やがて薄日が射し 青空が開く。

「おはよう」

 それはまだ生徒の少ない、朝の登校時間でした。天気予報は一日中晴れマークです。少しずつ肌寒さを感じながらも、日差しは穏やかで、爽やかな朝でした。

 教室に着いたばかりのわたしは、カバンから教科書を取り出し、机の中にしまっていました。

 文化祭が終わり、休みを一日挟んでの登校です。

 結局、雨森さんへの態度も決められないまま、登校したのでした。

 悩んだところで、どうしようもない、というのが、結論と言えば結論でした。

 雨森さんもいつもと同じ態度を崩さないだろうと思われます。最初の気まずささえ乗り切ってしまえれば、あとは惰性でどうにかなると思われます。つまり、小さく挨拶を交わした後は、まったく会話もないままに、過ぎていくということです。

 それはそれで寂しくはありますが、あの言葉の意味を訊かれるよりはましというものです。

 ところが、挨拶の声に顔を上げた先にあったのは、少し緊張した面持ちの雨森さんでした。わたしは挨拶を返すのも忘れて、その顔を見つめていました。

 新しい表情——。

 転校したての自己紹介の時ですら、表情を変えなかった人です。そんな人が、わたしに挨拶をするだけで、緊張を露わにしているのです。

 それに、いつもなら、雨森さんが席に着いてから、囁くような声で挨拶を交わしていたのです。

 なのに、今朝はわたしの席の前に立って、はっきりとした声で挨拶をするのです。

「おはよう」

 今度はさっきより大きな声でした。いつまでも挨拶を返さないわたしに焦れたように、雨森さんが繰り返しました。

 まだ生徒が少ないとはいえ、半分ほどの席はうまっていました。そのうちの何人かが気付いて、わたしたちに注目しました。

 それは瞬く間に全員に伝播して、わたしというより、雨森さんに視線が集中していました。それも当然です。初めて雨森さんから他人に話しかけたのですから。

 わたしは、他の生徒たちの視線より、やはり雨森さんから堂々と挨拶をしてくれたことが嬉しかったのです。満面の笑顔を浮かべていました。

 だから、美也乃さんと雪穂が連れ立って教室に入ってきたのをわかっていながら、気づかないふりをしていました。

「あ、おはよう……!」

 わたしは弾んだ声で返します。

 いつもこっそりと囁くように挨拶を交わすのも、ふたりだけの秘密を共有しているようで、それはそれで甘やかなものがありました。

 でも、こうして公然と挨拶を交わすと、この後も会話を続けられるのだと期待が膨らみます。

 雨森さんはわたしが挨拶を返したことで、明らかに安堵した表情になりました。

 また、新しい表情——。

 緊張した表情も安堵した表情も、いつもと違う雨森さんでした。それはいつも硬質で、大人びた雨森さんではありません。もっと身近でどこにでもいるような、高校三年生の女の子でした。もちろん、美しい人だというのは、変わりません。

 雨森さんはちょっと顔を固くして、自分の席につきました。

 このあと、どのように会話を続けようかと、悩んでいる様子に見えました。

「この前はごめんね。なんだか、無理矢理押し付けたみたいになっちゃって」

 わたしはこのまま、会話を続けられたらと、自分から話を振ってみました。

 すると、雨森さんのこわばっていた表情が、心持ちゆるみます。わたしのほうに、顔をむけてくれました。

「ううん、クッキー、美味しかったよ」

 うっすらと頬を紅潮させながら、淡く微笑みを浮かべる雨森さんは、初々しく、わたしはこんな日が来るのを、ずっと待っていたのだと、実感しました。

「ホント? そう言ってもらえると嬉しい」

 ただ、このまま手放しで喜べない、あのことも思い出します。「それで、あの——、あの時、変なこと、言って——、ごめんね——」

 今度はわたしが頬を染めて、顔をそらしてしまいました。

「なに? ごめんねって——。なにか謝られるようなことあった?」

「——知りたいとか、会いたいとか——、突然あんなこと言われても、困るし、迷惑だった、よね——?」

「そんなこと、ないよ」

 囁くような声。「会いたいって言ってくれて、嬉しかった。だから、ほら——」

 誘われるままに、顔を上げます。雨森さんの手には小さな紙包がありました。

「だから、これ——、この前のお礼」

 わたしはその紙包をまじまじと見つめます。お礼と言われても、ぴんときませんでした。

「もらっていいの?」

「うん、クッキーをもらったから、そのお返しもかねて」

 わたしは恐る恐るといったふうに、差し出された紙包をうけとりました。

 ケーキショップのロゴの入った紙包。文化祭前に雨森さんと偶然出会った、あのお店でした。

「早く渡したくて、いつもより早く来ちゃった」

「開けていい?」

 雨森さんはこくりと頷きました。

 開けると、甘いバニラと、豊かなバターの香りがたちのぼってきました。中にはフィナンシェが数個入っていました。

「ほら、あのお店はフィナンシェがお薦めだって言ってたから」

 そんなこと言ったっけと、記憶を辿ります。ケーキショップで話した時のことを思い返します。わたし自身はあの時の会話をほとんど憶えていません。あの時は、雨森さんと初めてまともな会話を交わす機会を得て、とにかくなにかを話さなければと無我夢中だったのです。わたしの他愛もない会話を憶えてくれていたなんて——。

「このフィナンシェ、好きなんだ」

「そう、喜んでもらえて、よかった——」

「でも、かえって、気を使わせちゃった?」

「そんなことないって。わたし、お菓子を作ったことないから、買ったのしかお返しできなくて」

 はにかむように話す雨森さんは、やけに親しみやすくて、今までの近寄りがたい雰囲気はなんだったのかと、思えました。

 まだまだ、会話はぎこちないけれど、いい方向に向かっている予感だけは、しっかりと感じられました。

 この予感を予感のまま終わらせたくなくて、会話を続けようとします。

 だけど、普段、人から話しかけられて、それに相槌を打つだけのわたしには、話題を見つけるのは難しいことでした。なにか、なにかと頭をフル回転させるのですが、あせればあせるほど、なにも思いつきません。

 あせるわたしとは対照的に、雨森さんはカバンの中から文庫本を取り出し、読み始めようとしました。

 このまま、会話が終わってしまうのかと、さらにあせりました。

 まだ、話したりない。

 わたしの得意なこと——。

「雨森さん」

 今まさに読書体勢に入ろうとした雨森さんに声をかけます。嫌な顔を見せずに、自然な感じで顔を上げてくれました。

「なに?」

 なにと問われて、特に考えもなく声をかけていたわたしでしたが、とっさに思いついたことを口にしていました。

「いっしょにお菓子を作ってみない?」

 雨森さんは驚いたような表情をしていました。

 驚いたのはわたしも同じです。

 また、後先も考えず、勢いだけで口にしてしまいました。あまりにも突然すぎて、断られるのは目に見えています。

 どうしてこうなのか。雨森さんのことになると、いつもと違う自分がいます。自分の気持ちばかりが、先走ります。その結果、思いもよらない言葉を発して、やらかした気分におちいります。

