第4話 管理会社の電話
「隣の部屋から音がするんです。夜中に、人がいるみたいな……」
女性の声は震えていた。
時刻は午前九時を少し過ぎたころ。
電話口で、彼女は小さな声で、けれど切実に訴えてきた。
管理会社の担当として、私は苦情の対応には慣れている。
騒音、漏水、隣人トラブル。大抵は話を聞けば落ち着く。
だが、そのときの声は、違った。
「壁の向こうで、ずっと誰かが這ってるんです。
昨日も、その前も。
管理会社の方が見に行ってくれませんか?」
嫌な予感がした。
彼女の住所を聞いて入力すると、データベースに見覚えのある部屋番号が表示された。
“◯◯アパート 203号室”
――隣は、先週退去した部屋。
私は、数日前にその立ち合いに行ったばかりだった。
「あの……確認なんですが、隣の202号室ですよね?」
「はい」
「その部屋は現在、空室です。住人の方はもう退去されました」
電話の向こうで、沈黙があった。
しばらくして、女性が小さく言った。
「じゃあ……誰が、あの音を……?」
私は苦笑まじりに答えた。
「たぶん、配管の音とか、壁の中の空気が抜ける音だと思いますよ」
そう言いながらも、自分の声が少し震えていた。
あの日のことを思い出していた。
退去の立ち合いで入ったとき、部屋の壁の一部に黒い染みが広がっていた。
まるで人の手を押しつけたような形。
住人の高橋という男は、
「壁の中で、何かが動いてるんです」
と呟いていた。
私はそのとき、適当に相槌を打って済ませた。
でも、壁紙の裏で“ズズ……”と何かが擦れる音を、確かに聞いた。
退去の翌日、高橋から電話があった。
「まだいるんです。あの手が」
声はかすれていた。
その翌日、彼は姿を消した。
そして今日、また同じ部屋の電話。
私はため息をつき、女性に「後ほど確認に伺います」と伝えた。
電話を切る直前、
かすかにノイズが混じった。
“ズ……ズズ……”
壁を擦るような音。
そして、そのすぐ後に、別の音がした。
――「見えるようになったんだね」
私は反射的に電話を切った。
受話器を置いた手が、じっとりと汗で濡れていた。
机の上の書類を見下ろす。
退去済みの202号室の報告書。
その右下の隅に、乾いた黒い手の跡がついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます