第三話 魔道刻印紙
その朝は、ほんの少し空気が違っていた。
夜明け前の空は淡い群青に染まり、東の地平にはまだ眠たげな星がいくつも瞬いている。
窓の外では冷たい風が木々を揺らし、カーテンをわずかに膨らませていた。
母――アルシラに抱き起こされた俺は、柔らかな腕の中で目をこすった。
「おはよう、アル」
耳に届く声は、まるで朝露のようにやさしい。だが今日はどこか張りつめた響きがある。
(……そうか。今日は、魔力測定の日だったな)
この世界に転生してから、すでに一年半が過ぎていた。
中身は前世の記憶を抱いたままの青年だけれど、身体はまだ丸っこい幼児そのもの。
足取りはおぼつかない。
そのとき、あくびまじりの声が背後から届く。
父――プロキオだ。寝癖を直す間もなく入ってきたその姿は、普段通り気楽そう。
「ふあぁ……お、今日のアルは賢そうな顔してるな。さすが俺の息子だな」
大きな手で頭をくしゃりと撫でられ、思わずくすぐったくなる。母はそんな父に苦笑しつつ、机の上へと視線を向ける。
そこに置かれていたのは、一枚の紙。
いや、ただの紙ではない。淡く光を反射する白銀の板のような質感を持ち、そして読めないが、何か色々な文字が書いてある。
「アル、これに触れれば……あなたの魔力の属性がわかるの」
母の声は期待と緊張で震えていた。
俺はごくりと息をのんだ。
幼い指をそっと紙に触れた瞬間――。
ふわりと青い光が広がり、波紋のように紙全体を染めていく。
水面のように揺らめく紋様が浮かび上がり、部屋を幻想的に照らし出した。
「……水属性」
母の瞳が見開かれ、その声は息を呑むように細い。
だが終わりではなかった。
青の紋様の上から、淡い緑の渦が絡みつくように踊り、風を思わせる紋章が現れる。
まるで紙の上で、湖面を渡るそよ風が走ったかのようだった。
「水と……風!?」
母の声が驚きに震える。父も目を剥いた。
「二属性!? しかも、こんなにはっきりと……。こりゃ、相当魔力強いぞ」
二人の反応に、俺自身も思わず動揺する。
(……マジかよ。心の中で『水と風が好きだ』って思ってただけなのに……)
偶然か、それとも本当に意思を読まれたのか。
窓の外から、ちょうどそのとき風が吹き込んだ。
薄いカーテンが舞い、俺の髪を優しく揺らす。
祝福されている感じだな
「ねぇ、プロキオ。魔導士の推薦って、もう始まっていたかしら?」
「ああ、まだ先だが……今のうちから準備しておくのも手だな。学園に通わせるには、村の外との連絡も取らないとだしな」
ふたりの会話を聞きながら、俺はまだ温もりの残る魔導刻印紙を見つめていた
(学園……学校か。ついに、そういう段階に入るんだな)
魔力測定が無事に終わると、家族で朝食のテーブルを囲む時間がやってきた。
窓の外には柔らかな朝日が差し込み、台所の中を温かい光で満たしている。
母――アルシラが用意してくれた焼きたての白パンは、まだ湯気がほのかに立ち上り、バターを塗るとじんわり溶けて光を反射した。
野菜スープからも湯気が立ち上がり、香りが部屋中に広がる。ベーコンの香ばしさも加わって、思わず頬がゆるんだ。
母がふと小さな声で呟いた。
「……でも、アル。まだ言葉は出ないのね」
父――プロキオは肩をすくめ、苦笑混じりに言った。
「一歳半なんだし、そんなもんだろう。あまり心配することもない」
母の眉がわずかに寄る。
「でも、この前、村の子はもう『ママ』って言えてたわよ……」
ほんの少しの比較に、母の口調にはかすかな不安が混じっていた。
俺は小さな手でスープの器を持ち、ふぅっと湯気を吹き飛ばしながらすすった。
内心、首をかしげる。
――いやいや、俺はまだ二歳にもなってないんだぞ?
