かなしい心に夜が明けた
「では、ホームルームを始めます」
九月も半ばの月曜日でした。相変わらずの残暑が続いていました。加えて湿度も高く、秋の気配はまだまだ遠くに感じられました。
だらりとした空気が教室の中を満たしていました。気だるい雰囲気が眠気を誘うようでした。
黒板の前には学級委員長と副委員長が並んで立っていました。細川先生は教壇を譲り渡して、少し離れた場所に椅子を置いて腰掛け、教室を見回していました。
『文化祭の出し物について』
今日の議題が板書されています。
わたしはもうそんな時期になったのかと、ほとんど他人事のように板書を見ていました。そういえば先週末に、内容を考えてくるようにと言われていたような気がします。
学校行事でのわたしの役割といえば、お手伝い程度のものです。文化祭ともなるとそれが顕著になります。誰かが描いたポスターの色を塗ったり、教室の飾り付けを手伝ったり、完成した展示物を置いたり、誰にでもできそうなことを、指示通りにこなしていくだけでした。文化祭だからといって、特に張り切ることもなく、かといって非協力的なこともなく、裏方に徹するのが、毎年のことでした。
「わたしたち三年生は今年で最後の参加となります。受験勉強で忙しいかと思いますが、それはみんな同じ条件です。ぜひ、クラス全員で積極的に参加してもらい、素敵な思い出を残して行けたらと思います。——文化祭の日まであまり時間もないので、出し物についてアイディアを募ります。何かやってみたいという希望はありませんか?」
「かったるーい」「めんどくさーい」などとやる気のない声が方々で上がります。
「はい、文句を言っても文化祭は回避できません。早く決まれば、それだけ準備期間に余裕ができます。内容も充実したものにできると思います。前向きに意見を交わしていきましょう」
なんとも大人な委員長の発言に、教室のみんなは黙ってしまいました。
「できるできないは後で議論するので、とりあえず、たくさんのアイディアを出してください」
けれど、なかなか発言する生徒はいません。毎年のことながら、こういう場合、わたしのように他力本願が基本です。みんな、お祭り気分は好きだし、高校最後の文化祭だということは理解しています。けれど、先頭に立って仕切ったり、計画したりというのとは別物なのです。
しばらくしても、誰も発言しないので、委員長は指名することに切り替えたようでした。
「じゃあ、向井さん、何かありますか?」
前の方に座っている生徒が当てられました。
向井さんはおずおずといった様子で、「お化け屋敷とか……?」
副委員長がすかさず黒板に書きとめます。
その後は、次々にアイディアが発表されていきます。
お化け屋敷、喫茶店、縁日、迷路、屋台、漫才、演劇、軽音、写真展、絵画展、占い。
様々なアイディアが出されます。わたしの順番が回ってきました。わたしの中で思いつくものはほとんど出尽くしています。
「風間さん、お願いします」
わたしが考えてきたアイディアといえば——。
「お菓子のお店とか……」
多分最初に当てられた向井さんより、おずおずとしていたと思います。わたしができそうなことといえばお菓子を作ることくらいです。黒板に書かれたわたしのアイディアを見ながら、ほっと息をつきました。わたしの意見が採用されるとは思いません。意見を出すことに意義があるのだと、納得します。
まだ数名の生徒が残っています。先に出たアイディアに乗っかる生徒も出てきているので、これ以上のものは出てきそうにありません。それでも委員長は全員を指名するつもりのようで、次の生徒を指名しました。
わたしはチラリと隣の席を見ました。相変わらず、窓の外を眺めています。いつも飽きずに何を見ているというのでしょうか。横顔すら見えないほど、教室から顔を背けています。
もちろん、わたしの隣の席は雨森さんが座っています。
