いやにおとなび彳《た》ちゐたり

 九月が始まりました。

 だからといって、残暑が緩むわけでもなく、朝から強い日差しが照りつけていました。今日も正午前には三十度を超えるだろうと、予報が出ていました。

 そんな暑さの中で迎えた始業式当日でした。

 教室の中は、暑さにも負けない女子高生たちの熱気と喧騒で満たされていました。

 朝の挨拶とともに、久しぶり! などと叫びながらハグしあったり、スマホで旅行先の写真を見せ合ったり、大声で一夏の出会いと経験を吹聴していたり。みんなそれぞれ再会を喜び合い、思い出話に花を咲かせたりしていました。

 受験を控えているとはいえ、遊べる時には遊ぶといった健全な夏休みを満喫していたようです。

 わたしはそんな賑やかな教室を、自分の席——窓際から一つ離れた一番後ろ——から、一人静かにぼんやりと眺めていました。隣の窓際の席は一学期から空席のままでした。

 わたしがこんなふうに一人でぽつねんとしてるのは珍しいことではありません。仲間はずれや無視されているというわけでもなく、ましてや、いじめられているわけでもありません。

 教室のみんなの様子を観察、というほどのものでもなく、ぼんやりと眺めていたり、窓の外をぼんやりと見遣ったり、要するにぼんやりと過ごすのが常でした。

 わたしは幼い頃から、人見知りが激しく、無口でコミュニケーションが苦手で、自分からは話しかけられない子どもでした。

 小学生の頃は特に、朝の挨拶もまともにできなくて、普段から目立たない、気がついたらそこに存在していたという状態でした。なんとなくみんなの会話の輪の中にいるようで、実は一番外周にいて、ただただ笑っているだけでした。

 中学になれば、人見知りは少し軽減されましたが、相変わらず自分から話しかけることはできませんでした。

 そんなわたしがどこかのグループに属していられたのも、この見た目と、高校生になって、このままではダメだと、一念発起して身につけた特技のおかげだったのかもしれません。

 見た目といっても、わたしは特別可愛いとか綺麗だとか、そういうのではありません。身長は一六〇センチ足らず、体型もそれなりの標準仕様。少し特徴的なのはタレ目と下がり眉です。いつも笑っているような、いつも困っているような、頼りない雰囲気があるらしいのです。

 だから、わたしには愛想笑いの癖がついてしまいました。可笑しい、楽しい時だけでなく、怖い時、怒った時、悲しい時、怒られた時、驚いた時、寂しい時ですら、わたしはへらへらと笑ってしまいます。わたしがふにゃっと脱力した表情を見せれば、場が和むというか、緩むというのか、なんとなく弛緩した空気で有耶無耶に終わってしまうのです。

 そんなわたしなので、狭く浅くの付き合い方しかできません。他人との距離感や空気感がよく理解できなくて、遠慮して、踏み込めなくて、傷つけるのも傷つくのも怖くて、わたしは笑うしかないのです。クラスの中で、ノー天気なお馬鹿キャラの扱いで、ちょっとからかわれたり、いじられたりする、軽めのクラスメイトの一人なのです。

 わたしは今の立ち位置が心地いいと思っています。わたしを受け入れてくれるグループに収まって、適度に仲のいい友達がいて、笑っていられる、それだけで満足です。

「おはよう」

「おはよう、ヒナ」

 松原美也乃さんと江口雪穂が連れ立って登校してきました。

「おはよう」

 わたしも笑顔で返します。

 夏休みの話題が始まります。何をしていたとか、どこへ行ったとか、受験生らしく勉強の話も若干話題に上ります。

 会話の最中に、わたしは持参した保冷バッグの中から、紙箱を取り出しました。机に置いて、蓋を開きます。中には一口大のころころとしたフィナンシェが入っています。これがわたしが高校に入ってから身につけた特技でした。

 料理とお菓子作り。

 初めて手作りのクッキーを学校に持ってきたのは、高校一年の秋でした。夏休みの間に、母親に教わったり、ネットのレシピや動画を参考にして、なんとか二学期に間に合わせたのでした。

