Genesis Draw
しょぼ
Chapter 1: An Inherited Palette
絵の具の匂いが、嫌いになりそうだった。
美術大学の第二アトリエ。高い天井から降り注ぐ今日の光は、やけに明るくて、目に痛い。周りでは、同級生たちが楽しそうに筆を動かす音や、キャンバスに色が乗っていく気配が満ちている。
それらすべてが、私――栞(しおり)の世界からだけ切り離されているようだった。
私の目の前には、真っ白なキャンバス。もう一週間、この純白と睨み合っている。
(描いて、何になるんだろう)
一度浮かんでしまったその疑問は、鉛のように重く、私の腕に絡みついていた。
つい先日、学内コンペで最優秀賞を取ったのは、一年生の描いた風景画だった。いや、正確には、一年生がプロンプトを打ち込んで『生成した』AIアートだ。審査員は「新しい時代の感性」とそれを絶賛した。
もう、人間の出る幕なんてないのかもしれない。AIが一瞬で、私なんかが一生かかっても描けないような、完璧なものを生み出してしまうのだから。
乾いてひび割れた絵の具のチューブが、今の私の心そのものだった。
アトリエから逃げるように帰った自室も、色褪せて見える。部屋の隅に置かれたままの、段ボール箱。そこに書かれた『母さんの遺品』という文字が、今日の私には重すぎた。
母、詩織(しおり)も、絵を描く人だった。
母が生きていた時代は、まだ手描きのイラストに神様が宿っていた、最後の黄金期。誰もがペン先に魂を込め、一枚の絵に熱狂していた。……私にはもう、遠いおとぎ話のように聞こえる。
母さんは、いい時代に絵を描けて、幸せだったんだろうな。私とは、違う。
そんなことを考えながら段ボールを整理する指先に、固い感触が当たった。埃をかぶった、小さな木箱。
そっと蓋を開ける。
そこに収められていたのは、古びたカードデッキと、くすんだ金色に輝く小さなトロフィー。
手に取ったカードに描かれていたのは、一人の少女の姿だった。
線は少しだけ震え、塗りには微かなムラがある。完璧じゃない。AIなら、こんな『揺らぎ』は絶対に許さないだろう。
……なのに、どうして。
今まで見たどんな完璧な絵よりも、温かい。胸の奥が、ほんの少しだけ、熱くなった。
それは、母が手で描いた絵だった。
デッキケースに挟まっていた一枚の古いメモ。掠れた文字で、こう書かれていた。
――『CARD SHOP Pallet』
気づけば、私はその古びたカードショップの前に立っていた。中から漏れてくる賑やかな声に、何度も踵を返しかける。今の私には、眩しすぎる世界だ。
でも、あの絵が、母が遺した温もりが、私の背中をそっと押していた。
錆びついた心の扉をこじ開けるように、思い切ってドアノブに手をかける。
カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。
カードのインクの匂いと、少年たちの熱気。そして、すべてを包み込むような、明るい声。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうで笑う快活な女性。その笑顔が、栞の顔を見た瞬間、ほんの僅かに、懐かしさと痛みを堪えるように揺らいだことを、俯きがちな少女だけが気づかなかった。
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