雨森さんは始業式以来、完全に孤立していました。学校をサボったりすることはないけれど、たまに体育の授業や午後の授業を抜け出したりはします。授業を受けてはいるけれど、聞いているのかいないのかもわかりません。
それよりも気になるのは、誰とも交流を持とうとしないことでした。始業式の次の日の朝、わたしは思い切って挨拶をしました。昨日のことは間違いじゃないかと思おうとしたのです。
しかし、結果は惨敗でした。わたしを一瞥しただけで、挨拶を交わすことはありませんでした。
「あーあ、無視かよ。都会から来た人は違いますねぇ」
どこからかこの様子を見ていた沙月ちゃんが、聞こえよがしに言いました。
「いいよ、沙月ちゃん。わたし気にしてないから」
「でも、日向…!」
「いいの。ね、沙月ちゃん」
わたしは沙月ちゃんをなだめます。沙月ちゃんは不満たっぷりな顔をしていましたが、なんとか気持ちを抑えてくれました。
これ以上、こじれたくはありませんでした。わたしは今日も会えただけで、少なからず喜んでいたのです。もしかしたら、登校すらしてこないんじゃないかと、思っていました。ちゃんと登校して、わたしのクラスに来て、わたしの隣に座ってくれる、まずはそれだけで良かったのです。
その次の日も、わたしはめげずに挨拶を続けました。いくらなんでも、いつかは返してくれるだろうと期待したのです。しかし、雨森さんは頑なに挨拶を交わそうとはしませんでした。
無言で席に着いたかと思うと、カバンから文庫本を出して読み始めます。自分の世界に没入していくようで、話しかけづらい雰囲気が漂います。
授業中、まだ教科書の届いていない雨森さんのために、机を近づけました。教科書は必要だと判断したのか、特に拒否されることはありませんでした。ただし、お礼を言われることもなかったのですが。
他のクラスからも、噂を聞きつけて、見学に来る生徒がいました。あからさまに指をさす子、遠目に小声で囁き合う子、決して歓迎されてはいない環境の中で、雨森さんは気にするそぶりも見せませんでした。
雨森さんの制服は、わたしたちとは違います。前の学校の制服をそのまま着ています。その見慣れない制服は、まるでこの街、この学校、このクラス、すべてのことに馴染もうとしない、雨森さん自身を象徴しているようでした。
雨森さんは、本当にこのまま友達をひとりも作ることなく卒業していくつもりなのでしょうか。
「カフェなんてどうかな?」
わたしがぼんやりと雨森さんのことを考えている間にも、ホームルームは続いていきます。発言したのは雪穂のようです。
わたしの『お菓子の店』の横に『カフェ』が並びました。
きっとこれが最後のアイディアになるでしょう。雨森さんは指名されないはずだから。
それほどまでに、雨森さんは除外された人になっていました。
「はい、委員長」
美也乃さんが挙手しました。既に提案は終えているはずです。たしか写真展を提案していたような気がします。美也乃さんに写真の趣味があったなんて、この時初めて知りました。
「わたしも、江口さんのアイディアに賛成です」
美也乃さんが雪穂の意見に乗っかるなんて、珍しいこともあるものだと、思っていると、さらに言葉が続きました。
「カフェでのドリンクと一緒に、風間さんのお菓子も販売すればいいと思います」
わたしの名前が出たところで、戸惑いが一気に噴出してしまいました。そんなつもりで提案したわけではありません。しかも言うに事欠いて『風間さんのお菓子』とは、まるでわたしがお菓子作りをしなければならないような発言ではないでしょうか。
確かに、わたしの手作りクッキーなんかを学校に持ってきて、休み時間に食べたりしたことは何度かあります。しかし、そんな些細な実績を根拠にわたしの意見に賛成するとは、美也乃さんの魂胆が見えません。
狼狽えるわたしをほったらかしに、さらに美也乃さんは言葉を重ねます。
「普通のカフェではインパクトに欠けるので、メイドカフェではなく、バトラーカフェにすることを提案します」
バトラーカフェ?
