一時間ほどで出来上がりました。

「カルボナーラに黒胡椒をかけて、完成!」

 おおー! という玲花の歓声を聞きながら、リビングのテーブルに運んでいきます。

 パンと飲み物、ナイフ、フォークを揃えます、ローテーブルとソファの組み合わせなので、食事するには前屈みになるのでむきません。そこで床にクッションをひいて、向かい合って座りました。

 手を合わせて、いただきます。

 我ながら、ちょっとしたカフェのランチにも見劣りしないと、自負しています。

 とはいうものの、わたしの手作り百%の料理を食べてもらうのは、初めてです。お弁当を分けたりしていますが、それは母親が作ったものです。自信はありますが、やはり感想は気になります。

 わたしは自分のフォークを取るのも忘れて、玲花を凝視しました。

 玲花はフォークにパスタをくるくると器用に巻き付けます。そして、大きな口でぱくりと頬張ります。しばらく咀嚼して、不意に大きく目を見開いたかと思うと、顔の筋肉が弛緩したように、目尻が急降下していきました。

 なんとも、幸せそうです。わたしはその表情に、確かな手応えを感じて、心の中でガッツポーズを決めます。

「美味しい!」

 続く賛辞にわたしは嬉しいを通り越して、恐縮してしまうほどでした。

「チキンも食べてみて——」

 玲花は頷いて、張り切ってナイフをいれます。

「ローズマリーとニンニクの香りが——」

 最後まで言わずに、ぱくり。

 至福の表情を浮かべます。

「日向も食べて、すっごく美味しいから! って日向が作ったから当たり前か」

 わたしは、玲花の反応だけで、お腹いっぱいな気持ちです。でも、現実には空腹なわけで、わたしもナイフとフォークを取って食べ始めました。

 カルボナーラはソースもクリーミーで濃厚。チキンも焼きすぎず、塩加減もばっちりです。冷えたサラダとラタトゥイユが適度な酸味を持って、口の中をさっぱりさせてくれます。

 玲花の言葉もお世辞ではないと、自画自賛しました。

「日向はすごいね。こんな美味しいものが作れるんだもん。——やっぱ、お母さんに教わったりするの?」

「うん、それもあるけど、本を読んだり、ネットで調べたりしてるよ」

「わたしなんて、学校の調理実習でしか、包丁なんて使ったことないよ」

「——お母さんから教わったりしないの?」

 聞いていいのかなと思いながらも、言葉を発していました。少し探りを入れる意味もあります。

 果たして、玲花は一瞬顔を曇らせました。けれど、すぐに笑顔を見せました。

「あの人は料理なんてしないから」

 あの人という、まるで他人のような呼び方が、玲花と母親との距離感を表しているようでした。わたしはそうなんだとしか答えようがなく、母親についてこれ以上掘り下げることはできませんでした。

「日向といっしょに暮らすと、毎日こんな美味しいものが食べられるのかなぁ」

 玲花はちょっとからかうような表情を浮かべています。その手には乗らないと思いながらも、その甘美な誘惑に心が動かされてしまいます。

「いっしょに住む?」

 心なしか玲花の頬も紅潮しているようです。「わたしは一人暮らしだし、誰にも気兼ねなく暮らせるよ」

 わたしの頭の中に、真っ先に浮かんだのは、セミダブルのベッドでした。そして、向かい合わせで、顔を付き合わせて眠る玲花とわたし——。

 せっかく美味しくできた料理の味もわからなくなっていくようでした。

 どうして、ベッドでいっしょに眠っている妄想が浮かんだのかわかりません。玲花はわたしの料理を毎日食べたいといったのです。だったら、ふたりで食卓を囲む場面が浮かぶのが普通なのではないでしょうか。

 玲花が自分の言葉に顔を赤らめたりするから。

 いっしょに住むという言葉があまりにも甘すぎるから。

 わたしの料理が食べたいといってくれたのは、嘘ではないと思います。でも、それ以上に、わたしといっしょに、この部屋で暮らしたいという思いが、切実に伝わってきたのです。

 だからというわけでもないと思います。

「いいね。いっしょに住もうか——?」

 そんな言葉を発していました。

「ほんと!」

 玲花の顔がぱっと輝きます。

 わかっています。そんなことはありえないってことくらい。わたしたちは高校生で、しかも受験生です。親の庇護下にあって、そんな浮ついた非常識なことは許されるわけもありません。

