【上巻:鉄の目覚め】 第三章 奇跡と亀裂

 私の人生は、あの日を境に一変した。総統官邸の一室を与えられた私は、眠る時間も惜しんで仕事に没頭した。そこは、ドイツ全土の経済的リソースが、数字とグラフとなって集約される、巨大な頭脳のような場所だった。ヒャルマル・シャハト博士は、老練な現実主義者として私の大胆な計画にしばしば眉をひそめたが、ヒトラーという絶対的な後ろ盾を持つ私を止めることはできなかった。

「メンデルシュタム博士、君の計画は危険な賭けだ。国家予算を担保に、これほどの国債を発行するなど正気の沙汰ではない」

「シャハト博士、平時に銀行を経営するのと、瀕死の国家を蘇生させるのでは訳が違います。今必要なのは、慎重さではなく、制御された大胆さです」

 私の最初の仕事は、失業者の撲滅だった。国家事業としてのアウトバーン建設は、そのための巨大な装置だった。全国で何十万人もの労働者が雇われ、つるはしとシャベルの音が、新しい時代の槌音のようにドイツ中に響き渡った。同時に、私はクルップ社やダイムラー社といった巨大企業と連携し、軍備の近代化を「公共事業」の名目で進めた。新しい戦車や航空機の開発は、最先端の技術者たちに職場を与え、ドイツの工業力を飛躍的に向上させた。

 人々は、目に見える成果に熱狂した。街から失業者が消え、国民の食卓にはバターとパンが戻ってきた。彼らは、ヒトラーを奇跡の指導者として崇拝し、SSの黒い制服を、混乱から国を守る秩序の象徴として受け入れた。

 そして1935年秋、国家社会主義の聖地ニュルンベルクで、私のキャリアの集大成となる二つの法律が、満場一致で採択された。

 一つは、「帝国貢献度市民法」。人種や宗教といった「非合理的」な要素を完全に排除し、国家への貢献度のみで市民を三等級に分けるこの法律は、世界にも衝撃を与えた。英仏の新聞は、ナチスの「人種政策からの転換」を驚きをもって報じた。

 もう一つは、「帝国才能誘致法」。世界中の優秀な人材を、国籍を問わず破格の待遇で迎え入れるこの法律は、私の理論の核心だった。

 法案が採択された夜、官邸でささやかな祝賀会が開かれた。ヒトラーは、集まった閣僚や党幹部たちの前で、私の肩を抱きこう言った。

「諸君、メンデルシュタム博士こそ、我が国家実用主義の生ける証人だ。彼の頭脳は、一つの軍団に匹敵する!」

 その言葉に、ゲッベルスやゲーリングといった党の重鎮たちが、作り笑いを浮かべて拍手する。私は、ユダヤ人でありながら、この国のエリートの頂点に立っていた。

 だが、その光が強ければ強いほど、私の足元に落ちる影もまた、濃くなっていった。

 法律の制定から数日後、私はパリへ発つ直前の弟、ダニエルに呼び出された。ベルリン郊外の小さなカフェで会った彼は、以前よりもずっとやつれていた。

「新聞で読んだよ、兄さん。君は英雄だな」彼の声には、棘のある皮肉が込められていた。「君の作った法律のおかげで、我々ユダヤ人は『貢献度』という新しい物差しで測られることになった。まるで家畜の品評会だ」

「ダニエル、君は物事の一面しか見ていない」私は苛立ちを抑えて言った。「この法律は、我々を人種という呪縛から解放したんだ。もう『ユダヤ人だから』という理由だけで迫害されることはない」

「代わりに『非効率だから』という理由で迫害されるだけじゃないか!兄さん、君が作ったのは、より巧妙で、より冷酷な選別システムだ。それに気づかないのか?」

 ダニエルは、一枚の写真をテーブルに置いた。それは、ダッハウ強制収容所の粗末なバラックの写真だった。

「私の友人が、数日前にここへ送られた。社会民主党の党員だった男だ。罪状は『国家の生産活動に対する怠惰および非協力的態度』。つまり、ナチスに忠誠を誓わなかったというだけで、『反国家分子』の烙印を押されたんだ。そこでは、彼のような人々が『再教育』の名の下に、石切り場で死ぬまで働かされている。これも、君の言う『効率化』の一環なのか?」

 私は言葉に詰まった。もちろん、知っていた。ゲシュタポの活動も、収容所の存在も。だが、それは私の管轄外だ。私が手を汚しているわけではない。私は、自らをそう正当化していた。

「……全ての人間を救うことはできない。だが、私は大多数の同胞を、そして何百万ものドイツ国民を貧困から救った。そのためには、多少の犠牲は……」

「犠牲だと?」ダニエルの目が、怒りと悲しみに燃え上がった。「その言葉を、ヒトラー本人から聞いたことがあるぞ!兄さん、君はすっかり彼らと同じ人間になってしまったんだな!」

 彼は立ち上がり、コートを羽織った。

「もう君に言うことは何もない。達者で暮らせよ、帝国貴人閣下」

 最後に吐き捨てるようにそう言うと、ダニエルは振り返ることなくカフェから去っていった。私は、彼を呼び止めることができなかった。彼の言葉が、真実の刃となって私の胸に突き刺さっていたからだ。

 私は、ユダヤ人コミュニティを二つに引き裂いてしまった。私のように体制に協力し、新たな階級社会の中で地位を築こうとする者たち。そして、ダニエルのように、この国の本質的な非人道性を見抜き、故郷を捨てる者たち。私たちは、同じ民族でありながら、決して相容れない選択をしたのだ。

 カフェを出ると、街はすっかり夜の闇に包まれていた。だが、その闇はもはや、ヴァイマル時代のような混沌の闇ではなかった。整然と街灯が並び、SSのパトロール隊が正確なリズムで巡回する、完全に管理された、人工的な闇だった。

 私は、自らが設計したこの秩序正しい地獄の中で、一人立ち尽くしていた。

 弟の最後の言葉が、耳から離れなかった。「君は、すっかり彼らと同じ人間になってしまった」

 違う、と心の中で叫ぶ。私は違う。私は、このシステムを内側から利用し、より良い方向へ導くのだ。そう、自分に言い聞かせなければ、正気でいることなど、到底できそうになかった。

(上巻・第三章 了)

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