カフェという単語は理解できても、バトラーという聞き慣れない単語に、生徒が一斉に疑問符を浮かべました。
「バトラーつまり執事のことです」
すかさず注釈を入れてくれます。理解できた生徒とできない生徒が半々、できた生徒ができていない生徒に教授しています。ひとしきりざわついた教室がおさまるのを待って、雪穂が疑問を投げかけます。
「それって、ホストクラブ的な?」
「違います」
声は抑え気味ですが、しっかりと否定されました。「メイドカフェとキャバクラは同じですか? わたしも行ったことはないので、明確な違いを挙げられませんが、テレビやネットの情報を見る限り、別物だと思われます。それと同じようにわたしの考えているバトラーカフェとホストクラブは別物です」
「では具体的にはどのような企画ですか?」
「簡単に説明すると、メイドの代わりにバトラーがお客様、つまりご主人様をもてなすカフェです」
その説明で、なんとなく想像ができました。でも、と疑問がもたげます。
「バトラーということは、男性ですよね。でもここは女子高ですが?」
委員長はそう言って、細川先生の方を見ました。確かに、ここは女子高なので、男性といえば教師か用務員しかいません。だからといって細川先生がバトラーとなりうるのかといえば、異論があります。委員長も同意見のようで、すぐに美也乃さんに向き直りました。
「もちろん、クラスの出し物なので、バトラーになるのは自分たちです。つまり、接客する人は、男装をしてもらいます」
ここで教室がざわつきます。なんていことを言い出すんだという否定的なざわつき、面白そうだという肯定的なざわつき、静かに、しかし若干の熱を帯びて満たされていきます。
美也乃さんは小さく咳払いをして、話を続けました。
「風間さんの焼き菓子を中心にコーヒー、紅茶、ジュースなどを販売します。バトラーなので紳士的に礼節を持ってお客様ではなく、ご主人様もしくはお嬢様をおもてなしします」
「お菓子のことは風間さんにお任せするとして、バトラーには誰がなりますか?」
わたしにとって、聞き捨てならない台詞を美也乃さんも委員長もさらりと発言しました。さも、予定調和のように、美也乃さんは委員長の質問にだけ答えます。
「それは自薦他薦を問いません。やってみたい人は積極的に立候補してみてもいいんじゃないでしょうか。高校生活最後のお祭りなので」
美也乃さんは一旦言葉を切りました。ちょっと面白いことを思いついたような、悪戯めいた笑みを浮かべました。「じゃあ、わたしからひとり推薦します。藤島さんはどうでしょう?」
おお、と生徒たちがどよめきます。
なるほどと納得してしまいました。ショートカットで小麦色の肌、そしてなによりも陸上で鍛え上げられた引き締まった体——、確かに沙月ちゃんは、スーツ姿なんかもビシッと決まりそうです。まさに男装の麗人といったところでしょうか。などと他人に感心しているどころではありません。このままではわたしはお菓子作り担当に任命されてしまうかもしれません。今までお手伝い程度にしか参加したことのないわたしが、中心になって仕切るなんて、考えただけでも胃が痛みます。
なんとか反論を試みようと、挙手しかけたところに、椅子を鳴らして立ち上がった生徒がいました。もちろん、沙月ちゃんです。
「美也乃、お前なに言ってんの⁉︎ バトラーだかひつじだか知らないけど、なんでわたしが男装なんかしなきゃいけないの⁉︎ いらっしゃいませ、ご主人様、なんてできるかって!」
ものすごい剣幕で一気にまくしたてました。しかし、美也乃さんはそんな沙月ちゃんには慣れたもので、まったく動じる様子もありませんでした。逆ににっこりと微笑んで、
「『いらっしゃいませ、ご主人様』上手に言えるじゃない。それに、沙月のスーツ姿って、とってもかっこいいと思うけどな」
この美也乃さんの微笑みにはなぜか勝てる気がしません。美人の微笑みというのは眼福なのか、魔性なのか、攻撃力を霧散させてしまいます。沙月ちゃんは言葉に詰まって、崩れ落ちるように腰を下ろしました。そして、反論を試みようとしたわたしも、戦わずして白旗をあげるのでした。
この後、ホームルームは滞りなく進行し、バトラーカフェに決定しました。お菓子の担当はわたしに、ドリンクの担当は、内装の担当は、機材の担当は、といったふうに、あらかたの担当者もあれよあれよという間に任命されていました。
しかも、最後までもつれこみそうだったバトラー係も、沙月ちゃんとならという理由で、十人以上の立候補があったのです。
次々に担当や役割が決まっていきます。