「わたし——」

 雨森さんがちょっと困った顔をしました。

 断られるなと身構えます。

「お菓子って作ったことないけど」

「わたしが教えるから——。クッキーとかなら比較的簡単だし、すぐに覚えられると思うよ」

「それに、材料も道具も持ってないよ」

「だいじょうぶ。うちに全部揃ってるから」

 一瞬の間がありました。

 思案顔です。

 悩むということは、やはり断られるのだろうと、覚悟を決めます。どうせ、思いつきで口から出た言葉です。期待をするのが、そもそもの間違いです。

 雨森さんの好きなこと、得意なこと、なにも知りません。普段、本を読んでいるから、読書が好きなのはわかります。それだけです。それしか知りません。

 それに、わたしがどうしてもお菓子を作りたいという気持ちが強く出すぎて、引かれてしまったのかもしれません。

 雨森さんは小首を傾げて、にこりと微笑みました。

「じゃあ、教えてもらおうかな」

 次はわたしが驚く番でした。

 返事ができないわたしを見て、雨森さんがくすりと笑います。

「なんで風間さんが驚いてるの?」

「いいの?」

「いいのって——」

 重ねて笑われました。「誘ってくれたのは風間さんだよ」

「だって、断られるかと思ったから……」

「風間さんとふたりでなんて、楽しみ」

 その微笑みは屈託なく、本心からのものだと思えました。

「わたしも、楽しみ……!」

 わたしの声が弾みます。「じゃあ、今度——」

 その時、チャイムが鳴りました。

 時間切れ——。

 わたしの様子がよほど残念そうに見えたのか、雨森さんはくすりと笑いました。

「今度、なに?」

 ほんの少しですが、先生が教室に着くまで、まだ時間はあります。

「買い物にいっしょに行こ? クッキーの材料を買いに——」

「いいね。それも楽しみ」

 雨森さんはくしゃりと屈託ない笑顔を見せました。

 急速に、こんなにも距離が縮まるなんて、思ってもいないことでした。

 だから、教室の扉が開いて、先生が現れるときまで、生徒の大半がわたしたちに注目していたのも気がついていませんでした。それほど、わたしは雨森さんとの会話に夢中になっていたのです。わたしが教壇のほうに顔を向けると同時に、数人の生徒が慌てたように前を向くのでした。違和感を覚えたものの、特に気にもなりませんでした。

 でも、たったひとつ、視線を感じます。沙月ちゃんでした。前を向くのも忘れたように、わたしなのか、雨森さんなのか、それともわたしたち二人なのか、視線が突き刺さるようでした。睨みつけているような、漠然と見ているだけのような、そして、悲しみのような、怒りのような、形容しがたい視線でした。


 一限目が終わった十分休み、わたしは美也乃さんの席に引っ張られてきました。

 そこには沙月ちゃん、雪穂だけでなく、クラスメイトも数人集まっていました。

 もちろん、今朝の雨森さんとのやりとりについての尋問です。

 急に親しげに会話を始めた理由、そしてそのきっかけ。

 いくら雨森さんと席を離れて、小声で話しているとはいえ、あまりにもあからさまでした。声が届いていないはずもなく、ましてや、わたしが呼び出される理由は、今朝のことしかないのです。

 わたしは数人のクラスメイトに囲まれて、少し怯えていました。楽しい話題をしようとする雰囲気はまるでありません。それどころか、心配そうだったり、不安そうだったり、中には好奇心を隠そうともしない顔が、わたしを取り囲むのです。

 わたしは助け船を求めて、雨森さんに視線を送りました。しかし、雨森さんはいつもと変わることなく、教室での出来事は無関心とばかりに、文庫本のページをめくっています。その表情も平穏そのもので、本の内容に集中しているようでした。

