第4章 君が情に酌みしかな
僕は、何度か聞いたことがある。
「あのとき、どうして泣いてたの?」――と。
けれど
「人にはね、心にしまっておきたいことがあるの。……君にも、きっとそういう日が来るよ。」
それが、彼女の答えだった。
僕はまだ子どもだったから、その言葉の重さが、よくわからなかった。
それを知ったのは、夏の終わりのある日のことだった。
夕暮れの商店街。
角を曲がった先――
駄菓子屋の前で、数人の若者がたむろしていた。
「……
「ちょっと可愛いからって調子乗っててさ、結局あの先輩のオモチャだったんだよな。」
「しかも、先輩だけじゃなかったらしいぜ。やばくね?」
「自分の父親ともやってたって噂だぞ。
――あいつ。あれで中坊だっていうから恐ろしいわ。」
笑い声。
僕の足が、止まった。
名前は出ていなかった。
でも――わかった。
その話は、夕子さんのことだった。
耳の奥が熱くなった。
心臓が、ドクンと強く鳴る。
夕子さんが……そんな?
そんなはず、ない――そう思いたかった。
だけど、思い出してしまった。
あの日、公園のベンチで俯いていた横顔。
あの涙の理由。
あれは、僕の知らない世界の、深くて静かな悲しみだった。
僕には届かない場所の痛みだった――
そう思った瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
信じたくなかった。
でも、否応なく知ってしまった。
そのとき僕の中の“子ども”は、
何かひとつ、取り返しのつかないものを覚えてしまった気がした。
恋って、もっときれいなものだと思ってた。
誰かを想うことは、もっと優しくて、温かいものだと思ってた。
だけど現実は――
人を好きになるということは、ときに、知らなきゃよかったことに触れてしまうことなのかもしれない。
夕子さんが語らなかったのは、僕のためだったんだろうか。
それとも――
語ることで、自分が壊れてしまうのが怖かったのかもしれない。
そしてその日から、
僕は夕子さんに、今までのように会うことができなくなってしまった。
それ以来、僕は夕子さんを避けていた。
図書館にも行かなくなった。
いつもの公園のベンチにも座らなくなった。
夕方になると、隣家からピアノの音が聞こえてきた。
その音を聞くたびに、「元気なんだな」と思おうとした。
でも、そうじゃなかった。
僕は、ただ怖かったのだ。
彼女のことを、もうこれ以上、知るのが――
そんなある日。
僕は偶然、駅の近くで夕子さんと誰かが言い争っている場面に出くわした。
大きな声ではなかったけれど、口調があまりに
遠くからでもただごとじゃないとわかった。
相手は――あの日駄菓子屋の前で彼女のことを噂していた連中とは別の男だった。
「……なんで来たの?」
夕子さんの声が、震えていた。
「別に? 久しぶりに顔見に来ただけ。」
「もう、あたしと関わらないでって言ったよね……!」
「関わらない? 笑える。そもそも、おまえが……。」
僕は物陰に身を潜め、2人を見た。
「……おまえ、俺に黙って他の男にもやってたってマジかよ。」
「うるさい……あんたに言われたくない。」
「でも楽しんでたじゃん? おまえ、そういうの好きなんだろ?」
男の笑い声。
夕子さんの頬が、怒りと屈辱で震えていた。
「しかも、金もらって関係持ってたとか……。どんだけだよ。」
夕子さんの顔が、見る間に真っ青になった。
「……黙って……! いい加減にしてよ……!」
かすれた声の叫び。
瞳には涙があふれていた。
その続きは聞こえなかった。
いや――聞こうとしなかったのかもしれない。
それでも、夕子さんが怒りと悔しさでいっぱいになっているのは伝わった。
頬には涙がつたっていた。
僕はそっと、その場を離れようとした。
そのとき、ふと彼女の目がこちらを向いた。
ほんの一瞬。
目が合った……ような気がした。
いや、確かに――彼女は僕を見た。
そして、目を伏せた。
まるで、何も見なかったかのように。
まるで、僕なんて最初からいなかったかのように。
そのまま、夕子さんは男の横をすり抜けて去っていった。
何も言わずに。
僕の名前も、顔も、知らない人のように。
なにも言えなかった。
なにもできなかった。
あのピアノの旋律。
あの夏の日の林檎。
公園の木漏れ日。
すべてが、遠い昔のものに思えた。
僕の“初恋”は、あまりにも
知らなくていいことを、知ってしまった僕だけが、
ひとりでその破片を抱えていた。
◇◆◇◆
【次回予告】
「終章
ピアノの音が消えた家。
残されたのは「売家」の札だけだった。
数日後、隆の家のポストに届いた一冊の「藤村詩集」。
そこに挟まれた栞には、たった一言――彼女の最後の言葉が残されていた。
【作者メモ】
大人になるというのは、嬉しいことばかりではない。
痛みや悲しみを伴うこともある。
隆にとって、初恋の終焉こそが、大人への第一歩だった。
本章はツルゲーネフ「初恋」をモチーフとしている。
藤村とツルゲーネフを結び合わせる試みは成功しただろうか。
当初、僕は隆の父と夕子が関係を持っているという設定を考えた。
だが、それではあまりにリアリティを欠く。
そこで、夕子が多くの男性を相手に、売春のような事をしていたことにした。
それどころか、父親からの性的虐待もほのめかされる。
夕子の境遇のあまりの凄惨さに、誰かに「人の心とかないんか?」とでも言われてしまいそうだ。
だからこそ夕子が隆と過ごした時間は、彼女にとって救いだった――そう思えてならない。
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