ちなみに、総合プロデュースは美也乃さんに、兼任としてカメラを使っての記録係、雪穂はその助手兼インタビュアー、沙月ちゃんは否応なくバトラー。雪穂はイラストが得意なので、看板やポスター、メニュー表のデザインなども手がけます。あと、手が空き次第、誰でもお菓子作りの手伝いを行うことで決定しました。
部活の出し物を優先する生徒を除いて、ほとんどの生徒の役割が決定しました。
ただひとり雨森さんを除いては、です。生徒全員そのことに気がついているはずですが、誰も声をあげようとはしません。厄介ごとに関わりたくないのはみんな同じです。雨森さんも自分の立場を理解しているのか、特に反応もなく、退屈そうに頬杖をついていました。
けれど、教壇に立つ委員長はこの件に関しては、見過ごすこともできないようでした。やはり建前として、全員参加を標榜しているだけに、雨森さんだけを特別扱いするわけにもいきません。かと言って、どこかの係に入れたとしても、なんとなく浮いた存在になるのは目に見えています。それどころか、お荷物的な扱いにさえなってしまいます。
委員長は助けを求めるように、細川先生に視線を送ります。先生も心得たもので、ついっと立ち上がりました。
「はい、出し物も役割も大方決まったな。さすが我がクラスはミーティングの進め方もゴールへの到達も早い。なかなか優秀なクラスだ」
一旦言葉を切り、美也乃さんに顔を向けました。「面白そうな、クラスみんながなにかしらに参加できそうだし、いい出し物だと思う。文化祭当日まで時間もないことだし、細かい内容を詰めて、早めに準備できるように計画的に動くように。困ったことや質問などはいつでも受け付けているので、遠慮なく尋ねてほしい。ただし、バトラーの指南役はできかねるからな」
そこを強調する先生に、すかさず雪穂が手を上げて突っ込みます。
「どうしてですかー? 男は先生しかいないんだから教えてくださいよー」
「先生は、ご主人様気質だから、執事の所作はわかりかねる」
ここでニヤリと笑う先生。しかし、教室は苦笑いで、先生の思うほどには受けなかったようで……。
「まー、とにかく、みんな受験の合間を縫ってのことなので、大変だと思うけど、最後の文化祭、いい思い出を作れるように期待しているから」
先生は一度言葉を切りました。「ところで、雨森」
名前を呼ばれた雨森さんは、緩慢な動作で先生の方に顔を向けました。教室が小さく張りつめました。
わたしは大変な役目を仰せつかったことで、頭を悩ませながらも、やはり雨森さんのことが気にかかっていました。目線だけで雨森さんの顔を窺います。そこには特になんの感情も現れていなくて、このクラスの一員であることなど、微塵も読み取れませんでした。
「君は、特に立候補もしてないようだけど、何かやりたいことはないのか?」
「わたしは参加しないので、気にしないでください」
即答でした。
その答えに、教室の空気が少し緩んだ気がしました。雨森さん自身から拒否してくれたこと、そしてなにより、関わらなくてよくなったこと、そんな思いが汲み取れました。
でも、その流れで本当にいいのかと、疑問がもたげてきます。雨森さんとの距離を縮めるには、文化祭という、まさにお祭り騒ぎが絶好の機会だと思えるのです。それに、この後に控える大きな行事といえば、卒業式までありません。文化祭が終われば、ほとんどの生徒が受験色に染まります。先生が言ったように、クラスが一丸となれるのは、この文化祭が最後の行事なのです。
なによりも、わたし自身が焦っていました。雨森さんとの距離を縮めること、そして一緒に何かを成し遂げること、それができるかもしれないのです。これが最初で最後のチャンスです。ここを逃せば、わたしにはきっかけを作ることは難しいかもしれません。
「それはちょっと認められないな。授業はなくても文化祭というのはれっきとした学校行事だ。参加しないということは、サボるということで、教師としては、はいそうですかと、軽々に認めるわけにはいかないんだ。それに、クラスの出し物である限り、必ず全員が何かの役割を務めてもらう、それは決定事項だよ」
「欠席扱いでも結構です。とにかく、わたしは参加はしません」
淡々としながらも、硬い口調で答えました。
なにがそこまで、雨森さんを頑なにさせているのでしょうか。先生は困った風に唇を歪ませました。普段、飄々とした先生だけに、その表情は珍しいものでした。
先生は知っているはずです。雨森さんがこんなにも頑なな態度を取る理由について。高三の二学期という、中途半端な時期に転校してきた理由について。理由を知っているだけに、強い態度にも出られないように、見受けられました。
