第17話 私が間違っていたの、お願い!

 朝の教室は、柔らかな陽光に満たされていた。

 佐藤征人さとう/ゆきひとはいつもの窓際の席に座り、手にしているブックカバー付きのライトノベルのページをめくっていた。


 征人にとって、最近の生活は予想以上に充実していた。

 文芸部で取り組む長編小説のプロットの手直しも終わり、今日の放課後には部長の大崎美玲先輩に提出する予定だ。


 それに休日には後輩や友人と過ごす時間も増え、征人の日常は色鮮やかに輝いていた。だが、その穏やかな空気に、ふと異物が混じるような感覚があったのだ。


 視線を感じ、ふと顔を上げると、教室の入り口に立つ一人の女の子が目に入った。

 平野希美ひらの/のぞみ――かつての恋人だ。

 希美の瞳は、何かを訴えるように征人をじっと見つめていた。


 ……な、なんでここに⁉


 征人は心の中で驚き、眉をひそめた。

 ライトノベルをそっと閉じると、希美は迷いなく教室に踏み込み、征人の席へと一直線に向かってきた。


「征人、ちょっと話したいことがあるの」


 希美の声には微かな震えが混じっていたが、その瞳は強い決意を宿していた。


「話? 急に何だよって」


 征人は訝しげに目を細め、ちらりと周囲を見やった。

 教室にいた数人のクラスメイトが、好奇心丸出しでこちらを窺っている。ざわつく空気に押されるように、征人は渋々立ち上がった。


「分かった。話すなら、別のところに行こうか」


 小さく息をつき、征人は希美と共に教室を後にしたのだ。




 朝。校舎裏の庭は、静けさに包まれた秘密の場所だった。

 木々の間をすり抜ける風が、征人と希美の間に微妙な緊張感を運んでくる。

 誰もいないこの場所で、最初に希美が口を開いた。


「実は……私、拓海と別れようと思ってるの」


 その言葉は、征人の予想を軽々と飛び越えた。


「別れる? え、なんで? 拓海と仲良かったはずだろ。俺に内緒で付き合うくらいにはさ」


 征人は怒りを隠しつつも、目を丸くして聞き返す。

 拓海と希美は、今から三か月ほど前に、征人を蔑ろにして付き合い始めたカップルだ。


「うん、最初はそうだったんだけど……」


 希美は視線を地面に落とし、言葉を絞り出す。


「拓海に誘われて、勢いで付き合っちゃっただけなの。友達としては楽しいんだけど、恋人としては……なんか、しっくりこないっていうか。ハッキリと言って面倒くさいの」

「面倒くさいって……それ、希美が決めたことだろ? 今さら俺に言われても」


 征人は呆れたように肩をすくめた。

 希美の言葉に、どこか苛立ちが混じる。

 自分勝手な理由で振り回されるのは、いい気分ではなかったからだ。


「だから、征人。私……やり直したいの!」

「……は⁉ え、なんで⁉」


 征人の声が裏返った。

 突然の告白に、頭が真っ白になる。


「やり直すって、急に何だよ! そんな簡単な話じゃないだろ!」

「でも、征人に新しい彼女なんていないよね? だからお願い!」


 希美は、征人に彼女がいない事を願っている態度を見せていた。


「いや……一応、いる、っていうか。それに、希美とは復縁はしないよ。以前、あんなことがあったんだからさ」


 征人は言葉を濁した。

 クラス委員長の桜井綾乃さくらい/あやのとは、恋愛と呼ぶには微妙な関係だが、最近は付き合っていると言えなくもない状況だった。


 文芸部の美玲先輩や後輩の椿結海つばき/ゆうみとも親しくなり、休日の予定を共にするほどだ。

 かつての孤独だった自分とは違い、今の征人の周りには新しい絆が広がっていた。


「なんでよ。お願い!」


 希美は大声で、征人に訴えかけていた。

 けれど、まだ裏切られるかもしれないと思いが、征人の心の中にはあり、すぐには受け入れる事は出来なかった。


 その瞬間、背後から軽やかな足音が響く。

 振り返ると、そこには文芸部の部長――大崎美玲おおさき/みれいが立っていたのだ。

 長い髪が朝の風に揺れ、自信たっぷりの笑みを浮かべている。


「おはよう、征人」


 美玲先輩の声は、親しい友に話しかけるように軽快だった。彼女は自然な仕草で征人に近づき、背後から軽く肩に触れる。

 ほのかに漂うシャンプーの香りと、背中に伝わる柔らかな胸の感触に、征人の心臓がドキリと跳ねた。


「え……まさか、この人と付き合ってるの?」


 希美の声に動揺が滲む。

 二人の親密な雰囲気に、彼女の心が揺れているのが見て取れた。


「嘘でしょ……⁉」


 希美の叫びは、どこか弱々しかった。

 美玲先輩は一瞬、征人の顔をじっと見つめ、状況を察したのか、くすりと笑った。


「んー、まぁ、付き合ってるって言ってもいい関係かな? ね、征人」


 その言葉に、希美の顔が一瞬で青ざめた。

 二人の姿を交互に見比べ、声を押し殺すようにして踵を返すと、彼女は逃げるようにその場を去って行く。


 征人は呆然と立ち尽くした。

 美玲先輩の言葉は本気なのか、ただの気まぐれか。彼女の微笑みからは、何も読み取れなかった。


「先輩……今の、どういう意味だったんですか?」


 振り返って尋ねると、美玲先輩は軽く笑みを浮かべウィンクした。


「さぁ? ちょっと面白そうだったから、かな」


 先輩の軽やかな笑い声が、裏庭に響き渡る。

 征人の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。


「さっきの子、以前付き合っていた子でしょ? なんで今さら話しかけてきたのかしらね? 復縁って言葉が聞こえてきたんだけど?」


 美玲先輩の声は軽い調子だったが、どこか探るような響きがあった。


「そうですね……今付き合ってる人と別れたいらしくて、俺に復縁を迫ってきたみたいで」


 征人は苦笑いを浮かべた。


「それって自分勝手じゃない。征人は断ったよね? まさか迷ったりしてないよね?」


 美玲先輩の口調は軽いままだったが、なぜか少しだけ鋭さを感じた。


「普通に断りましたよ。さすがにそんな気分じゃないですから」


 征人は即答した。

 すると、美玲先輩の表情がふっと柔らかくなった。


「だよねー、私なら復縁とか言われても秒で追い返すけどね」


 いつも冷静な美玲が、ほんの少し感情的な口調になった気がした。だが、先輩と話しているうちに、征人の心は不思議と軽くなっていた。


「でも、先輩、なんでこんなとこにいたんですか?」


 征人が尋ねると、美玲は軽く長い髪をかき上げた。


「んー、最近、朝の裏庭を散歩するのがマイブームなの。静かだし、なんか小説のアイデアが湧いてくるんだよね」

「へえ、そうなんですね」


 征人は少し驚きつつ、先輩の言葉に頷いた。


「征人くんも一緒に歩く? 朝のHRまでまだ時間あるよね」


 美玲先輩の提案に、征人の心がまたドキリと跳ねた。


「え、いいんですか? じゃあ……一緒に」


 少し照れながらも、征人は頷いた。


 二人は木々の間をゆっくりと歩き始める。

 朝の清々しい空気の中、征人は美玲先輩と長編小説のプロットについて語り合う。

 先輩の笑い声と、時折見せる真剣な表情に、征人の心は彼女に靡きそうになっていたのだった。

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