 会話が苦手な自分が、会話のきっかけを作るため、誰かに認めてもらうため、けして純粋ではない、だけど切実な思いで始めたのでした。褒めてもらって、また食べたいとお願いされて、また作ってきてと期待されて、ようやくわたしは自分の居場所を見つけたように思えました。

 それからはレパートリーを増やして、しばしば学校に持ってくるようになりました。もちろん学校にお菓子などを持ち込むのは禁止されているので、こっそりとバレないように気をつけてです。

 お菓子をきっかけに、それまで話さなかったような生徒とも話すようになりました。ほんの少し、友達の輪が広がったのです。

「おー、ヒナのお菓子だー。待ってたよぉ」

 雪穂が眼を輝かせて、早速フィナンシェに手を伸ばします。ぽいっと口に放り込みました。

「口の中の水分が持ってかれるよー」

 言葉とは裏腹に、幸せそうな雪穂の表情です。その顔にわたしはほっと息を付きます。自分で味見はしているとはいえ、誰かに食べてもらって、感想をもらうまで安心はできないものです。

「文句があるなら、食べなきゃいいじゃない」

 美也乃さんが冷静な口調で窘めながら、フィナンシェをつまみました。

 見た目が少し派手で、ちょっとお調子もので噂話が好きな雪穂と、美貌と大人びた印象で、冷静沈着な面倒見のいい美也乃さん。あまり共通点がないのに、なんとなく気が合っているのが不思議です。

「夏休みの間、ヒナのお菓子が食べられなかったから、禁断症状が出始めてるの」

「なにそれ、大袈裟」

 わたしはくすぐったい気持ちで、それでもやっぱり嬉しくて、ふにゃりと笑顔を見せました。量が多くてその点は大変だったけれど、美味しいと言ってもらえれば、それだけで報われた気分です。

 今またクラスメイトの一人が、通りすがりの挨拶がてら、ひょいと一つ摘んでいきました。普段あまり会話がなくても、お菓子ひとつで、なんとなくつながっていられる気がします。たとえそれがわたしの勘違いで、ただ単にお菓子だけが目当てだったとしても、美味しいと一言褒めてくれるだけでいいのです。

 わたしはそれだけで満足です。

「ところでさー」

 雪穂が大きく眼を見開いて、体を乗り出してきました。こういう時の雪穂は、何か新しい情報や噂を話題にしようと張り切っているのです。

「転校生って、どんな子だと思う?」

 登校した時から、教室のそこかしこで転校生の話題は囁かれていました。高校三年の二学期という、なんとも中途半端な時期に転校してくるのです。しかもこのクラスに。

 あと半年もすれば卒業で、受験もしくは就職を控えています。そんな不安定な時期に転校してくるのには、何か事情があってのことなのではないかと、憶測を呼んでいるのです。

 噂話が大好物の雪穂は、夏休みの話題もそこそこに、率先して話題にしたがるのでした。

「うちのクラスに入るんだから、すぐにわかるよ」

 美也乃さんはフィナンシェを食べながら、あまり興味もなさそうにクールに返します。

「えー! でも気になるよね、ヒナ?」

 気になるといえば気になるし、美也乃さんの言うように、すぐにわかるといえばその通りです。わたしはどっちつかずの曖昧な、へにゃっとした笑顔を浮かべました。

「どんな子だろうねぇ」

 わたしはずるいなと思います。雪穂にも美也乃さんにも、いい顔をしているという自覚があります。それでもわたしはこんなふうにしか振る舞えないのです。

「なんだか二人とも、反応が薄いなぁ」

 雪穂はつまらなそうに唇を尖らせました。

 そこへ、ばたばたと慌ただしく駆け込んでくる足音が聞こえてきました。

「おはよっ!」

 二学期初日から、元気よく藤島沙月ちゃんが登校してきました。陸上部に所属している沙月ちゃんは、ショートカットで真っ黒に日焼けしています。沙月ちゃんは部活を引退していました。けれど、後輩の指導をするため、夏休み中も陸上部に顔を出していました。それだけ後輩から慕われているということです。