細川先生をして、腫れ物に触るような態度に、根深い事情が感じられました。
それを知りたいと思うのはただの野次馬なのでしょうか。雨森さんの抱える事情を共有したいと思うのは、思い上がりでしょうか。
少なくとも、わたしは違うはずです。わたしは雨森さんが美しいことを知っているから。どんな過去が隠されていようと、雨森さんの美しさには、微塵も傷がつくはずもないのですから。
「けどな、雨森——」
短いけれど、確かな重力を持った静けさをやぶるように、先生は呼びかけます。
でも、きっと説得できる材料などありはしないのです。この場で雨森さんの過去を暴露し、しっかりと理由を説明しなければなりません。そうして丁寧に生徒に理解を得るしか、方法はないはずです。それができないからこそ、先生はこの現状を打破できないでいます。
でも、それは許されないことです。生徒の隠された過去を暴くなんて、先生として、人として、許されることではないはずです。
わたしは違います。ただの野次馬でも、好奇心を満たすためでもなく、雨森さんのことを知りたいのです。広く深く知りたいのです。
わたしは立ち上がっていました。先生の言葉を遮るように、考えもまとまらないままに、立ち上がっていました。
普段、ホームルームなどで発言しないわたしが、指名されたわけでもないのに、自発的に立ち上がっただけで、注目を集めています。手にはじわりと汗が浮いてきます。心なしか、足も震えているようです。それでもわたしはいつも通りに振る舞おうとします。深刻にならないように、ふにゃりとした笑みを浮かべてみせます。
教室内を見回す余裕もないけれど、美也乃さん、沙月ちゃん、雪穂、いつものメンバーの心配そうな視線が刺さります。
わたしは唾を飲み込みます。隣に座っている雨森さんだけに意識を集中します。今、わたしが話しかけたいのは、雨森さんだけなのです。
「雨森さん、お菓子作りを一緒にやらない?」
言葉が震えていなかったか、自信はありません。それでも、雨森さんには確実に届いたはずです。意外そうに目を見開き、わたしの顔を見つめてきました。
始業式の日から、初めて表情に感情を浮かべたのではないかと思いました。それほど、雨森さんは無表情で過ごしていた印象がありました。この表情を引き出せただけでも、わたしは満足できました。
ほっと気を緩めて、雨森さんの返事も待たず、椅子に座ってしまいました。
改めて教室を見回すと、好奇心、意外、理解不能、心配、雑多な視線がわたしに集中していました。
咄嗟に顔を伏せていました。心臓が、いまさらのように、バクバクと高鳴るのを感じました。改めて自分の行動を顧みて、今までにない、大胆な行動だったことがわかります。こんなにも注目されることなんて初めての体験でした。
わたしがこれほどまで衝動的に動けるとは、自分でも思いもしないことでした。わたしを駆り立てたものは何なのでしょうか。
そこまでして、雨森さんとの距離を縮めようとしているのでしょうか。
仲良くなりたいという、単純な思いだけなのでしょうか。
自分自身がよくわかりません。
先生が何か言っているようですが、まったく耳に入ってはきません。
もうすぐホームルームが終わろうとしているのだけは、感覚として伝わってきます。
クラスのみんなの反応、特に一緒にお菓子を作ろうと立候補してくれた生徒たちの反応も気になります。わたしが雨森さんを誘ったことで、取りやめてしまうのではないかという危惧も生まれてきます。
そうなれば、雨森さんとふたりでやればいい。ふたりっきりでお菓子を作ればいいのです。
その思いつきは、やけに甘い味がしました。ふたりっきりになれる、それは甘美な妄想でした。
肝心の雨森さんの返事も聞かれないまま、ホームルームの時間は終わりました。
ホームルームが終わると、真っ先に雪穂がわたしの席に駆けつけてきました。
「ヒナからあんな発言が飛び出るなんて思わなかった!」
わたし自身がそう思っているのだから、あまり深掘りされたくはありませんでした。あははと誤魔化すように笑って、言い訳めいたものを考える時間を稼ぎます。
そこへ美也乃さんを伴って、沙月ちゃんも登場します。
「ほんと、なに考えてるの⁉︎ あんなやつと積極的に関わろうなんて、人が良すぎるよ」
沙月ちゃんはわたしのことより、自分のことのほうが一大事だと思うのだけれど、どうなのでしょうか。ホームルームの時間に見せた、美也乃さんへの抗議も忘れ去ってしまったようです。
「全員参加だって、先生も言ってたし、どこにも行くところがなさそうだったし——」