 でも、夢や希望を語るくらいなら、許されるはずです。

「じゃあ、部屋の模様替えもしなきゃ!」

 玲花はナイフとフォークを握りしめたまま、ぐっと身を乗り出してきます。洋服が料理に触れそうになるのも、気がついていないようでした。注意すると、前のめり過ぎた自分に照れ笑いを浮かべていました。

「日向の趣味は、クール系? カワイイ系?」

「それより、キッチン周りを揃えたいかな」

「え、でも、全部揃ってるんじゃないの? 料理する前に、フライパンも包丁も全部あるって、びっくりしてたよね」

「そこじゃなくて、わたしが揃えたいのは、あそこ! 冷蔵庫のなか」

 玲花はきょとんとした顔を浮かべました。わたしは苦笑を浮かべます。

「さっき開けたら、水とジュース、マヨネーズとケチャプ、あと、チョコレート。それしか入ってないじゃない」

「一人暮らしだし、自炊なんてできないし……」

 もごもごと言い訳のようなものを口にします。少しやり込め返した気分で、気持ちがよくなります。それに、小言を言われる子どものような玲花も見られて、なんとも役得です。

「毎日、玲花のためにご飯を作るなら、まずは冷蔵庫を充実させないとね。調味料もいっぱい揃えて、和洋中、なんでも作れるようにするの」

 わたしは思い描きます。わたしがキッチンに立って、料理を作っています。待ちきれなくなった玲花がなにか手伝いたそうに、わたしの周りをうろうろします。すぐにできるからと追い返して、玲花は落ち込んだフリをしながらも、抜け目なくつまみ食いだけは忘れない。

 なんだ? このベタなラブコメは⁈

 自分の妄想に、自分でつっこみをいれて、でも、そんな幸せな妄想は止まりません。

 ふたりで、美味しいねなどと言いながら、あーんなんてしあっている映像さえ浮かんできます。

「なにをニヤニヤしてるの?」

「な、なんでもない!」

 わたしは慌てて妄想を追い払います。

「ふーん、てっきり、わたしと同じことを考えてるのかと思った」

「同じことって?」

「ナイショ」

 ふふ、と小さく笑う玲花は、きっとわたしと同じ妄想をしていたのかもしれません。幸せな、夢みたいな——、まさに夢の話。

 それでも、たとえば、可能性として、高校を卒業すれば、あるいは——。

 そんな小さな可能性を夢見るくらい、許されるはず——。


 食事を終えて、食器を片付けています。

 わたしがお皿を洗って、玲花が拭いて、途中で、食洗機があるのを思い出して、なぜ使わないのかなんて、笑い合って、後片付けさえ、ふたりで共同でするだけで、こんなにも楽しいのでした。

 この後は、今日のメインイベントでもある、クッキー作りです。

 この前、モールで買い揃えた道具や材料を並べていきます。

 バター、小麦粉、卵、砂糖、バニラエッセンス、それに買い忘れていたので、家から持参したココアパウダー。

 今回はわたしが玲花を教えるということなので、すべての材料をふたつに分けます。玲花にはプレーンの基本的なクッキーを、わたしはココア風味のクッキーを作ります。

 プレーンとココアとマーブル、三種類のクッキーが出来上がる予定です。

 そして、もう一品、玲花には言ってはいなかったけれど、メレンゲクッキーを作ります。昼食のカルボナーラで余った卵白を使って、簡単にできます。もちろん、そのための材料や道具も家から持参してきました。

 おかげで、荷物が嵩張ることになったのですが。張り切りすぎかもと、自分でも思ってしまいます。

 まずはオーブンの予熱からです。温度を合わせて、スイッチを入れます。我が家のものより、大容量でローストチキンも二羽くらい、余裕で焼けそうです。

 その間に材料を計量していきます。

 材料を計量しているうちに、玲花はかなりな不器用さんなのではないかと、疑惑が持ち上がってきます。

 小麦粉を計るだけなのに、粉がもうもうと舞い上がります。卵を割るにも、力を入れすぎて、台の上にぶちまけます。砂糖と塩を間違えて、計り直します。

 玲花は本当に料理なんてしたことがないんだ、とつくづく思いました。数々の失敗も、玲花なら温かい目で見守ろうという気持ちにさえなります。

「なにをニヤニヤしてるの?」

 玲花が拗ねたようにそっぽを向きました。その仕草がなんとも可愛らしくて、さらにニヤニヤしてしまいました。

「わたしの失敗がそんなに楽しい?」

「ううん、安心したの。玲花にも苦手なことがあるんだなって」

「わたしだって、できないこともあるよ」

「いつも余裕があって、自信に溢れている印象が強いから、違う一面を見せられると、玲花を身近に感じられて、嬉しいっていうのかな。わたしと同じだって思えるの」

「——買い被りすぎだよ」

 玲花は照れて、ますますそっぽを向いてしまいます。

「それでも、今みたいな玲花を見られるのって、わたしだけの特権だもんね」

「……バカ」

 子どもみたいな悪態をつきながら、真っ赤に染まった顔を、わたしに向けてくれました。

 わたしは玲花のほっぺをつんと突っつきました。すると、玲花はその指を素早く掴みました。

「もう、もう少しおとなしい子だと思ってた」

 わたしはにこりと微笑みました。

「玲花にだけだよ。こんなわたしは」

 玲花は不意を突かれたように、大きく目を見開きました。戻りかけた顔色がまた赤く染まっていきました。

「まったく、もう——!」

 いつのまにか、わたしの指を掴んでいただけだった玲花の指は、離れて、絡まって、恋人のようにしっかりと繋がれていました。

 繋いだ手が熱く、玲花の瞳はそれ以上に熱く潤んでいて、こうなっては玲花のペースになってしまいます。

 玲花は大人びて、妖艶とでもいう妖しさを醸し出します。わたしを見つめる熱量にわたしの体温も上昇していきます。魅入られたように、目が離せません。

 怖い——。

 でも、このままで、身を委ねても、構わないと——。

 玲花が体を寄せてくる気配に、わたしは思わず目を閉じかけていました。

 その時、ピーピーと静寂を破る大きな音が鳴り響きました。

 わたしたちは思わず、繋いでいた手を離してびっくり顔で見つめ合っていました。

 オーブンの予熱が終わった合図でした。

「あははは、やっぱり性能がいいね。思ったより早く予熱が終わっちゃった」

 取り繕うように、早口で誤魔化しました。

 オーブンの温度を確かめるふりをして、玲花から顔を隠しました。動悸は激しく、少し手が小刻みに震えていました。

 玲花は体を寄せてきて、わたしになにをしようとしたのでしょうか。

 そして、わたしは目を閉じて、なにを期待していたのでしょうか。

 期待なんて——。

 わたしはヘンな考えを振り払います。

 わたしは玲花といると、おかしくなる。

 いつものわたしではいられなくなる。

 玲花にペースを乱されてばかり。

 でも、イヤじゃない……。

 だから、期待してしまう——。

 思考が堂々巡りをしています。

 振り払えない、思いがあります。日々の積み重ねに、募る思いがあります。

「少し急ごうか。——まずはクッキーから」

 わたしはバターの固さを調べました。まだ固くて、生地を作るには早すぎました。

 なので、予定変更です。メレンゲクッキーから作ることにしました。生地自体は簡単にできても、焼き上がるまでに時間がかかるからです。

 卵白を泡立ててメレンゲを作ります。電動のハンドミキサーはないので、がんばって人力で泡立てます。途中、玲花にも変わってもらいながら、生地は完成しました。それを絞り袋に入れて、天板の上に絞り出していきます。ケーキを飾りつけるホイップクリームと同じ要領で絞ります。一つ絞り出すたびに、玲花が奇妙な声を発していますが、それは無視します。終わったら、低温のオーブンで時間をかけて、じっくりと焼き上げていきます。

 そうしているうちに、バターが柔らかくなり、クッキー作りの再開です。バターに砂糖を混ぜて、卵を三回に分けて混ぜて、玲花は小麦粉だけを、わたしは小麦粉とココアパウダーを、混ぜていきます。練りすぎないように気をつけながら、ひとつにまとめていきます。まとまったら、ラップに包んで、冷蔵庫で休ませます。

 なんとか、玲花も大きな失敗もなく、できました。小麦粉が舞い上がるという珍事を除いてですが——。

 ボウルや泡立て器などを洗っている間に、メレンゲクッキーが焼き上がりました。

 すぐに食べようとする玲花を「冷めたほうがサクサクして美味しいから」となだめます。不承不承ながら、ハイなんて素直に返事をするから、わたしは思わず玲花の頭を撫でていました。そんなわたしをこれまた素直に受け入れて、なおかつ、嬉しそうにしています。

 この人は、ホントにズルい、と思わせます。わたしの柔らかいところにするりと入り込んできます。そして、一挙手一投足を忘れられないものとします。いつのまにか、わたしは玲花で満たされています。常に、玲花のことを思い、考えています。