 夏休み中は、一番沙月ちゃんと遊んでいたかもしれません。買い物やプールに行ったり、遊園地にも行きました。夏休みの宿題合宿と称して、美也乃さん、雪穂もいっしょに沙月ちゃんの家でお泊まり会をしたこともあります——これは主に沙月ちゃんの宿題が終わらないための救済でした。

「おっ、日向のお菓子、もーらい!」

 沙月ちゃんは早速一つ、口に放り込みました。

「息があがってるのに、よく食べられるね」

 美也乃さんが感心したのか、呆れたのかよくわからない口調で言いました。

「日向のお菓子は特別だから。——これなんて名前だっけ?」

「フィナンシェだよ」

「このバターとアーモンドの風味が最高なんだよね」

 にかっと笑って、また一つ、口に放り込みました。すると、喉の変なところに入ったのか、急にごほごほとむせてしまいました。

「ほらほら、言った先から」

 美也乃さんが沙月ちゃんの背中をさすります。

「慌てて食べるからだよ。——ほら、お水」

 わたしは自分の飲みかけのペットボトルを差し出しました。沙月ちゃんはそれを受け取ると、喉を鳴らしてごくごくと飲みました。

「はー、死ぬかと思った——!」

 沙月ちゃんは涙目になりながら、照れ笑いを浮かべました。

「沙月はちょっとやそっとじゃ死なないから」

 美也乃さんがしれっと辛辣な言葉を浴びせました。

「わかんないよ。何が原因で死にそうになるのか?」

 雪穂が意味ありげな笑みを浮かべて、美也乃さんに目配せを送りました。美也乃さんもそれを受けて、うんうんと得心したように頷いています。

「ほら沙月、日向にお水を返してあげたら?」

 沙月ちゃんは、ハッとしたように、手の中のペットボトルに眼をやりました。

「あ、これって日向のだっけ? ——ありがとう……」

 なぜか挙動不審になりながら、ペットボトルを返してくれました。心なしか顔が赤くなっているようでもあります。

 わたしはそれを受け取り、キャップを閉める前に、一口飲みました。すると沙月ちゃんが「あっ!」と声を上げました。

「な、なに?」

「飲んじゃった?」

「うん、私も喉が渇いたから」

 沙月ちゃんはわたしというより、ペットボトルを凝視していました。沙月ちゃんの態度の意味がわからず、美也乃さんたちに疑問の視線を投げてみます。しかし二人ともにやにやと笑っているだけで、なにも答えてくれません。沙月ちゃんもごにょごにょと呟きながら、視線を外してしまいました。

「ところでさー、さっちゃんはクラスに転校生が来るのって知ってる?」

 雪穂は新しく現れた沙月ちゃんに話したくてうずうずしていたのでしょう。沙月ちゃんの夏休み中の話題なんかすっ飛ばしていました。わたしたちの反応があまりにも薄かったので、かなり物足りなかったのもあります。

「知らない。へぇそうなんだ」

 沙月ちゃんの返答もかなり棒読み。雪穂の欲求を満たしてくれるものではありませんでした。

「あれ? さっちゃんも興味ない?」

「興味ないっていうか、すぐにわかるよね、うちのクラスに入るんだったら」

「さっちゃんもそっち系なんだ。みんな、もう少し好奇心を持ったほうがいいよ」

 雪穂はもう少し抑えてね、などと思ってしまいます。

 沙月ちゃんが夏休みに家族で出かけた海で、溺れかけた話をしました。聞いているほうははらはらしているのに、本人は豪快に笑い話にしてしまいます。

 沙月ちゃんの笑い声につられたのか、それともフィナンシェにつられたのか、クラスメイトが数人集まってきました。

 わたしの周りが一気に賑やかになります。

 お菓子も眼に見えて減っていきます。

 わたしを中心に輪ができています。

 お菓子を中心に輪ができています。

 けれど、話題の中心にわたしはいません。

 お話をするのはあくまでもクラスメイト。わたしはただ、聞き役になって、頷いたり笑ったりするだけです。

 わたしは自分が目立ちたいと思ったことは一度もありません。特に劇的な出来事も期待はしていません。まして、自分から起こそうとも思いません。学生生活の中で、無難に平凡に過ごしていけたら、それだけでいいと思っています。卒業まであと半年ほどです。何事もなく平穏に過ごし、身の丈にあった大学に進学できればと、思うのです。