「誰だって、あいつと一緒にやりたいやつなんかいないよ。わたし毎朝見てるんだよ。日向があいつに挨拶してんのに、いつも無視されてるの。そんなね、挨拶もできないようなやつなんて、放っとけばいいんだ」
沙月ちゃんの言葉に雪穂が深々と頷いています。
「感じ悪いよね、雨森さんて。わたしも一緒にやれって言われたらイヤだし」
ふたりがかりで責められているようで、わたしはなにも言えなくなってしまいます。それほどまでに、わたしの発言は許されないものだったのでしょうか。
美也乃さんに救いを求めて、視線を合わせました。美也乃さんはわたしの気持ちを読んだように、小さくため息をついて肩をすくめてみせました。
「ここで日向を責めても仕方ないわね。みんなの意見はどうであれ、日向は間違ってはいないのだから」
美也乃さんはわたしの隣の席に顔を向けます。もちろん、そこはもぬけの殻です。雨森さんはホームルームが終わると、早々に帰っていきました。わたしは何とか引き止めて、言葉を交わそうとはしたのですが、取り付く島もなく背中を見送っているだけでした。
「当の本人は相変わらずの無視。日向の提案については、なんの答えも出さなかった」
「そこなんだよ! 日向がせっかく誘ってくれているのに、ありがとうの一言も言えないのかって!」
「沙月も落ち着いて。ここでこうして雨森さんの文句を言っても、最後は悪口で陰口になっちゃうから、ちゃんと本人のいる前で話し合うとかしないとダメよね」
「でも、きっとケンカになっちゃうよ。殴らない自信がない」
「ま、それもいいんじゃない?」
美也乃さんも沙月ちゃんも、物騒な台詞をさらりとおっしゃいます。
「ケンカはダメだよ……」
小声で割り込んだわたしを、沙月ちゃんはキッと睨みます。
「誰のために怒ってると思ってるの? お人好しの日向のためじゃないの。どのグループにも入れないからって、同情なんかしなくてもいいのに」
わたしは思わず俯いてしまいました。やっぱり同情とか、憐憫とか、そんなふうに感じてしまうのだなと、思いました。
でも、違います。わたしはお人好しでもないし、雨森さんに同情したわけでもありません。ただ、仲良くなりたかっただけです。そして、どんなことでもいいので、いっしょに作業をしてみたかったのです。
つまりは、わたしの自己満足のためだけに、大胆な発言をしたのです。さらには、わたしが誘ったことで、他の生徒たちが辞退したとしても、それはそれでいいとさえ思いました。ふたりっきりでやればいい、いっそのこと、ふたりっきりでやりたい、そこまで考えていたのかもしれません。
こんな気持ちは誰にもわかってもらえないのかもしれません。それは、わたしにもわからないからです。ここまで思い詰めたように、一途な気持ちになるなんて、なぜだかわからないのです。
「ヒナは優しいからね」
取りなすように雪穂が言います。きっと俯いて黙り込んでしまったわたしと、雨森さんのことになるとやけにムキになって怒ってしまう沙月ちゃんへの、雪穂なりのフォローなのだと思います。
「優しくなんかないよ……」
わたしの気持ちを見透かされているようで、小さな声で否定していました。そう言えば、沙月ちゃんは雨森さんの話題になると、いつも怒っているななどと、思い返していました。よほど生理的に合わないのだろうなと、ふたりの相性を憂いてしまいます。
「いやー、ヒナはとっても優しい! わたしなら、到底お誘いするなんてできないもん。でも、ヒナの優しさも、アメちゃんには通じないよ」
「誰? アメちゃんて?」
美也乃さんが聞き慣れない名前に、すかさずツッコミを入れます。
「ん、雨森さんのことだよ」
「いつからそんなに親しくなったの?」
「親しくなんてないよ。まともに話したこともないのに。名前長いし、今思いついただけ」
雪穂の台詞に、みんな脱力してしまいます。これが雪穂のいいところです。空気を読んでいるのかいないのか、場の空気を弛緩させることが多々あります。この時も、なにも考えていなさそうな雪穂に、微苦笑を浮かべるのでした。
「そんなことより、ヒナがアメちゃんにいくらアプローチしたって、きっと届かないよ。ヒナの片想いで終わるだけだって」
片想いという言葉に、びくりとしてしまいます。まるで心を見透かされたようで、雪穂はわたしのなにかを知っているのではないかと狼狽えそうになりました。狼狽えるのを悟られたくなくて、わたしはいつもの笑顔を浮かべてみせます。
「片想いって、日向の優しさをそんなふうに言うなんて、それは日向に失礼じゃないか⁉︎」
沙月ちゃんが、なぜか必要以上に大きな声を出しました。わたしを庇ってくれているつもりなのでしょうか。さっきまでわたしを叱っていたような気がしたのですが。