 クッキー生地を休ませている間、夕飯はなににしようかなどと話していました。玲花の「お魚が食べたい!」という一声で即決です。最近では、コンビニでも美味しい焼き魚や煮魚が揃っているけれど、やっぱり誰かの手作りが食べたいということなのでした。

 わたし自身は魚料理はそんなに得意ではありません。でも、玲花の希望です。やってみようと思います。

 そうと決まれば早速買い出しです。お昼が洋食だったので、夜は和食にします。

 自転車に二人乗りで、近所のスーパーに向かいました。

 日も高く、まだ明るい時間でした。わたしはお巡りさんに会わないかとビクビクしていましたが、玲花は微塵もそんなことを考えている様子はなく、荷台に跨がり楽しそうでした。

 わたしも内心は楽しかったのかもしれません。普段なら絶対しないようなことをしているという、後ろ暗い愉悦とでもいうのでしょうか。玲花となら、なんでもできるという、万能感なのかもしれません。

 スーパーに着いて、まず鮮魚コーナーを目指します。メニューは決まっています。わたしは切り身の鰤を手に取りました。

「なにを作ってくれるの?」

 弾んだ声で玲花が尋ねました。それだけで、玲花の期待値がわかろうというものです。

「鰤の照り焼きを作ろうかなって」

「え、照り焼きって鶏肉で作るんじゃないの?」

 ここまで料理のことをなにも知らないとなると、微笑ましくなってしまいます。わたしは照り焼きソースの万能性を丁寧に教えました。玲花は瞳をキラキラさせて、子どものような表情で感心して聞いていました。なんだか、講釈を垂れているみたいで、こっちが恥ずかしくなってしまいました。

 その後、お味噌汁の具材や副菜に使う野菜、肝心のお米を買って、スーパーを出ました。

 帰り着くと、クッキーの生地はちょうどいい具合になっていました。クッキー作りを再開します。

 オーブンの予熱を忘れずに、そしてクッキーの成形から始めます。プレーンとココア、二種類ある生地から、三分の一を取り分けます。取り分けた生地を合わせて、マーブルクッキーを作り、後の生地で、プレーンとココアのクッキーを作ります。

 マーブルの方は、棒状にまとめます。それを包丁で輪切りにして、天板に並べていきます。予熱が終わるのを待って、早速焼き始めました。

 焼き上がるのを待つ間に、プレーンとココアのクッキーを麺棒で伸ばして、抜き型で抜いていきます。ハート、星、定番の型から、動物、花などの型もあります。

 玲花は小学生の子どものように、嬉々として次々と型を抜いていきます。初めてのことばかりで、本当に楽しそうにやっています。

 わたしは母親のような気持ちで、玲花を見守ります。型を抜いては自慢げに見せてくる玲花は、よくできたねーなんて、頭を撫でてあげたくなるくらい愛おしいのでした。

 マーブルクッキーが焼き上がりました。変わって、プレーンとココアのクッキーをオーブンに入れました。

 焼き上がったばかりのクッキーに手を伸ばした玲花が、あまりの熱さにすぐに手を引っ込めました。すぐに食べられないと、勝手に落ち込んでしまいました。

 わたしはやれやれと思いながら、最初に焼いたメレンゲクッキーを玲花にあげました。その瞬間に、ぱっと咲き誇る笑顔。

 白くて絞ったホイップクリームのような形をしたメレンゲクッキー。つまむと思いのほか軽くて、外はカリッとした焼き上がりです。

 玲花は早速口に放り込みました。サクッと小さな音がして——、玲花の目が大きく見開かれました。

「なに、これ⁉︎ 溶けてなくなった!」

「ふふふ、美味しい?」

 玲花は言葉もなく、こくこくと何度も頷きました。

「不思議な食感! アーモンドの香りもするよ」

「オーブンに入ってるクッキーが焼けたら、お茶にしようか」

「はーい! でも、その前にもうひとつ!」

 わたしは苦笑しながらも、やっぱり玲花の笑顔には勝てなくて、クッキーを差し出していました。


 洗い物を終わらせた頃には、全部のクッキーが焼き上がりました。

 玲花お待ちかねのお茶の時間です。ティーバッグだけど、紅茶を淹れてテーブルに並べていきます。

「これって、わたしが焼いたんだよね」

 そう言いながら、マーブルクッキーをパクリ。ほっぺを押さえて至福の表情を浮かべます。

「わたしにもできるんだね」

 いろいろアクシデントもあったけど、という言葉は飲み込みました。ここは褒めて、今後に繋げていかなければなりません。わたしも玲花が生地を作ったプレーンのクッキーをひとつ口に入れました。さくりとした歯応え、ほろりとほどけるような感覚。口いっぱいにバニラの香りが広がります。