喋らなくても全然普通の範囲だろ。
それに喋り方を、忘れた。言葉ってどう出すんだっけ。大人の言葉を頭の中では理解しているのに、外に出すことができないもどかしさ。
母は、可愛いと笑ってくれる。
だが、目の奥に潜むわずかな影――不安の揺れ。
(……本当は、もう少しで喋れるはずなのに)
小さな胸の奥で、ほんの少しだけ焦燥が芽生える。
言葉を操れない自分と、前世の知識を持つ自分のギャップが、妙に奇妙な感覚を生む。
父がフォークを置き、俺の顔を覗き込む。
「アル、食べるのは上手だな。魔力測定で疲れただろう、ちゃんと食べろよ」
その声にはいつも通りの温かさがある。
俺はプロキオの言う通り、少し疲れていた。なんだかだるい。魔力というのを取られたのだろうか。
俺は「あいー」と口を動かして返す。
多分喋ろうと思えば喋れる。ただまだ早いだろう。
母はそっと俺の髪を撫でる。
「まあ……可愛いから、今はそれでいいのかもしれないわね」
本当はもう喋れるくらいの年齢にア俺もこの家族もまだ気づいていない。
テーブルの向こうで母がスープをすくい、父がパンをちぎる。その動きひとつひとつが、俺にとっては安心で、日常で、少しだけ冒険の匂いもする。
まだ意味のない「あいー」という声を出す。
けれど俺はここにいて、確かに家族とつながっているのだ。
母さんが目を細めて微笑む。どこか気品があって、けれど温かい人。
父さんとの出会いはどんな感じだったんだろうな……貴族の剣士と、一般の女性って感じで。
まあ、そういうのはもう少し大きくなってからゆっくり聞こう。
パンを小さくちぎって、ちょっと濃い目のスープに浸して食べる。舌に広がるコクと塩味、そこにほのかな甘み。……うん、うまい。素直にうまい。
思えば、前世ではこんなふうに家族と朝ごはんを囲んだ記憶が、ほとんどない。
スマホの音だけが鳴ってて、家族はバラバラの時間に食べる。温かいけど、どこか寂しい空気。それが当たり前だった。孤食っていうんだっけな……
でも、ここでは違う。
父さんがパンを頬張り、母さんが静かにスープすくう。たまに会話……こんなの、ずるいだろ。
生まれ変わったばかりで、もう泣きそうになるじゃんか。
ーー
ふと、考えた。
――さて、ちょっと家の中を探検してみるか。
最近ようやく歩いて自由に動けるようになってきた。まだ外に出すには危なっかしいらしいから出れないが、家の中なら多少自由に動ける。
だったらせめて、この家の構造くらいは頭に入れておきたい。なんたって、ここが俺の“拠点”だ。
もちろん、あくまで“幼児”らしく動くのが鉄則。
そう、よちよち歩きだ!!
最初に見つけたのは、妙に静かな部屋だった。
扉がわずかに開いていたので、そーっと中をのぞくと
――そこには、本、本、本、本、本! 本がぎっしり詰まっていた。
「……おお、ここは……書斎か?」
四方を囲む本棚は、天井近くまで積み上げられている。整然と並べられているというより、雑多に、ぎゅうぎゅうに押し込まれた印象だ。紙の端が折れていたり、しおりが挟まっていたり。明らかに、何度も読み返された跡が残っている。
重厚な机の上には、地図や羊皮紙、ペン立て、そして小さなランプ。父さんのものだろうか。
まぁおそらく父さんだろうな。
あの剣士みたいな顔の父さんにも、こういう知的な一面があるのか。
くそ、ちょっと憧れるじゃん。
俺は勉強なんて嫌いだけどな…..
さらに奥へ進むと、もう一つ部屋があった。
そこには壁にかけられた木製の練習人形、革製のグローブや腕当て。空間から、父さんの本気度が伝わってくる。
「お父さん、やっぱり本気の剣士なんだな……」
顔つきは完全に武人だが、こういう空間を見ると、改めて尊敬せざるを得ない。
俺もそのうち、父さんと修行できたらいいな。胸の奥で、ちょっとワクワクする。
その後も、何部屋かをこっそりのぞいてみた。
小さな納戸には、謎の壺や布が押し込まれていて、「この壺、絶対なんか怪しいだろ……」と心の中でツッコミを入れる。でも、さすがに声には出せない。
中でも面白かったのは、台所の裏手にある隠しっぽい扉だ。
中はただの物置だったけれど、まるで秘密の隠し部屋を見つけたみたいで、心が少し跳ねた。
ああ、探せばいくらでも“冒険”になるんだな。
俺が前世で住んでいた家よりも明らかに大きい。幼児だからってのもあるかもししれないが、部屋が沢山あった。
こうして、小さな冒険はひとまず終了。
床に転がって、はぁーっと小さく息をつく。疲れた……けど、心地よい疲れ。楽しかった。
今日の成果は一つ――「この家には、まだまだ謎が多い」ということだ。
布団の匂いや、木の香り、紙の匂いが、体に付着し、冒険の余韻として残る。
(……よし、明日はまた違う部屋を探検してみよう)
小さな胸に、次の冒険への期待が静かに芽生えていた。
その夜、俺は風呂に入った。
家の中はほの暗く、ランプの光が壁に揺れる。
桶に溜められたぬるめのお湯に、ちゃぷん、と体を沈める。
「あいー……」思わず声が漏れた。
すると――水面がぐらりと揺れ、渦を巻いて俺の手首に吸い寄ってきた。
「あ、アル? それ……」母さんの声が少しだけ震える。
「あ、あい?」
「ええ、普通……普通……よ?」
母さんの目は、笑っていなかった。
水って、こんなに人懐っこかったか……?
