第18話 【理由】(18) 〜エピヌス暦1131年2月〜
「もういい加減に諦めたらどうだ」
長椅子に斜めに座り、肘掛けに背を預けたイリアスが、うんざりした表情で溜息をつく。
3人だけのささやかな晩餐を終えてゼインを見送った後、イリアスは一連の言動について瑛璃に詰め寄られ、2人きりで話をすることになった。
寒い玄関ホールで立ち話するわけにもいかず、書斎に場所を移したのが良くなかった。
「まだ怒ってるんだな?」
「怒ってない」
「いや、怒ってるから、私に勝つまでやらないと気が済まないんだろう?」
書斎に移動後、まず、ゼインと瑛璃の仲を勘繰り、2人が気まずくなるようなことを言った件に関して、延々と文句を並べ立てられた。
そして、散々謝罪をさせられた後、ようやく解放されるかと思いきや、彼女が部屋の隅にあるレクスベラムの
「もう怒ってないけど、許してないわ」
瑛璃は盤上に新たに駒を並べ直しながら、テーブルを挟んで向いに座るイリアスを恨めしそうに睨む。その顔は怒っていて、かつ、許していなさそうだった。
瑛璃のご機嫌取りのつもりで始めたレクスベラムだが、何回目かわからなくなるほど対戦させられる羽目になった。
瑛璃には先日ゲームの概要を教えたばかりで、彼女は今日初めて実際に駒を動かす、初心者中の初心者。負け知らずの達人相手に
雪は細かくなっていたが、相変わらず降り続けていた。
深夜に差しかかって辺り一帯の生活音が減ったことに加え、市街を覆う雪が雑音を吸収しているせいか、普段は聞こえない遠くの教会の鐘の音までもが届いている。
次の鐘の音が鳴れば日付が変わる、そのような時分。自然と目蓋も重くなる。
「もう君が勝ったんだからいいだろう」
駒を並べ直す瑛璃を眺めながら、イリアスは
「ダメ。早く終わらせたくて、わざと私に負けたでしょ」
瑛璃が子供のように口を尖らせる。
「今度こそ、本当に最後だぞ」
手加減したというのは図星だったらしく、イリアスは渋々といった感じでまた応じる。
「勿論よ。今度こそ私が勝つんだから」
瑛璃は勝気な表情で中央寄りの白い歩兵の駒を手に取り、2マス前に進めた。
「ちょっと待ってくれ」
何か思いついたようだ。イリアスは徐に立ち上がり、机の引き出しから茶褐色の陶壺と小さな
「何それ」
「グラニス酒だ」
イリアスが壺の封をしていた木栓を抜くと、酒精の刺激的な匂いと共に、森の針葉樹のような香りがして、後からほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
「初めて聞いたわ」
「まだローウェルズの貴族のごく一部でしか流通していない代物だからな」
壺を目の前に差し出され、鼻を近づけた瑛璃が小さく
「何これ……。強そう」
「ヴラトニツァの南西にある寺院で作られている蒸留酒だ。大麦を主原料に、杜松と蜂蜜で香り付けされている」
杯に注がれた金色の液体が揺れ、冷たい針葉の香りが拡がる。
「この酒は『賢者殺し』という異名がある。思考力や判断力を鈍らせるほど強いからだ。
だから、通常は水で割って呑むか、舐めるようにして少しずつ呑む」
そう言いながらイリアスは硝子の器に注いだ原液を、そのまま3分の1ほど喉に流し込んだ。
「このままでは私も面白くない。これで対等にしないとな」
テーブルの上のレクスベラム盤の横に盃を置くと、イリアスは瑛璃が送り出した白い歩兵の駒の前に自分の黒い歩兵を進め、その進行を阻む。
「全部飲もう」
残りの酒を一息に呑み下し、
「随分と余裕があるのね」
すぐさま白い騎士の駒を前線に送る。
「──後悔するわよ」
「望むところだ」
イリアスは他の歩兵の駒を動かしながら、唇の端をわずかに上げる。
「君は本当に覚えがいい」
この日初めてちゃんとしたルールを教えたにもかかわらず、瑛璃は間を置かず即座に対応してくる。おかげで目まぐるしい展開でゲームが進む。
「だが、荒削りだ。
──『警告』」
「あ……」
白の王が黒の城砦と女王に囲まれた形となり、どう動かしても逃れられない状況であることを悟った瑛璃は、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「『
イリアスが黒い女王の駒を白い王の駒に軽く当てると、白い王は乾いた音を立てて盤上に倒れた。
「助言をひとつするならば、君は目先の勝利に捉われがちだ。だから脇が甘い。あと数手で勝てそうな展開になると気が
自覚があるのか、瑛璃は苦い表情で口を横に結んだ。
「早く攻撃を仕掛けることが大事な時もある。だが、俯瞰で全体を見て、状況を把握して、じっくり攻めることも時には必要だ」
「あなただってすぐ動かしてたじゃない」
反論する瑛璃にイリアスが微笑みかける。