「美味しい! 上手に焼けてる! 初めてなのに、すごいね」

 実際美味しかったので、正直な感想です。玲花は満更でもない表情で胸を張っています。こんなところは、ほんとに子どもっぽいんだからと、また頭を撫でたくなります。

「ところで、クッキーの焼き方は憶えられた?」

「まあ、それなりに……」

 歯切れの悪い玲花です。

「初めてだしね。一回じゃ憶えられないよね」

 少しの間があって、玲花がわたしの目を見つめてきました。

「それもそうなんだけど——」

 玲花がにっこりと微笑みました。「やっぱ、わたしはタベセンかなって」

「タベ、セン——?」

「うん、食べるの専門。日向が作ったココアクッキーのほうが美味しいしね」

 そう言って、ココアクッキーをさくりと齧りました。顔を弛緩させます。うーんなんてとろとろに溶けた顔を見せるから、玲花のズルさを再確認してしまいます。クッキーを食べ終わって、紅茶を一口、こくりと飲みます。

「もうひとつ——」

 玲花の手が今度はプレーンクッキーに伸びていきました。「食べ比べしないとね」

「夕飯、食べられなくなっても知らないから」

 わたしの忠告にも玲花は笑って受け流します。

「だいじょうぶ。甘いものは別腹。それに、日向の作った料理なら、どんなにお腹いっぱいでも食べちゃうから」

「太っても知らないから……」

「いいね。幸せ太り」

 玲花は穏やかに微笑みました。「もう、わたしの胃袋は日向にがっちりつかまれちゃった。責任とってね」

 どうしてそんな台詞がすらすら出てくるのと思いながら、わたしはやっぱり顔を赤くしてそっぽを向くしかないのでした。


 玲花の部屋には娯楽らしい娯楽はなく、それはそれで、なんとなく予想はしていました。テレビとパソコンと大量の本。玲花にはきっとそれだけで充分なのです。

 私たちはパソコンで動画サイトを開きました。特にお気に入りにしているチャンネルはないようでしたが、おすすめには猫の動画がずらりと並んでいました。

「猫、好きなんだ?」

「うん、実家でも飼ってるからね」

 玲花の新しい情報。玲花は猫好きで、しかも飼っている、と。心のメモに書き加えます。

 玲花はスマホを操作すると、写真を見せてくれました。白地に薄茶色の茶トラの猫が、伏せた状態で顔だけをこっちに向けて、物憂げに見つめています。

「カワイイ! 種類は?」

「ミックスだよ。保護猫なの」

「へぇ、連れてこなかったの?」

「うん、ここ、ペット禁止だから——。ほんとは連れてきたかったんだけどね」

 玲花は寂しそうに目を伏せました。

 わたしはその横顔をそっと盗み見ました。まつ毛が長いな、なんて改めて思いました。寂しげで憂いを含んだ表情は初めて見るものでした。慰めたくもあり、だけどずっと見つめていたくもあり、わたしは後者を選びました。

 玲花の表情は、どんな表情でも目に焼き付けておきたいから。

 でも、愛おしげにスマホの写真を見つめる玲花の眼差しに、軽く焦燥を覚えました。

 わたしにも、そんな慈愛のこもった瞳を向けてほしい。

 猫に嫉妬している自分を自覚しながら、それが止められませんでした。強引に手を使ってでも、玲花の顔をわたしに向かせたい衝動すら起こりそうです。

「代わりに動画を見て癒されてるって感じかな」

 顔を上げてわたしを見る玲花の笑顔からは、憂いはなくなっていました。いつもと変わらない笑顔に、わたしは少し残念な気持ちになります。

「この子、ちょっと玲花の猫に似ていない?」

 わたしは気持ちを押し隠し、努めて明るくずらりと並んだサムネイルのひとつを指差しました。

「えー、そうかな? うちの子のほうが美人だよ」

「親バカ」

「そうだよ。わたしは親バカ」

 軽口を言いながら、次々と猫の動画を開いていきました。


 夕飯の支度に取り掛かります。

 玲花のリクエスト通りに魚料理——鰤の照り焼きをメインに、わかめと豆腐の味噌汁、ナスの焼き浸しなど、和食の献立です。

 昼食の調理中と同じように、玲花がわたしの周りをうろうろと歩き回ります。

 手伝いたそうにしていますが、クッキー作りの失態が頭に浮かびました。それに、自分から食べ専だと宣言したはずです。

 わたしのそばにいて、わたしの手伝いをしたいのかななんて、少し自惚れてしまいます。

 わたしは座ってていいのにと言いながら、お米を洗ってもらうことにしました。

 しかし、玲花はお米を前にして、途方に暮れたように立ち尽くしていました。わからないなら手伝わなくてもいいのにと思いながらも、わたしも玲花の世話を焼けるのが嬉しくて、ついつい丁寧に説明していました。

 炊飯器のスイッチを入れて、フーと、ひと仕事終えた雰囲気で、笑顔を見せていました。玲花が満足できたなら、よしとしましょう。

 玲花はその後は手を出すことはなくなったものの、キッチンから離れようとしませんでした。わたしがなにか切ったり、味付けしたり、焼いたりするたびに質問を浴びせてきました。それはなにをしているのか、どうしてそうするのか、次はなにをするのか、などなど。わたしはそれらに、なるべく丁寧に説明していきました。そうすれば、玲花は感心して、喜んで、頷いて、笑ってくれるのです。わたしにとって、そんないちいちの反応が嬉しくないわけありません。

 料理を作るのもお菓子を作るのも好きだけれども、今日ほど楽しいと思ったことはありません。今まで、家族のため、クラスメイトのため、不特定多数のために作ったことはあっても、誰かひとりのために作ったことはありません。しかも、その誰かが、そばに立って、関心を持って、感心して、わたしの料理を待っていてくれるのです。期待に応えなければというプレッシャーよりも、ふたりで料理をしている、共同作業をしているという、楽しさ、充実感のほうがまさっていました。

 そう、ふたりで——玲花とわたしふたりで——。一番重要なのは、隣にいてくれるのが玲花であることです。今のわたしには、玲花でないと駄目なのです。

 わたしは手元を覗き込む玲花の横顔を盗み見ます。フライパンで焼いている鰤をひっくり返すと、おおーなんて歓声をあげて目を輝かせています。我ながらいい焼き色で、ひっくり返すタイミングもばっちりです。

 ——いっしょに住む?

 玲花の甘美な誘惑の言葉がよぎります。

 毎日、料理を作るのは大変なことかもしれません。でも、玲花のためと思えば、耐えられそうです。——いえ、耐えるのではなく、わたしから玲花のために作ってあげたいのです。玲花の笑顔が見たいから。それはわたしの押し付けでしょうか。

 夕飯が出来上がり、テーブルについて手を合わせました。

「なんだか、食べてばかりだね」

 わたしの言葉に玲花は小さく笑います。

「いいの。幸せだから——」

 とても切実に聞こえて、わたしの胸はきゅっと音を立てました。玲花がこの街に引っ越してきて二ヶ月くらい。その間、ひとりでこの部屋で寝起きしていたのです。たった二ヶ月かもしれません。ひとり暮らしをしたことがないわたしには、想像するしかないけれど、それはどんなに孤独で、寂しいことなのでしょうか。