 美也乃さんの避暑地のお話、雪穂は自分のことより隣のクラスの生徒の噂話。他にもハワイの写真を見せてくれる生徒、彼氏ができたと惚気話をする生徒。

 わたしにも話が振られました。

「沙月ちゃんと遊園地行ったよね」

 すると沙月ちゃんが、そうそうと頷いてくれました。

「お化け屋敷に入ったんだけどさー——」

 沙月ちゃんが面白おかしく、話を膨らませてくれます。わたしに話題を振られたのに、わたしは沙月ちゃんに語らせています。わたしが話しても、沙月ちゃんのように話は広がっていきません。わたしなら二言三言で終わってしまいます。

 いくら口下手でも、ずるいとは自覚しています。沙月ちゃんに喋らせて、自分はいつのまにか笑って相槌を打つだけなのですから。

 でも、これがわたしの立ち位置です。けして中心にはなれないのです。

 一通り夏休みの話題が終わると、自然と転校生の話題に移っていきました。

「どんな子が来るんだろうね?」

 わたしたちのように、興味を示さない生徒ばかりではなく、雪穂のような興味津々といった生徒も一定数います。

「でも、こんな時期に転校なんて、大変だよね」

 沙月ちゃんがさほど同情した様子もなく、さらりと言いました。

「きっと訳ありなんだよ!」

 話題を広げたい雪穂が、すかさず食いつきます。

「訳ありってなに?」

 他のクラスメイトから、素朴な疑問が発せられました。

「それは家庭の事情ってやつじゃないの?」

「親の転勤とか」

「親の離婚とか」

「なんかありきたりだなぁ」

 雪穂はつまらなそうに唇を尖らせました。

「じゃあ、雪穂の意見は?」

 沙月ちゃんが尋ねます。

「そうだなぁ——」

 雪穂は腕を組んで考え始めました。しばらくして、なにか閃いたようです。

「親じゃなくて、本人に問題があったんだよ。なにか事件を起こして前の学校にいられなくなったとか」

「なきにしもあらずね」

 クラスメイトの一人が頷きながら同意していました。

「アホらし」

 美也乃さんが呆れたように呟きます。「勝手な憶測で話を盛らないの」

 それくらいで、噂好きの口を塞げるはずもありませんでした。

 フィナンシェもなくなり始めた頃、校内放送が流れました。始業式の開始を告げるものです。速やかに校庭に集合するようにと促されます。

 教室の目線が、いっせいに窓外に移動しました。

 あまりの眩しさに眼を細めました。ほとんど雲ひとつない澄み切った青空が広がっています。九月になったとはいえ、猛暑がすぐに終わるわけもなく、ぎらぎらとした日差しが降り注いでいます。すでに三十度近い気温になっているようです。

「熱中症案件だよ!」

「日焼け止め忘れた!」

「化粧が流れる!」

「溶ける!」

 たちまち阿鼻叫喚で満たされました。

 そんなクラスメイトを尻目に、一人涼しい顔をしているのは沙月ちゃんです。さすが、陸上部で校庭を走り回っているだけのことはあります。すでに小麦色にローストされて、化粧もしていないすっぴん少女です。

「日向、行くよ!」

 ぼけっと窓の外を見ているわたしの肩を沙月ちゃんが叩きます。

「暑そうだし、ぎりぎりでいいんじゃない?」

 雪穂が気の抜けたような返事をするわたしに同調しました。

「そうだよ。もう少し教室にいようよ」

「でも、雪穂——」

 汗をかいているのをあまり見せない美也乃さんが静かに声をかけます。「転校生に会えるかもよ」

 その一言がきっかけで、雪穂はがばりと立ち上がりました。

「三年生が模範を見せなきゃ。早く校庭に移動するよ!」

 あまりの豹変ぶりに苦笑しながらも、わたしたちはだらだらと教室を出ました。

 隣では沙月ちゃんがプールに行った時の話をしていました。ウォータースライダー、流れるプール、子供用の浅いプールに入っておこられた——、でも楽しかったね。

 わたしは相槌を打ちながら、転校生について考えていました。不意に思い出したのです。

 そういえば最近引っ越ししてきた人がいたな。

 あの美しい人。あの人が転校生だったら——。

 そもそも、あの人は歳上に見えました。

 でも、あんな美しい人が同級生だったら——。

 少なくとも、あの人に会える——。

 わたしは体を熱くします。外気からだけではない、内から湧き上がる熱。

 ずっと、会いたかった。

 その想いが満ちていくようでした。

 沙月ちゃんの夏休みの話題はまだ続いていました。

 確かに沙月ちゃんたちと過ごした夏休みは楽しかった。

 でも——、でも、この夏の一番の思い出はあの人との出会いだったと、思い返すのです。


 校庭は想像以上の灼熱地獄でした。容赦なく降り注ぐ太陽の光、遮るものはなく、風もほとんどなく、たまに吹く風もまさに熱風です。照り返しも激しく、スカートの中が蒸されるようです。

 眼を開けているのも辛いなか、遠くに逃げ水を見ているのは、わたしだけでしょうか。

 校内ではうるさかった生徒たちも、さすがにこの校庭の暑さの前では、騒ぐ気力も起きないようでした。暑い暑いと地の底から湧き上がる恨み節のような声が、太陽の熱に焼かれて、昇華していくのでした。

 しかし、沙月ちゃんは違います。さすが、陸上部で鍛えてきただけあります。眩しそうに目を細めてはいるものの、まるで暑さを感じてはいない様子です。

「沙月ちゃんはさすがだね」

「ん? みんな軟弱なんだよ」

 からからと笑い飛ばされてしまいました。

「いやいや、沙月ちゃんが特別仕立てなんだよ」

 わたしは沙月ちゃんを日差しより眩しく思いながら見つめます。こんなふうに邪気のない笑顔で笑えるようになれれば——。

 少し離れたところで、美也乃さんと雪穂が並んでいました。美也乃さんは暑さをあまり感じないのか、汗をかいている様子がありませんでした。それどころか、清涼感すら漂わせています。そんな美也乃さんに感心し、少し癒やされるのでした。

 雪穂も違う意味で暑さを感じていないようでした。汗はかいています。ハンカチを使っているのでわかります。なのに、この暑さをもろともせず、ぴょんぴょんと飛び跳ねていました。どうやら、遠くを見ようと足掻いているようです。

 側から見れば二人がじゃれ合っているようにも見えます。けれど、美也乃さんの表情を見れば、雪穂が勝手に盛り上がっているだけのようです。

「みゃーちゃん、あれかな?」

 雪穂の視線の先にあるのは、担任で男性教師の細川先生と——、背の高い女の子。

「たぶんそう。暑いんだから少し離れてよ」

 美也乃さんが露骨に顔をしかめています。それでもお構い無しに、美也乃さんの肩を借りて、雪穂は背伸びをしていました。

「遠くて顔がよく見えないよ」

 美也乃さんの苦情など耳に入っていないようでした。

「始業式が終われば会えるからね。大人しくしていなさい——!」

 美也乃さんが笑顔で、しかし地を這うような低い声音で、雪穂を窘めます。

 その効果は抜群で、雪穂がぴたりと動きを止めました。

「……はい、大人しくしています……」

 美也乃さんが笑顔で注意する時、静かな怒りが爆発する前兆なのです。爆発といっても、大声で怒鳴り散らすわけではありません。長い長いお説教、もしくはお小言が始まるのです。

