第22話 とある迷いと、長編小説の書き出し

 夜の帳が降りた頃、佐藤征人さとう/ゆきひとの家は柔らかな明かりに包まれていた。

 リビングには、妹の千恵里ちえりが用意した夕食の香りが漂い、テーブルにはスーパーで購入した天ぷらと、妹がゆでてくれたそばが並ぶ。


 金曜の夜、兄妹は箸を手に笑い合い、至福のひとときを共有していた。

 カリカリの天ぷらの食感、そばの滑らかな喉越し。まさに日常の小さな幸せだ。しかし、征人の心には、ほのかな影が揺れていた。


「……」


 食事を終えた八時過ぎ、使った食器をキッチンで洗った後、征人は二階の自室へと足を運んだ。

 勉強机に腰を下ろし、ノートパソコンを起動する。

 デスクトップ画面が明るく点灯すると、征人は迷わずワードアプリを開いた。


 机の脇には、三枚の原稿用紙が置かれている。

 そこには、緻密に書き込まれた長編小説のプロットが広がっていた。


 ファンタジー世界を舞台にした壮大な物語。征人にとって初めての長編挑戦であり、人生最大級の挑戦でもあった。


 征人の指がキーボードに触れる直前、スマホがけたたましく鳴り響いた。

 ピロン、ピロン――立て続けに届く通知音。

 征人の眉間に皺が寄る。


「またかよ……はあぁ……」


 ため息とともにスマホを手に取ると、画面には見覚えのある名前が表示されていた。


 平野希美ひらの/のぞみ。かつての恋人だ。

 希美からのメールは今日の放課後から増え、内容はどれも似たり寄ったり。まるで定型文のような言葉が並ぶ。


【もう一度、ちゃんと話したい】

【征人ともう一度やり直せたらって思うの】

【明日は休みだし、街中で会えない? 時間は合わせるよ】


 そんな甘い言葉が綴られていたが、征人の心は冷めていた。

 希美との思い出は、確かに眩しかった。彼女の明るい笑顔、どんな話題にも弾むように応じてくれる軽やかな会話。

 アニメやライトノベルの話で盛り上がり、時間が溶けるように過ぎたあの頃。


 高校生になり、希美からの告白を受け、征人は初めての恋に胸を躍らせ、未来を夢見た。だが、その夢は脆くも崩れ去ったのだ。


 親友だと思っていた藤野拓海ふじの/たくみの突然の裏切り。希美と拓海の関係を知った瞬間、征人の世界は色を失った。

 信じていた二人に裏切られた痛みは深く、征人を現実から遠ざけたのだ。


 殻に閉じこもり、誰とも関わらずに過ごした暗い日々。そんな征人を救ったのは、妹の千恵里と文芸部の部長の大崎美玲おおさき/みれい先輩だった。


 千恵里はいつもそばで笑顔を絶やさず、さりげなく兄を支えた。

 美玲先輩は普段は落ち着いた物腰だが、征人の傷を知ると自分のことのように心を痛め、静かに寄り添ってくれた。

 二人の優しさが、征人の凍てついた心に温かな光を灯したのだ。


 二年生に進級し、希美や拓海とはクラスが離れた。それから新しい友人たちとの出会いもあり、征人は少しずつ前を向けるようになっていた。

 そんな矢先に届き始めた希美のメール。

 復縁を求めるその言葉に、征人は苛立ちを覚えるばかりだった。


「いい加減、うんざりだな」


 スマホを握りしめ、征人は決意を固めた。

 かつての友人という情が、彼女のアドレスをブロックする手をためらわせていたが、もう限界だった。


 ポチポチと操作を進め、希美のアドレスを削除。すると、耳障りな通知音がピタリと止んだ。


「これでいいか……やっと静かになったし」


 征人の脳内を侵食していた希美の存在を消去し、気分を一新する。


 肩の力を抜き、征人は再びパソコンの画面に向き合った。

 征人は一〇万字を超える大作を目指し、文芸部の部員としてライトノベルの新人賞への応募を視野に入れていたのだ。

 しかし、一〇万字なんて簡単には書けない。


 噂では、凄腕の作家なら一週間で書き上げる者もいるらしいが、征人には夢のまた夢だ。


「まあ、俺はコツコツとやるしかないよな。まずは一日二〇〇〇字、休日は四〇〇〇字を目安に執筆を続けるか」


 A4の白紙の紙に簡単なスケジュールを書き出し、征人は自分を鼓舞した。

 最終確認のやめにプロットをもう一度眺め、物語の骨子に問題がないことを確認する。


 あとは、書き出しだ。

 ライトノベルらしい、読者を一瞬で引き込む冒頭が鍵となる。


「冒頭って大事だよな。読者の心を掴めるかどうかが重要だって言うし」


 征人は腕を組み、思考する。


 ファンタジーなら、派手なバトルシーンで始めるのが定番か?

 剣と魔法が火花を散らす戦場、主人公が巨大な魔獣に立ち向かう緊迫感。あるいは、静かな森で謎めいたヒロインと出会い、運命の旅が始まるシーン?


 どちらも魅力的であり、征人の中で決めかねる。


「んー……まずはアイデアを整理しようか」


 ワード画面を見て、キーボードに手を置き、征人は次々と浮かぶイメージを打ち込んでいった。


 剣士の主人公が、咆哮を上げる魔獣と対峙するシーン。

 森の奥で、謎めいた少女と運命的な出会いを果たす瞬間。

 過去の戦いの回想から始まり、現在の危機へと繋がる展開。


 雑念が消えた今、征人の頭は創作の喜びに満ちていた。

 書き出していく内に、物語の可能性が無限に広がり、キーボードを叩く手が止まらなくなる。


「箇条書きしてるだけなのに、なんか楽しいな。読むのもいいけど、書くってこんなにワクワクするんだ」


 夢中でキーボードを叩くうち、時計は夜一〇時を回っていた。

 ふと、ドアをノックする音が響く。


「お兄さん、入ってもいい?」


 千恵里の声だ。

 征人は顔を上げ、いいよと答えた。

 ドアが開き、千恵里がトレイを持って現れる。

 そこには冷えた麦茶のコップと、帰りに買ったチョコクッキーの袋が載っていた。


「お兄さん、遅くまで頑張ってるね。はい、気分転換にどうぞ!」

「ありがと、千恵里。助かるよ」


 征人は麦茶とクッキーを受け取り、笑顔を見せた。


「お兄さん、どこまで書いたの?」


 千恵里は征人の隣に立って、パソコン画面を覗き込むようにして話しかけてくる。


「まだ最初の部分なんだけど。全然だよ」

「そうなの? でも、ほどほどにね! 明日は朝早いんだから、早めにお風呂に入ってよね。私はお風呂も入ったから。お兄さんんも日付変わる前に入ってね。あと、換気扇も忘れないでね!」

「わかってるよ。ありがとな」


 征人の返答に、千恵里はニッコリ笑って部屋を出ていった。

 征人は麦茶を一口飲み、クッキーを頬張りながら、再びパソコン画面を見やる。

 すでに三〇〇〇字近くを書き進めていたことに気づき、驚く。


「結構書いたな……よし、今日はここまでにしようか」


 パソコンを閉じ、大きく伸びをする。

 麦茶を飲み干し、クッキーをつまみながら、征人は肩の力を抜いた。

 程よい疲労感の中、一階の風呂場へ向かう準備を始めたのだ。

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