 玲花は言葉を続けます。

「日向が料理を作ってくれて、それが最高に美味しくて、そんなの嬉しいに決まってる。しかも、それがわたしのためだけになんて、幸せじゃないわけないじゃない」

 この笑顔を見れるのなら、この笑顔を守れるのなら、やっぱり、毎日でもご飯を作ってあげたい。

 玲花の幸せはわたしにとっても幸せなんだと、すとんと胸に落ちてきました。

 改めていただきますを言って、夕飯を食べ始めました。

 鰤の照り焼きを口に入れた瞬間の玲花の顔が、うっとりととろけるようでした。

 玲花にこんな顔をさせられるのも、こんな顔を見られるのも、わたしだけなんだ。

 わたしも鰤を一切れ口に入れ、その甘塩っぱい味を噛み締めていました。

 夕飯は楽しく進んでいきます。玲花の惜しみない賛辞をくすぐったく思いながら、やはり思い描いてしまいます。

 この時間がずっと続けばいいのにと。

 大切な人と同じ食卓を囲んで、美味しいとか、ちょっと塩っぱいとか、言葉を交わしていたいと。

 次はなにを食べたいとか、なにを作ってみたいとか、小さくても未来を信じられる約束をしたいと。

「明日の朝はなにが食べたい?」

「朝ごはんかー。普段食べないんだよね」

「やっぱり。そんなことじゃないかと思った」

「うーん、ひとり暮らしだと、そうなっちゃうよ」

「わからないでもないけど——」

 わたしとしても、玲花のことはあまり偉そうには言えません。朝食に関しては、完全に母親に頼りっきりなのですから。

「そうだなあ、お米もたくさんあるし、和食にしようか」

 玲花の顔がぱっと輝きました。

「まだまだ、日向のご飯が食べられるんだね」

「わたしも朝は弱いから、簡単なものになっちゃうけど」

「ううん、日向の作ってくれるものだったら、なんでも嬉しい。——朝が待ち遠しいなんて久しぶりだ」

 目を細めて、玲花は言いました。さらりと何気なくこぼれた言葉は、わたしの胸にほんの少し刺さりました。

 今まで、朝の到来が辛かったのかなって——。

 わたしだって、テストや持久走の前日などには、朝が来なければいいのになんて思ったことはあります。でも、それは冗談半分で、けして本心からではありませんでした。

 玲花の無意識にこぼれ落ちた言葉は、それが自覚のないままだとすれば、限りなく本心が溢れ出たものなのではないかと思えるのでした。

 待ち遠しい朝。

 玲花の待つ先に、わたしがいるのです。

 わたしは玲花の、大袈裟かもしれないけれど、希望になれるのでしょうか。


 夕飯を終えて、しばらくはクッキーをつまみに、動画を見たり、お喋りをしたり、取り留めもなくすごしていました。

 何気ない会話の中で、何気なく玲花の過去を聞き出そうかとも思いました。もしくは、玲花がなにか話してくれるのではないかと、期待もしていました。

 けれど、わたしは聞き出すきっかけがつかめず、玲花は話すつもりもないようでした。

 では、将来の話ならと、受験生ならではの話題を振ってみました。

「大学は決めてるの?」

「うーん、どうしようかな。わたしってなにに向いていると思う?」

「えー⁉︎ なに、まだ決めてないの⁉︎ もう十月だよ」

「そうなんだけどね……」

 そう言う玲花は特に焦っている様子もなく、どちらかといえば他人事のような、無関心さが垣間見えました。

 玲花なら、何にでもなれそうなのに——。

 霧山学園にいたとしたら、勉強はできるほうだと思います。スポーツのほうは、体育の授業をサボり気味なのでなんとも言えません。だったら芸術面ではどうでしょうか。美術の授業はあっても、玲花の作品を見たことはありません。文系なら、玲花は本をよく読んでいるし、なんだか文学少女というのも、玲花に似合いそうです。

 でも、それよりも玲花に特化したものがあります。

 ファッション系、もしくはモデルなど、その分野なら目指せるのではないかと思います。

 特にモデルは『rain in the forest』のサイトで見た限り、とても似合っているように思えました。写真だけでもあんなにカッコよく表現できているのです。どこかのファッションショーなどで、ランウェイを颯爽と歩く姿は、きっと観衆の目を釘付けにすることでしょう。

 ただし、玲花の両親を念頭においてのことなので、果たしてそれが玲花の目指すことなのかはわかりません。母親のことを『あの人』と呼んでしまえる玲花です。理由はわからないけれど、なにかしらの確執が感じられます。そのような親と同じ職種を目指そうとするのかという疑問はあります。

 でも、もったいないと思えるのです。偉そうかもしれないし、なによりもわたしの贔屓目かもしれません。才能を感じさせるのに、そこを目指さないのは、残念な気持ちになるのです。

 そんなわたしの気持ちを伝えたいのですが、うかつに伝えられないのも事実です。わたしは玲花の両親の仕事も、玲花の元の出身校のことも知らないことになっているのです。こんな状況の中で、どのように伝えたらいいのか、見当がつかないのです。

 あれこれと悩んでいるうちに、玲花から逆に質問が飛んできました。

「日向は進路、決まってるの?」

「わたしは地元の大学かな。それが無理なら短大とか。浪人はさせてもらえそうにないから、進学だけはしようかなって」

「大学を出たら何かしたいことってあるの?」

「フツーにOLしてるんじゃない?」

 わたしはこの時ばかりは、得意の誤魔化し笑いを浮かべていました。

 玲花の進路や夢を尋ねておいて、自分は曖昧でいい加減な答えしかありません。しかも、玲花がモデルに向いているなどと、勝手に想像して、おこがましいにも程があります。

 特にこれといった目標も夢もなく、社会に出て働くよりは、大学でもう少しぬるま湯に浸かっていたい。怠け者、もしくは甘ったれた理由。

 わたしは自分自身が何者かになれるなんて思ってもいません。人より秀でた何かがあるなんて、思いつきません。秀でていなくても、打ち込んでいたり、夢中になったりしたものもありません。自分の取り柄というものが考えつかないのです。だから、ごくごく平凡に、路傍のモブキャラのような生き方をするのだと思っています。