 助けは得られないと悟り、自力でこの尋問を乗り切らなければならないと覚悟を決めました。けれど、あまり深刻にならないように、いつものへらへらした笑顔で答えます。

「打ち上げのあとに、クッキーを渡しにいったの」

 よほど以外だったのか、ざわめきが起こりました。

「クッキーを渡しにいったって、直接雨森さんの家に行ったの?」

 美也乃さんが尋ねます。

「そうだよ」

 わたしはなるべく屈託なく答えます。やましいことはなにひとつない。

「住所を知ってたんだ」

「あ——、うん。先生に聞いたから」

 これは嘘。

「へえ、どうしてクッキーを渡そうと思ったの?」

 質問は美也乃さんが行なっています。こういう場面では、美也乃さんが取り仕切るのが定番でした。それだけに、手強いものがあります。

 わたしが笑顔の裏に隠した、本当の気持ちを暴かれはしないかと恐れます。先ほどのように、少しの嘘も交えつつ、ただ、起こった事実だけを答えていくのです。

「雨森さんは文化祭に出なかったから、その、雰囲気だけでもと思って——」

「ふうん、優しいんだ」

 若干、棘を感じました。いつものわたしなら、その棘に敏感に反応して、傷つくだけでした。だけど、この時のわたしは、美也乃さんに対して、イラッとしたのです。

 そんなふうに言われたくはない。

「でも、手伝いもしなかったし、本番にも顔を出さなかったし、そこまでする必要がある?」

 雪穂でした。当然の疑問と言えば当然です。雪穂は何度も、雨森さんは放っておけばいいと言っていたのです。

「うん、まあ、そうなんだけどね——。いちおう、クラスメイトなんだし、お裾分け的な——」

 そこでチャイムが鳴りました。一旦尋問は中断です。わたしはほっと胸を撫で下ろしました。

 わたしが自分の席に戻ろうとすると、沙月ちゃんが腕をつかんできました。

「日向——」

 沙月ちゃんはなにかを訴えようとしていました。けれど、その言葉が出てこないようでした。不安そうな、弱々しい表情でした。

 そういえば、沙月ちゃんはさっきもなにも発言しませんでした。

 沙月ちゃんはかなり雨森さんを嫌っています。わたしが毎朝、雨森さんと挨拶を交わしているのすら気に入らないようでした。まして、今朝のように堂々と会話をしているのを見ると、怒り出してもおかしくはありませんでした。

 一限が始まる前の沙月ちゃんの視線を思い出しました。悲しみと怒りがこもった、やけに粘着性を感じさせる視線でした。なのに、なにも言ってこないのです。それどころか、沙月ちゃんは縋りつきそうな眼で、わたしを見つめます。

 わたしの腕をつかむ手に力が入ります。

「どうしたの? 授業が始まっちゃうよ」

「あ、ごめん」

 素直に手を離してくれました。なにか言いたそうにしていたけれど、わたしはそのまま席に戻っていきました。

 沙月ちゃんの様子が怖かったのです。

「ごめんね、わたしが急に話しかけちゃったからでしょ」

 席に着くと、雨森さんが小声で話しかけてきました。

「いいの、気にしないで」

 そう、雨森さんは気にしなくてもいい。こうして会話できるようになったのだから。

 挨拶を交わせるようになったのが、まず第一歩、そして今朝普通に会話ができるようになったのです。着実に雨森さんとの距離が縮まっていくのを感じています。

 それに比べたら、みんなの質問攻めくらいは気にならないというものです。

 二限と三限の終わりの休み時間でも、取り囲まれていました。わたしは肝心なことはぼかしつつ、質問に答えるのでした。

 クッキーを渡したかっただけ、そう繰り返し訴えました。優等生ぶった答えに、みんなはなかなか納得してくれません。それでも、わたしは本当の気持ちなど言えるはずがないのです。

 雨森さんと言葉を交わしたかった。

 雨森さんのことをもっと知りたかった。

 なによりも、雨森さんに会いたかった——。

 わたしはいろんな思いを誤魔化しの笑みで覆い隠します。

 質問に答えながら、わたしはある種の優越感を感じ始めていました。わたしだけが雨森さんと普通に喋れるのです。誰も話しかけようともしないし、話しかけることもできない。わたしだけの特権です。まるで雨森さんを独占しているようでした。

 でも、その反面めんどくさく、うざったいとも思ったのです。

 こうして休み時間ごとにクラスメイトに取り囲まれて、雨森さんとは朝以来まともにお話ができていません。朝に交わした買い物の約束すら、具体的なことはなにも決まっていません。日にち、時間、場所を決めて、確固たる約束にしてしまいたかったのです。

 沙月ちゃんの様子も少し気になりました。わたしを囲む輪の中にいながら、発言はまったくなかったのです。完全に口を閉ざし、聞いているのか聞いていないのかすら、定かではありませんでした。気持ちはどこか遠くにあって、なにか違うことを考えているようでした。

 沙月ちゃんはいつもわたしのことを気遣ってくれます。わたしの様子がおかしいとすぐに声をかけて、労ってくれます。だから、わたしも沙月ちゃんに声をかけるべきだったのかもしれません。

 なのに、わたしはなにも行動を起こしませんでした。

 それほどわたしは尋常ではなかったのでしょう。

 気持ちは高揚し、舞い上がり、浮き足立っていました。優越感や煩わしさを感じることはできても、いつも親切にしてくれる友人の変化に、寄り添うこともできなくなっていたのです。


 四限目の授業中、わたしは雨森さんといっしょにお昼を取ろうと決心しました。決心といえば大袈裟なようですが、休み時間ごとにみんなに囲まれて、雨森さんとはまともにお話もできなかったのです。不満が溢れ出そうでした。

 そして、いっしょに買い物に行くことを確約するのです。

 二人っきりでお出かけできるなんて、楽しいに決まっています。今から心が浮き立ちます。

 そのあとは二人でクッキー作りです。

 どこで?

 あれ? わたしん

 お菓子作りの道具が揃っているのはわたしの家です。わたしは意図しないところで、雨森さんを我が家に招待したことになります。

 わたしの家に雨森さんが来る——!

 今更ながら、大胆な発言をしたものです。本当に、わたしらしくもない、後先を考えない言動が続いています。

 もちろん、友達が遊びにきたことは何度もあります。勉強をしたり、ゲームをしたり、たわいもないお喋りをしたり、ごく普通な出来事です。

 その普通のことが、雨森さんに限って特別に感じてしまうのです。

 誘ったことを後悔しているのか、期待しているのか、自分でもよくわからない気持ちになります。

 でも、やはり期待のほうが大きいのです。

 だから、雨森さんとふたりっきりで、約束を決めてしまいたいのです。

 そわそわと落ち着きません。

 どきどきと胸が高鳴ります。

 ふわふわと舞い上がりそうです。

 ふたりだけの秘密と約束が、こうして増えていくのだという思いが、しっとりと染み込んでくるようでした。

 わたしは隣の席の雨森さんに、そっと視線を送ります。授業中にもかかわらず、頬杖をついて、窓の外を眺めています。

 秋の空は晴れ渡り高く、刷毛を走らせたような筋雲が浮かんでいました。

 なにを見ているのでしょうか。つまらなそうな態度はいつもと変わらず、なにを考えているのかもわかりません。せめてわたしのほうを向いてくれないだろうかと念じてみました。

 すると、それが通じたのか、雨森さんはわたしに顔を向けたのです。

 そして、薄く微笑みかけてくれました。まるでわたしがずっと見つめていたのを、知っていたかのように。

 この笑顔——。

 わたしだけに見せてくれる笑顔。

 わたしだけが独占できる笑顔。

 早く授業が終わればいいと思います。そうしてお昼休み、たくさんお話をするのです。

 授業中はほとんど上の空でした。

 ようやくチャイムが鳴り、授業が終わりました。声をかけようとしたのに、雨森さんはすぐに席を立ち、教室を出て行ってしまいました。

 わたしは慌てて、お弁当を抱えました。美也乃さんたちに捕まる前に、追いかけなければなりません。

 雨森さんはかなり先を歩いていました。休み時間なので廊下に生徒の往来は多いけれど、雨森さんは違う制服を着ているので、すぐに見つけられました。

「雨森さん!」

 わたしは小走りに駆け寄りました。

 雨森さんは立ち止まり、振り返って、そして、笑顔——。

 わたしを認めて、嬉しそうに笑うのです。

 わたしはそれだけで、胸をきゅっと掴まれた思いでした。わたしも笑顔を返したつもりでしたが、うまく笑えていたでしょうか。

「どうしたの?」

「いっしょに、お昼を食べようと思って」

「わたし、学食だけど」

「うん、お弁当持ってきた」

 わたしは弁当箱をかかげてみせました。

「じゃあ、いっしょに行こ」

 わたしはそっと息を吐きました。今更のように、断られる心配していることに、気が付かされました。

 学食までの廊下でも、すれ違う人、追い越す人、全員から注目されているように感じます。雨森さんはやはり目立つ人なのです。そこには、いい意味も、悪い意味も含まれてはいるのですが。

 そして、隣を歩くわたしはどのように見られているのでしょうか?

 学食に着くと、雨森さんはきつねうどんを頼みました。

 けっこう庶民的だな、などと思ってしまいます。

 中は比較的混んでいて、わたしたちは真ん中のほうの席に着きました。

「外が見えるから、窓際から埋まっていくみたい」

 そういうものかと、つられて窓の外を見ます。確かに、麗らかに差し込む日差しは、気持ち良さげです。特別素敵な景色が見られるわけでもないけれど、開放感にいざなわれるのもわかる気がしました。