「ものの例えじゃない。とにかくさ、あの人はわたしたちなんて眼中にないからね。この高校に来るのもイヤなんだろうし、とっとと卒業したいっていうのが見え見えだしね」
雪穂は一息ついて続けます。「ヒナがどんなつもりで彼女を誘ったのか知らないけど、無視されて、イヤな思いをするのはヒナ自身だからね」
「そうそう、日向の親切心なんて、あいつにしてみれば迷惑なだけなんだって」
沙月ちゃんの言葉がわたしの心を抉ります。痛いところを突かれた感じです。ただでさえ、他の人との距離感に疎いわたしには雨森さんとの距離感など、はかれるはずもないのです。最初の頃こそ、とにかく仲良くなり、近づきたい一心で挨拶を交わしたりしてはいたのです。しかし、最近では、わたしの願望の押し付けなのではないかと、そんな気持ちになることもあるのです。完全な無視状態で、まさに無関心、無感動、無表情、そんな雨森さんにどう接すればいいのかもわからないままに、まとわりついているだけなのでしょうか。雨森さんにとってわたしはただ迷惑なだけなのでしょうか。
それでも、わたしは、雨森さんに、わたしの思いを押し付けたいと、思うのです。
「アメちゃんがどう行動するのか、わからないけど、それよりも、いつも受け身のヒナが、クラスで孤立している生徒に手を差し伸べるなんて、成長したなぁって思うわけ。わたしはそこを評価したい」
なんだか上からだなとも思いましたが、もっともだと納得はしてしまいます。一応褒めてくれているようなので、特に文句はありません。それに、普段から雪穂の言う通りなので、異論はありませんでした。
けれど、わたしがまるで雨森さんをクラスに溶け込ませようと、努力しているような言い方に、それは誤解だと反論したくなります。わたしはただ、雨森さんと親しくなりたいがためだけに、あんな発言をしたのです。わたしの欲求がついぽろりと漏れ出てしまったようなものです。雪穂の評価は過大評価だといえます。
「ま、いいや。どうせあいつは協力なんてしないだろうし」
沙月ちゃんは雨森さんの話題から離れたがっているようでした。よほど虫が好かないみたいです。
「お菓子を作るのが大変だったら、わたしがいくらでも手伝うから」
「調理実習で、真っ先に指を切っていた人がなに言ってるの」
美也乃さんの辛辣な言葉が飛び出します。こればかりはなにも言えない沙月ちゃんはグッと言葉を詰まらせます。
「そうそう、サッちゃんは人にかまっているヒマなんてないんだから」
雪穂がほくそ笑みます。その言葉に沙月ちゃんはがくりとうなだれてしまいました。
「ほんと、沙月は立派なバトラーになってもらわなくちゃならないんだからね」
美也乃さんが追い討ちをかけます。
「美也乃にだけは言われたくない——」
いくらか恨みのこもった声音でした。さっきまで怒りのオーラ全開だったのに、どんよりとした暗灰色のオーラが見えるようでした。
「まあまあ、そんなに落ち込まないで」
美也乃さんは慰めるように、沙月ちゃんの肩を優しく叩きます。
「誰のせいだよ……!」
「だって、沙月以上に素敵な人が思いつかなかったんだもん」
「おだてにはのらない……」
「なに言ってるの。わたしは一度だけでも、沙月が『男装の令嬢』に変身したところを見たいと思っていたのよ」
「なに? だんそうの……って、難しいこと言って誤魔化そうとしている……」
「誤魔化してなんかないって。とにかく、もう決まっちゃったことだしね」
「決まったんじゃない。強制的に決められたんだ……」
らしくない沙月ちゃんに美也乃さんも大きくため息をつきました。普段なら、もっとサバサバと潔く気持ちを切り替えるはずなのに、今回に限ってはやけにうじうじと文句を垂れ流します。
「日向もなにか言ってあげてよ」
珍しく美也乃さんが助け舟を求めてきました。わたしもこんな有様の沙月ちゃんは初めて目にするので、どう対処していいのかわかりません。それでも放っておくわけにもいかないので、わたしなりに声をかけてみます。
「ね、沙月ちゃん、わたしも沙月ちゃんのバトラー姿を見てみたいな」
わたしの声に反応したのか、うなだれたままでしたが、肩がピクリと小さく動きました。
「……ホント?」
「ホント、ホント。だってバトラー姿の沙月ちゃんて、想像しただけでかっこいいと思うよ」
「でも、わたしは日向と一緒にお菓子作るほうがいい……」
「じゃあ、こうしよう。沙月ちゃんは早くバトラー修行を終えて、自信が付いたところで、お菓子作りの係に合流する。もちろん、修行の合間に手伝いに来てくれるのもオッケーだし。そうすれば一緒にお菓子も作れるでしょ」