手首にかかる水の重み。ちょっと体がびくっとする。
(待て、これ……魔力切れか?)
「か、母さん……」
やばい、言葉が出てしまった。
いや、もういい。目を閉じて自然に振る舞う俺。
その瞬間、母さんが大声をあげた。
「プロキオ! ちょっと来て! 早く!」
声には、心配・驚き・嬉しさが全部混ざっている。
顔が、すごかった。まるで漫画のコマみたいに。
――そして翌朝。
俺の頭には、氷がちょこんと乗っていた。
横には、座ったまま寝ている母さん。
ごめんなさい、という気持ちが胸をぎゅっと締め付ける。
でも、何かして母さんの負担を減らさねば――そう思った。
まずは部屋の掃除から。
廊下を雑巾でゴシゴシ拭き、机の上にある昨日の魔導刻印紙に手を伸ばす。
触れた瞬間、紙がパチッと青白く光った。
そして“続き”を描き始める――昨日はなかった線が、中央で交差している。
(これ……成長中ってこと? 紙が勝手に育つなんて聞いてないんだが)
青い線が強く光っている。これは、水の魔法……。
昨日の風呂で、勝手に魔力を使った影響か? 体に刻まれた魔力の痕か?
だが、今は手伝いが先だ。
朝ごはんの準備に取り掛かる。
……なんだこれ? 卵の形をしている。まあ、いいか。
器のふちに軽くコツンと当て、パカッと割る。
黄身は無傷、殻も入らない。完璧――
「ポトン……」
え、今……入ったよね? しかも音が良すぎる。
急いで殻を取り除き、目玉焼きを完成させる。
でも少し目を離した隙に、焦げてしまった。……やっちまった。
ゴミを捨てに行く。歩きながら、心の中で思う。
(頑張ってるな、俺……。みんなは当たり前にやってるんだろうけどさ)
前世の俺なら、手伝いなんて宿題で出されなければ絶対やっていなかった。
だめだな、俺……
ゴミ袋をいつもの場所に置いて帰ると
ーー玄関で母さんが待ち構えていた。
腕を組んで、仁王立ち。無言。……これはヤバいやつだ。
「ただいま、母さん」
なるべく爽やかに、爽やかすぎて逆に怪しい声で挨拶する俺。
「どこに行ってたの?」
母さんの目が鋭く光る。
「……ゴミ出しに」
間髪入れず、すごい勢いで詰め寄られる。
「一人で? 黙って? 勝手に?」
「いや、別に誰にも会わなかったし……無事だったし……」
「そういう問題じゃないのよ!!」
ビシィッ!と指が突き刺さる。怒ってるけど、目にはうっすら涙。……優しさも感じる
「小さい子が一人で外に出て、もし転んで怪我したら? もし誰かに声かけられたら? もし、もし迷子になったら?」
「いや、家の門の角まで行ってすぐ戻ってきたけど……」
「そういう油断が一番怖いのよ!」
母さんは深く息を吸い、吐く。怒りは収まらない。
「あなたが“ちゃんとした子”だからって、世の中が全部安全なわけじゃないの。ね?」
……ああ、そうか。怒ってるんじゃなくて、心配してくれてるんだ。
「……ごめんなさい」
素直に頭を下げる。母の目が少し和らいだ。
「次からは、必ず声をかけること。いい?」
……でもここまで怒られるとは思わなかった。
ゴミ袋よりも、母の心配のほうが、ずっと重たかった。
「うん、気をつける」
――って、口に出した瞬間。
母さんの表情が、ピタリと止まった。
「……今、喋った?」
「……えっ」
やべ、普通にさっきまで言葉を喋っていたよな……
しかも発音きれいだったし……うわ、やっちまった。
「い、今のは……うー、あば、ば……」
焦って赤ちゃん言葉で誤魔化す。
「うー、まぁまぁ……ぶ、ぶぶば?」
我ながら、無理がある。完全にテンパっている。
だけど母さんは、手を口元に当てて、目を丸くしたまま動かない。
そして、ぽつりと呟く。
「……天才、かもしれない」
いやいやいや、違う違う! そういう方向じゃない!
たしかに喋れるけど、それは転生者だからで――あああ、何言ってんだ俺!!
「ぶ、ぶぶぶ……ぷあぁ~」
もうこうなったら最後まで赤ちゃんプレイだ。ふにゃふにゃ喋ってごまかすしかない。
あれ、でも俺もう幼児だよね?ならもう簡単な言葉は喋ってもいいのか?
母さんは何かを悟ったように優しく微笑み、俺の頭をそっと撫でてきた。
「……無事に帰ってきてくれて、ありがとうね」
ああ……ごめん。なんか、いろいろと。
転生人生、想像以上に気を遣う。
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