 席に着くと、雨森さんは長い髪を結び始めました。

 制服のポケットから、ヘアゴムを取り出して、軽く口にくわえます。シンプルな黒いヘアゴム。雨森さんらしいと思えます。

 両手で髪をひとつにまとめていきます。その瞬間にあらわになる耳から首筋にかけての、細く美しいライン。うなじ、後れ毛、あまりの色香にどきりとしてしまいます。

 少し伏し目になって、口にくわえていたヘアゴムで、手早く結びます。

 具合を確かめるかのように、ふるふると小さく頭を振ります。つられて、左右に揺れる髪。

 雨森さんが顔を上げました。わたしとしっかり目が合いました。きょとんとした表情で小首を傾げます。

「どうしたの? お弁当、食べないの?」

 見惚れていたことに、気付かれていないでしょうか。最後に小首を傾げる仕草は、髪を結ぶ艶っぽい仕草と違って、とてもかわいらしく、そのギャップにさらに見惚れることとなりました。

 慌ててお弁当の包みをほどきます。フタの上にはふりかけがのっていて、それを包みとともにわきに避けます。フタを取る私の手元に注がれる雨森さんの視線。

「わ、美味しそう!」

 身を乗り出し気味に、弾んだ声をあげます。「風間さんが作ったの?」

「え、お母さんが——」

 なんとなく気恥ずかしくて、言葉は尻すぼみになっていました。

 定番の卵焼き、唐揚げ、ウインナー、ミニトマト、そして苦手だと言っているのに入っているほうれん草。

「優しいね」

「雨森さんはいつも学食なの?」

「自炊するのって、大変だし、面倒だから」

「自炊? 自炊って、お母さんは?」

「わたし、ひとり暮らしだよ」

 今度はわたしがきょとんとする番でした。

「でも、ほら、初めて出会った日、いっしょにいた人は?」

「ああ、そういえば見たんだっけ」

 見たというより、少しだけど言葉も交わしました。雨森さんに似て、綺麗で凛とした雰囲気がある女性でした。圧倒されるような存在感がある人で、かなり印象に残っています。

「引越しの手伝いに来ただけ。次の朝には帰っちゃった」

「そう、なんだ。てっきりいっしょに暮らしているんだって思ってた」

「あの人は忙しいから、こんな田舎街で——、ってごめんね、田舎街なんて言って。まあ、つまりわたしのことなんか、かまってられないの」

 自嘲気味に、でも感情は押し殺した様子で、淡々と話します。

 しばしの

 これ以上、この話題に触れてほしくないのが、なんとなく伝わってきます。

「うどんが冷めちゃうね。早く食べようか」

 わたしにしては珍しく相手の空気を読んでみます。気の利いたことは言えなくても、これくらいの気遣いはできるのです。

 食べ始めると、またまた、雨森さんの視線が注がれます。主にお弁当に。

 卵焼きを一口かじったところで、雨森さんの熱い視線に根負けしてしまいました。

「食べる?」

 そう尋ねると、ぱっと顔を輝かせます。こくこくと頷くさまが、なんとも可愛らしいのです。

 かっこいいところも、可愛いところも、両方持っているなんて、ずるいな、などと考えていると——、なんと、雨森さんは大きく口を開けてしまったのです。

 え、これって——⁉︎

 少しパニックです。つまり、あーんしてほしいということでしょうか。でも、わたしの箸がつかんでいるのは、今食べかけの卵焼きです。しかもこれが最後の一切れ。あーんだけでもハードルが高いのに、わたしの食べかけを食べさせるなんて、ハードルどころか棒高跳びです。

