(44)知性の孤独な降下
――シールド・シティ
シールド・シティは夜の帳に包まれていたが、その内部は決して暗くはなかった。巨大な青いエネルギーバリアの光が都市全体を覆い、すべての高層ビルは、まるで冷たい権威を象徴するように、真白と青白い照明で輝いている。空気は徹底的に浄化され、外の荒廃地帯とは比較にならない無菌で均質な空間が、エリートたちのエゴを温存していた。
エヴァンジェリン・カークは、最高評議会の決定による全権停止の直前、自室を抜け出していた。彼女は、従来のGCSの解析官の制服ではなく、都市の清掃作業員が着用する目立たない灰色の作業服に身を包んでいた。彼女の青い瞳だけが、この夜の闇の中で、知性の鋭さを放っていた。
(論理は、この都市のエゴという濁流に敗北した。もはや、言葉は意味を持たない。アラン大将の『信頼』に報いるには、私が論理学者であることを捨て、証拠を探す孤独な行動者になるしかない。)
彼女の手に握られているのは、高性能のナノマシン解析ツールと、アラン大将から密かに提供された、都市のメンテナンスエリアへのアクセスコードだけだ。エヴァンジェリンは、論理的な真実を知っていたが、その真実を感情的な恐怖に打ち勝つための動かぬ物理的な証拠が必要だった。
彼女の目標は、ゼナス議長が『イージス・コード』の規範を無視し、ナノマシン技術を軍事利用するために極秘に確保した、地下深層の隔離ラボだった。
彼女は、メインシャフトではなく、都市の廃棄物処理パイプラインが通る、細く錆びたメンテナンス通路を選んだ。通路の空気は、都市が排出した「論理的なごみ」、すなわちエゴと欲望の副産物の臭いが混ざり合い、重く
通路を歩きながら、エヴァンジェリンは内省を深めていた。
(ユキ大尉。あなたは、人類の『愛』を、非効率なノイズと断じ、完全な論理を求めた。しかし、この都市は、『愛』ではなく、『エゴ』をノイズとして発し、論理をねじ曲げている。論理を乱すのは、愛ではなく、支配欲だった。)
彼女の知性は、この状況を哲学的なジレンマとして解析していた。『イージス・コード』は、愛を否定する論理を禁じた。だが、愛を否定するエゴに対しては、無力だった。彼女は今、規範の論理ではなく、信頼という非論理的な決意を燃料に、人間のエゴという根源的な闇と闘おうとしている。
「アクセスコード:Epsilon-Zero-Nine-Lambda…」
彼女は、地下約200メートルに位置する、旧GCS時代の電力制御室の分厚い扉に、コードを入力した。扉が開くと、冷たい金属の臭いと、ナノマシンの微細な駆動音が、彼女の鼓膜を震わせた。
――
同じ頃、遥か離れた「灰色の砂丘」では、アリス・リンドの『愛の証明』が完了していた。
パールヴァティの機体から、再生ブレードが放っていた青い光は、すでに静かに消えていた。貯水タンクの水は透き通る清流となり、病に侵されていたコミュニティの住民たちの顔には、かすかな血色と、失われかけていた生気が戻っていた。
幼い娘を抱き上げたリーダーの男は、アリスの前に跪き、汚れた涙を流した。
「騎士様…。本当に、無償なのか。我々を奴隷にするための、取引ではないのか。」
彼の不信は、感謝という感情さえも覆い隠すほど、根深いものだった。彼らは、無償の善意など、狂気の英知よりも信じがたい非論理だと知っていたからだ。
アリスは、自身の生命維持回路の警告を無視し、コックピットから身を乗り出した。彼女の顔は、ナノマシンの重圧で青白く、唇は乾いていたが、その瞳は揺るぎない青い炎を宿していた。
「取引ではありません。これは、私の美学であり、私の愛です。あなた方が生きているという事実こそが、私への最大の報酬です。私が求めているのは、あなた方の信頼でも、感謝でもない。ただ、『生きて、明日を迎える』という愛の実践を、この荒廃した世界で継続すること。それだけです。」