 わたしは二人の息ぴったりのやり取りに思わず笑っていました。

 沙月ちゃんも「よくやるよね」と失笑していました。

 雪穂のことを笑いながら、本当はわたしも転校生のことが気にかかっていたのです。移動中に思い出したあの人のこと。

 もし、転校生があの人だったら——。

 雪穂の言う通り、顔は判然としません。長い黒髪とわたしたちとは違う学校の制服、そして一七〇センチ以上の細川先生と並んでも見劣りしない背丈。少し俯きがちながらも、背筋を伸ばして立ってる姿勢。

 やはり、あの夜が思い起こされました。あの佇まいはあの人を連想させるのです。

 まとめていた髪をほどけば、あれくらいの長さになるでしょう。身長も同じくらいだったように思います。姿勢はいいのに俯きがちで、どこか儚げな雰囲気も同じに感じます。

 眼が離せなくなりました。

 胸が高鳴ってきました。

 あの人なのでしょうか——。

 でも、あの人は年上のはずです。二十歳くらいの女子大生か社会人のはずです。あんなにも大人びた雰囲気をまとっていたのですから。

 でも本当にわたしより年上だったのでしょうか。

 例えば、美也乃さんのように、大人びた人はいくらでもいます。美也乃さんと友達でなく、街ですれ違っただけの関係なら、確実に年上と勘違いしていたでしょう。

 あの人だって、わたしの勘違いに過ぎないのかもしれません。高校生だとしても、おかしくはありません。

 わたしが第一印象で、勝手に年上だと思い込んだだけです。けして、あのとき確かめたわけではないのです。

「そろそろ始まるよ」

 沙月ちゃんに肩を叩かれたわたしは、びくりと体を震わせました。いつになく、真剣な表情をした沙月ちゃんがいました。わたしの顔を覗き込むようにして見ています。

 なんとなく気まずくて、沙月ちゃんの視線から逃れるように、前方に視線を走らせました。

 スピーチ用の壇上には、教頭先生が立って、マイクの調子を確かめているところでした。

「そんなに転校生が気になる?」

「そ、そんなんじゃないけど……」

「それにしても、見過ぎじゃない?」

「そうかな……。そんなつもりないよ」

「ふーん、だったらいいんだけど」

 沙月ちゃんらしくもない、少し不機嫌な声音でした。その声に不安になって、沙月ちゃんに視線を戻した時には、すでに自分の定位置に戻っていくところでした。

 沙月ちゃんの含みのある態度も気になりました。

「では、二学期の始業式を始めたいと思います」

 教頭先生の声がスピーカーを通して校庭に響きます。熱中症の危険性も考えて、手短に終わらせることが伝えられます。

 だったら、校内放送だけにして、校庭に呼び出さなくてもいいじゃないか、と言うもっともな呟きが、あちこちで囁かれました。

 なにはともあれ、長引かないということに全校生徒の安堵が伝わってきました。

 教頭先生の話が終わると、校長先生へと移ります。汗を拭きながらのスピーチには、遠目にも気の毒なほどでした。

 右から左へ、校長の話を聞き流しながら、わたしはちらちらと転校生のいるほうへ目線をやらずにいられませんでした。

『あなた、福綾女子の生徒なのね? 何年生かしら?』

 思い出されるのは、あの人の母親らしき女性の問いかけでした。

 なぜ、わたしの通う高校なんかが気になるのか。三年生だと答えたわたしに興味深く頷いてみせたのか。その時は深く考えもしませんでした。

 けれど、娘が転校する学校の生徒に興味を示すのは自然なことではないでしょうか。まして、同学年だとすると、なおさらかもしれません。

 わたしは自分の考えに、期待と喜びを感じます。

 また、会える!

 そんな単純な思いが湧き上がってきます。

 陽炎の中で、ゆらゆらと揺らぐその姿、あの人であるのか、あの人ではないのか、どちらともつきません。

 猛暑の中に立っているだけではない、体温の高まりを感じずにはいられませんでした。

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