「初心者と一緒にしないでくれ。私はレクスベラムを何千回とやってきて慣れてるから、瞬時に見極めて駒を進められる」
「じゃあ、もう一回」
「駄目だ」
片付けを始めたイリアスを恨めしげに睨むと、瑛璃は何を思ったのか、テーブルに置かれていたグラニス酒の陶壺と
「ずるい。何が『賢者殺し』よ。私を油断させて勝つなんて、卑怯だわ」
「おい、その酒は本当に強いんだぞ」
瑛璃が何をしようとしているのか悟ったイリアスが慌てて取り返そうとしたが、時既に遅く、グラニス酒を並々と注いだ盃を瑛璃が一気に呷る。
「うっ」
呻き声を上げて咳き込む瑛璃の側に寄ると、イリアスはその背中をさする。
「大丈夫か?」
「平気よ、気管に入りそうになっただけ」
「それより、これ、やっぱり大したことないんじゃない? 口当たりが良くて美味しいわ」
瑛璃がさらにもう一杯呑もうとして、壺を傾けたため、イリアスが慌てて奪う。
「そういう酒が一番危険なんだ」
強引に掠め取った勢いで、壺の中の酒が少し溢れ、床に落ちる。
「嘘つき」
「?」
「あなた、全然酔ってないじゃない。そんなに強いお酒じゃないからよ」
「嘘じゃない。この酒は本当に強い。
──だが、私は酒を相当呑める部類に入る。だから、そう簡単に酔うことはない」
瑛璃はイリアスの胸倉を掴む。
「この大嘘つき。強いお酒呑んで思考を鈍らせたふりをして、実際は
「嘘はついていない。ただ、簡単には酔わないことを教えなかっただけだ」
何食わぬ顔で言う。
「でも、私を、騙したわ」
声のトーンが柔らかになり、イリアスのシャツを掴んできる指の力が緩む。
「ひどい人」
潤んだ瞳がイリアスに向けられたが、その焦点は少し揺れている。
「『ごめんなさい』は?」
ほんのり頬を赤くして、呂律が怪しくなってきた瑛璃に詰め寄られ、イリアスは笑いを堪えながら言う。
「私が悪かった」
「本当にそう思ってる?」
「本当に思ってるから、こうして謝っている」
「ふふっ」
イリアスの言葉に満足したのか、瑛璃はイリアスを解放すると、緩慢な動きで椅子に背中を預ける。
「ご機嫌だな」
元々座っていた長椅子に戻り、イリアスは締まりのない笑顔を浮かべる瑛璃をテーブル越しにしげしげと眺める。
「いつもそんな風に笑っていたら可愛いのに」
「いつも可愛いでしょ」
「そうだな、いつも可愛いし、綺麗だ。でも、今みたいに笑ってる方がもっといい」
イリアスがレクスベラムの駒を全て仕舞い終えた頃には、瑛璃はうつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。
「──禁止事項に『過度な飲酒』も追加しなくてはならないな」
イリアスは立ち上がり、瑛璃の傍らに屈み込むと、その頬に手を伸ばす。掌に当たった温かい肌は
「冷たくて気持ちいい」
手に頬擦りしてくる瑛璃を見て、イリアスは複雑な表情だ。
「ゼイン・カーライルに対する態度とは大違いだな。私には酒が入らないと気を許さないのに」
瑛璃が座ったまま本格的に寝そうになったので、イリアスは彼女の肩を揺すって起こそうとする。
「こんな所で寝ると風邪をひくぞ」
「眠たい。ここで寝る」
心地よい
自分の足で自室まで歩かせるべく、起こそうとして、名前を呼びかけたり、肩や腕を摩ったりしていたが、瑛璃は子供のように駄々をこね続けて動かない。
「頼むから、暴れるなよ」
痺れを切らしたイリアスは、片腕を彼女の背中へ、もう片腕を膝の裏・太腿の下へ挿し入れると、ゆっくりとその体を抱え上げた。
抵抗されるのではと構えていたが、案外あっさりと身を任せてくれたので、イリアスは安堵の息を漏らした。
「あなたの部屋に行くの?」
「まさか」
しなだれかかる体を抱え直しながら、イリアスは鼻で笑う。
「ドアを開けるのに片手を自由にしたい。両腕を私の首に回すんだ」
「うん」
不気味なほど従順な態度に違和感を覚えながら、彼女の背中に回していた方の手でドアを開ける。
書斎を出ると、足元から這い上がってくるような冷気が廊下に充満していた。
「寒い」
首にしがみつく瑛璃の腕に力が入って、必然的に豊かな胸を押しつけられる形となる。
「もう大丈夫だ。離してくれ」
「うん」
酒の匂いに混じって、南国の花の香りが漂う。
濡れた瞳。薔薇色の頬。しどけない唇。白い喉元。思わず見入ってしまい、イリアスは目を逸らしながら話題を変える。
「レクスベラム、なかなか筋が良かったぞ」
「あなたに勝つのも時間の問題?」
「いや、百年早い」
「余裕なのは今のうちよ。絶対にいつか勝つんだから」
「楽しみにしてるよ」
(つづく)
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