彼女は、自らの美学を、絶対的な自己完結型の論理として提示した。
男は、立ち上がることができなかった。彼の心の中で、長年支配してきた絶望の論理が、無償の愛という非論理によって、完全な崩壊を迎えていた。
その時、コミュニティの最年長の女性が、アリスに近づいた。彼女は、地上のコミュニティの過去の歴史をすべて記憶している、生きる図書館のような存在だった。
「騎士よ。貴方が真実を語っていることは、私たちにはわかる。だが、この水は、数日の命しか持たない。シールド・シティのエゴは、必ずこの地を再び汚染する。我々は、再生ではなく、永続的な防衛を必要としているのだ。」
彼女の言葉は、アリスの『生還の美学』が、「一時的な救済」という限界に直面していることを突きつけた。アリスの使命は、個々の命を救うことだけでなく、荒廃地帯全体を永続的に守るという、新たな段階へと移行する必要があった。
アリスは、コミュニティの未来を守るために、「灰色の民」が持つ、地上の汚染に関する歴史的な知識と、パールヴァティの再生技術を融合させるという、新たな論理的挑戦を決意した。
(救済は、知恵と技術の融合なしには、一時的な感情で終わる。愛の実践には、論理が必要だ。)
彼女の感情と論理は、この荒野で、新たな調和を生み出そうとしていた。
――シールド・シティ
地下深層の旧電力制御室を抜けたエヴァンジェリンは、換気システムが停止された、極秘の隔離通路を発見した。空気の密度が異常に高く、湿気と、油、そして新しい金属の臭いが混じり合っている。
彼女は、細心の注意を払いながら、通路を進んだ。やがて、彼女の前に、「極秘:再生効率最適化ラボ」と記された、二重のセキュリティドアが現れた。
「再生効率…これは、地上のコミュニティのナノマシン技術を、軍事利用へと転用するための、ゼナス議長の極秘計画だ。」
エヴァンジェリンの知性は、瞬時にすべての断片を繋ぎ合わせた。ゼナス議長が、地上のコミュニティに「効率性がない」と主張しながら、その裏で、彼らが持つナノマシンの再生技術を奪い取り、最適化しようとしていたのだ。
彼女の瞳に、怒りが灯った。それは、知性が感情を許容したことによる、倫理的な怒りだった。
「ゼナス議長…。貴方は、『愛の規範』を破壊し、人類の最も価値ある財産、多様な生存の知恵を独占し、自らのエゴを肥やそうとしている。貴方こそが、人類にとって最も危険な狂気の論理の体現者だ。」
エヴァンジェリンは、ナノマシン解析ツールを取り出し、ドアのセキュリティパネルに接続した。
「システム・コード:『イージス・コード第二原理、信頼の実行』。セキュリティシステム、論理的な穴を解析。」
彼女の指先がキーボードの上を猛烈な速度で舞い、数万行のコードを書き換えていく。彼女の心臓は、極度の緊張で激しく脈打っていた。論理学者としての彼女が、犯罪者のように潜入しているという、皮肉な現実が、彼女の知性を極限まで研ぎ澄ませていた。
やがて、セキュリティドアが、低く唸るような音を立てて開いた。ラボの中は、最新鋭の機器と、大量のナノマシン貯蔵タンクが並び、ゼナス議長の野心が、冷たい技術として具現化していた。
エヴァンジェリンは、ラボのメイン制御パネルへと進む。彼女の目的は、軍事転用の決定的な証拠データを確保し、アラン大将に届けること。
(行動は、論理を超え、真実を掴む。アリスが愛を証明したように、私は論理の盾をもって、このエゴの論理を打ち砕く!)
エヴァンジェリンの孤独な闘いは、最も危険な核心へと突入した。
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