「でもわたし料理なんてほとんどしたことないし……」
「だいじょうぶ。包丁を使う作業はあまりないから、混ぜたり捏ねたり、そういうのをやってもらうし、ね?」
沙月ちゃんは顔を上げてわたしの手を握りしめました。
「日向はわたしがバトラーになったところを見てみたいと思うの?」
心なしか、瞳が潤んでいるように見えます。わたしは沙月ちゃんの勢いに押されるように頷いていました。
「笑ったり、からかったりしない?」
わたしはにこりと笑いかけます。
「そんなことしないよ。だって、同じクラスじゃなきゃ、沙月ちゃんにバトラーとして、接客してもらいたいもん」
「よし! やる! やってやる!」
沙月ちゃんは勢いよく立ち上がり、ぐっと握り拳を作ります。並々ならぬ決意が感じられます。ようやく沙月ちゃんらしくなってきました。一度決意すると、とことんまでやってのけるのが沙月ちゃんです。
わたしはそんな沙月ちゃんを眩しい気持ちで見上げます。わたしにはない、気持ちの切り替えの速さ、決断した後の行動力、どんなことにも熱くなれる心。わたしは到底そんなふうにはなれません。
早速、沙月ちゃんはバトラー役の生徒たちを呼び集めました。
やれやれと思いながら、張り切る沙月ちゃんを見守ります。すると、美也乃さんと雪穂の声が聞こえてきました。
「さすが、日向の一言は聞くわね」「うん、狙い通り」「ほんと、じれったいんだから」「もう三年生なんだから、後がないのにね」「これで少しは進展するんじゃない?」「そうだといいんだけど」「これでなにもなければ根性なしね」
二人はやけに小声で話していました。まるで内緒話のようです。
「誰が根性なしなの?」
わたしは二人の間に入っていきました。
「沙月のこと。ちゃんとバトラーになってくれなきゃ、根性なしだって」
雪穂も頷いています。そんな話の流れだったかなと思いましたが、それよりも美也乃さんに一言愚痴りたかったのです。
「美也乃さん、わたしだって、自信がないんだからね。こういうの、苦手だって知ってるくせに」
「まあまあ、高校最後のお祭りなんだし、日向も楽しまなきゃ」
「そうそう、ヒナのお菓子はいつも美味しいから、ダイジョウブ!」
「問題はそこじゃなくて——」
さらに文句を言おうとしたところに、沙月ちゃんから美也乃さんを呼ぶ声がかかりました。
「美也乃! 美也乃が言い出したんだから、指導してよ!」
「そうね、今行く! ——そういうことだから、日向もがんばってね」
美也乃さんはさっさと沙月ちゃん達と合流してしまいました。雪穂も「ポスターの図案を考えなきゃ」などと言って、離れていってしまいました。
取り残された感じになったわたしは、もちろん気持ちの整理がついているとは言い難い状態でした。本来なら、断ってしまいたい案件です。今回はお菓子作りですが、とにかくなんにせよ、わたしは責任者の立場には向いていないのです。文化祭のような行事のたびに、どこかの班に組み込まれ、誰かの指示の通りに動いて、なんとなく行事に参加しているふりをする、それがわたしのスタンスでした。それなのに、高校最後の年に、大役を任されるなんて、まさに青天の霹靂です。だからといって、流されるだけのわたしには、正面切って断ったり、拒否したりできないのです。せいぜい自信のない素ぶりを見せて、自分の気持ちを汲み取ってもらおうとするのが関の山です。そして、わたしは発言もできなくて、戸惑い、狼狽えているうちに物事は決定しています。心のうちで葛藤を抱えながら、なのに顔はいつものヘラヘラ笑い。まるで最終的には自分から納得して引き受けたような雰囲気になっているのです。
沙月ちゃんを励ましてくれる人はたくさんいるのに、わたしには誰もいません。それはわたしが沙月ちゃんみたいに素直じゃないから。正直な気持ちを表に見せるのは苦手だから。それがわたしがいつも笑顔でいようとしていることの罰なのかもしれません。
それにしても、お菓子作り。こうなっては覚悟を決めるしかありません。わたしも同じ係になった生徒を集め、早々になにを作るのか決めないと間に合わなくなってしまいます。
クッキー、フィナンシェ、ブラウニー、マドレーヌ。
やはり日持ちのする焼き菓子がベストでしょう。自分がどこまでできるのかわかりません。確かにわたしがリーダーのような立場になっていますが、他にもお菓子作りのメンバーはいます。そのメンバーと相談しながら、進めていけばなんとかなるでしょう。わたしの実力など、たかが知れているのですから。
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