 ただでさえ、この学食に来てから、注目を集めています。

「あ、雨森さん——? なにをしてるの?」

「卵焼き、もらえるんでしょ?」

「でも、わたしの食べかけだし——」

「いいよ、わたし、気にしないから」

 そんなことを言われても、わたしのほうが気にしてしまいます。躊躇するわたしにお構いなしに、雨森さんは再び口を開きました。あーんと、待ちの体制に入ります。

 わたしは意を決して、口に食べかけの卵焼きを放り込みました。まさに、放り込んだという表現がぴったりな食べさせ方でした。

 けれど、雨森さんはすかさず口を閉じると、咀嚼を始めました。しっかりと味わうように、口をもぐもぐと動かして、こくりと飲み込みます。

 一連の動作が、小動物じみて、なんとも可愛らしい——。

「おいし」

 にっこりと、満足そうに微笑みます。

 見惚れそうになる自分をいさめます。

 今日初めて向かい合ってお話をして、お昼ご飯までいっしょに食べて、なのに、この距離感。

 この状況は今まで望んでいた状況には違いありません。こうして、なんの屈託もなく話せるなんて、まさに夢のようです。

 ずっと無視されていたような状態が続いていました。正直、この急展開についていけていないというのが本音です。

 嬉しいし、楽しいし、心は浮き足立っています。その反面、戸惑いや不安もあります。

 それは、雨森さんにからかわれているのではないかという考えです。

 わたしの行動があまりに煙たく、とりあえず、一度だけでも相手をしておこう。

 そして、明日はまた元通り、言葉を交わすこともなくなる。

 そんなことになると、わたしは耐えられるでしょうか?

 今の幸せな状態から、以前に戻るだけとはいえ、言葉を交わすこともなくなるのです。

 よく熟れた果実を与えられて、その甘さを憶えてしまったわたしは、もう味わえないのだと知った時、その喪失感に耐えられるのでしょうか?

「唐揚げも美味しそうだなぁー」

 ネガティブな思考に落ち込みかけていたわたしは、はっと顔を上げました。

 雨森さんがにこにこと見つめる先には、箸につかまれた、食べかけの唐揚げでした。

「食べる?」

 頷いたかと思うと、雨森さんは、今度は自分から身を乗り出しました。まだ、わたしの口元近くにある唐揚げを、あっと思う間もなく、ぱくりとくわえてしまいました。

 まさに一瞬の出来事でした。

 なにが起こったのか理解が追いつきません。今度こそパニックです。

「唐揚げも美味しい。お母さんは料理が上手なのね」

 あまりにも自然な言葉に、ネガティブ思考も吹っ飛んでいきました。

 わたしは慌てて周りを見回しました。けっこうな数の生徒に見られていたようで、わたしは顔を伏せてしまいました。

 もうダメです。

 まともに雨森さんの顔が見れません。

 あんなに顔が近づいて、すべすべの肌、長いまつ毛、薄桃色の唇、そしてほのかに漂う香り、シャンプー、石鹸、それとも香水かなにかでしょうか。ふうわりと残る香りに、頭がくらくらしてしまいそうです。

「雨森さん、こういうことは——」

 女の子同士でハグしたり、あーんなんてことも、日常的に行われています。わたしも沙月ちゃんなんかとは、なんの抵抗もなく行っています。

 でも、雨森さんとのそれは、非日常というか、特別なことのように思われます。その一線はなになのか、どこにあるのか、今はまだわかりません。

「あ、それ。レイカ。レイカでいいよ」

 なんのことを言われているのかわからず、思わず顔を上げてしまいました。

 雨森さんはちょっと意地悪そうな、にやにや笑いを浮かべていました。きっとわたしの混乱ぶりが、目論見通りだったのでしょう。いたずらが成功した時のような笑顔でした。

 わたしは弄ばれているようで、ちょっとだけ、むっとした顔を作ります。雨森さんはそんなわたしにお構いなく、言葉を続けます。

「わたしの名前。雨森って長くて言いにくいでしょ。だから、下の名前。玲花」

 玲花——。

 わたしはその名前を口の中で転がしてみました。心地良く、ふわふわと柔らかに、そして甘やかに口の中を転がります。

「そう、玲花。これからは下の名前で呼んでくれる? 風間さんは——?」

「ヒナタ——、日向、です——」

「なんで、いきなり敬語?」

 おかしそうに笑う雨森さん——、玲花にわたしは目を細めます。

 ほっこりとした、小さな安堵と幸福感。

 たった、下の名前を呼び合うというだけで、明日からもこんなふうに親しくお喋りができるのだと、希望が持てました。

 なんて単純なのだろうと、自分でも思います。けれど、こんな些細なことを積み重ねていくのだと、そうしてお互いを理解して、距離をもっともっと縮めていくのだと、予感がするのでした。

 その後も、玲花にからかわれながら、食事は終わりました。

 もちろん、次の日曜日に出かける約束を交わすことは忘れません。クッキーの材料を買いに行くだけなので、わたしひとりでも充分間に合います。理由はどうあれ、ふたりで出かけるということが大きな目的なのです。

 この日、玲花と連絡先を交換しました。

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