「えー、もったいない!」

 玲花はちょっと不満そうに、唇を尖らせました。なにが? と聞き返す間もなく、玲花は続けるのです。

「日向なら、コックさんとかパティシエとか、そっち系が目指せると思うんだけどな」

 思いもつかなかった意外な言葉に、わたしは一瞬固まってしまいました。

 確かに料理やお菓子はよく作っています。でも、それはあくまで趣味の延長、自分の居場所を作るための手段なのです。

 学校に持っていくと、確かに好評です。そして、玲花もわたしの作った料理をベタ褒めしてくれました。でも、それはわたしが玲花のため、玲花個人に作ったものだからです。まったく知らない誰かのため、ましてやお金をもらうことを考えると、大それたことのようにしか思えません。

 それでも、わたしの料理を食べた人が美味しいと言ってくれたり、何度も食べに来てくれたり、それはそれで嬉しいことのように思えます。でも、不味いなどと否定されようものなら、いつまでも引きずって落ち込んでしまいそうです。

 いいことも悪いことも、妄想ばかりが広がって、結局——、

「わたしには無理だよー。趣味みたいなもんだしさ」

 ヘラヘラ笑って、誤魔化すのです。

「そうかなぁ。ちゃんと勉強したり、プロの人に教えてもらったりすれば、いけると思うんだけどな」

 本当に残念そうに話す玲花に、わたしはなにも返せませんでした。

 新たに提示された選択肢は、ちょっと魅力的でした。文化祭でクッキーを褒められたことが思い出されて、それはある意味快感でもありました。でもそれは文化祭というお祭りの雰囲気、ノリ、勢いの中でのことです。真剣に、本気で向き合うとなると——。

 でも、たくさんの人に認めてもらう喜び、仲間との連携、忙しくて辛かったけれどやり切った瞬間の爽快感。

 玲花の言う通り、勉強したり修行したりすれば、もっと理解が深まり、もっと楽しくできるのでしょうか。

「あー、でもヤダかも」

 わたしがうだうだと、悩みにもならないような悩みの無限ループにはまっていると、玲花は何かを思いついたように、ニカっと笑いかけてきました。

「なにがヤなの?」

「だって、もしお店とかで働くようになったら、わたしだけの日向じゃなくなっちゃうってことだし」

「どういうこと?」

「つまり、わたしだけが日向の手料理を食べることを独占できていたのに、誰でも食べられるようになるってことじゃない。それはそれで喜ばしいことなんだけど、わたしだけのものじゃなくなるっていうのが、惜しいというか、残念というか、——」

 わたしは玲花の言葉に呆れて、それから吹き出してしまいました。

 あまりに思考が飛躍しすぎています。取り越し苦労としか言いようがありません。だいたい、わたしは料理の道を目指すともなんともいっていないのです。

「なんで、笑ってるの⁈ 本気で心配してるんだからね」

 わたしはひとしきり笑い終えて、息を整えました。

「だって、わたしはコックさんになるなんて、一言も言ってないよ。それに、もし仮にコックさんになったとしても——」

 わたしは少し言い淀みます。気恥ずかしいことを告白するみたいだから。

「玲花のためだけに特別に作ってあげる」

 玲花は絶句して、息を詰めてしまいました。程なく、ため息のようなものを吐き出しました。

「この子は——。よくそんなセリフがしれっと言えるね。天然なの?」

 怒っている口調でありながら、それが照れ隠しなのがよくわかりました。

「天然じゃないよ。本心だから言うんだよ」

 わたしのほうが優位に立っているようで、いくらか余裕を持って対処できます。にっこり笑いかけると、玲花は顔をそらしてしまいました。

「なんか、あざとい——」

「そんなことないよ。玲花が美味しいって言って、たくさん食べてくれるのがうれしいもん。だから、玲花のために作る料理は特別なの」

 わたしはさらに笑みを深めます。狼狽える玲花は可愛いものです。

「もう! 明日の朝ごはんは美味しくないと許さないからね。わたしが一発で目が覚めるくらいじゃないと、納得しないからね」

「はいはい。お任せください」

 わたしに言い負かされたような感じになって、ちょっと不機嫌そうではありました。でも、その表情の裏にある感情が透けて見えて、わたしは単純に幸せを噛み締めるのです。

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