白百合とメランコリア

神田(Kanda)

あの人に堕落させられたい

私と先輩

 時刻は夜の九時。仕事を終えた私は、ようやく自宅マンションにまで帰ってきていた。エレベーターに乗り、三階で降りて、玄関の前まで早足で歩く。

 私はバッグから鍵を取り出して、玄関の鍵を開けた。私は自宅に帰ってこれた嬉しさで、無意識に鼻歌を奏でていたことに気づいて、少し恥ずかしい気持ちになる。けれど、そんなことは気にしない。

 そして、ドアを開けて中に入ると、タッタッタと廊下を駆ける足音が聞こえてきた。

「小雪ちゃん、おかえり」

「先輩、ただいま」


 私の名前は古町こまち小雪こゆき。一応プロの作曲家であり、歌手なんかもしている人間。きっと……おそらくは、普通の感性を持っている側の人間。

 そして、すぅすぅと私の膝の上で寝息を立てている、かわいい、かわいいこの人は、佐藤さとう優夏ゆうか先輩。私の恋人。大学の頃の先輩で、今は一緒に同棲をしている人。

「……んんぅ? ………あれ?」

 先輩は、パチパチと目を何度か瞬きさせて、私の顔を見ていた。

「おはようございます、先輩」

 先輩の、綺麗でスラーっとした髪をそっと撫でながら、私はそう言った。

「おはようございます………え、ごめん小雪ちゃん、私どのくらい寝てた?」

「ほんの三十分くらいですよ」

 晩御飯を食べ終え、お風呂も一緒に入った私と先輩は、一緒にリビングのソファでゆっくりとした時間を過ごしていた。

「わぁぁ……結構がっつり仮眠してるじゃん。ごめんね、お疲れなのに」

 先輩はそう言いながら、ゆっくりと起き上がろうとしていたので、私はそれを片手で制止して、先輩を再び膝枕の体制にさせた。

「ふふっ……いいんですよ、先輩。先輩の可愛いらしい寝顔をたくさん堪能できて大満足なので」

「そ、それはそれで、ただただ恥ずかしいんだけど………」

 先輩はそっぽを向きながら、頬をうっすらと赤らめていた。

(先輩………)


 少し前までの先輩は、ではなかった。

 職場でも私生活でも、あらゆるものを全部背負って、背負い込むだけ背負い込んで、色んな人に傷つけられて、自分で自分を傷つけて。誰も恨まず、誰も憎まず、それが自分の為すべきことなのだと断定して、誰かの犠牲になるためだけに、先輩は生きていた。

 それは、ある種の変えられない運命さだめのようなものだった。先輩という人は、そういう人だったから。苦しくて、悲しいことで満ち溢れているこんな世界で生きていくには、先輩という人は、あまりにも優しすぎる。その優しさは、もはや呪いと何ら変わりのないほどの、束縛された宿命だった。

 だからこそ……私が守るんだ。私が守らなければいけない。先輩という人を、この世界から守るんだ。


「……先輩、やっぱりちょっと起きてください」

 私は先輩の上半身を包み込むように支えて、そう言った。そしてゆっくりと先輩の体を起こして、

「ぎゅー、したいです」

と言った。

「うん……私も、したい」

 先輩は照れた様子で、こくんと頷きながらそう言った。

 ゆっくり、ゆっくりと、私と先輩が近づいていく。服と服が擦れあう音が聞こえて、私と先輩は、お互いに相手の背中へと手を回す。そうして、抱きしめ合う。私の右頬には、先輩のサラサラしている髪の毛が触れていた。ちょっとくすぐったいけれど、そのくすぐったさすらも愛おしいと思えた。

(………あったかい)

 先輩の体温が、服を通じて伝わってくる。お風呂とは違う、人肌の温かさがそこにはあった。それは、太陽みたいなポカポカとした温かさではなくて、今にも消え入りそうな蠟燭の炎のような、どこか弱々しい温かさ。私にとっては、そんな小さな炎が、冷え切ったこの世界の中での、唯一の温かさだった。

 呼吸が、息遣いが、脈拍が、皮膚を通じて伝わってくる。先輩は、生きている。今この場所で、生きてくれている。

「先輩……」

「うん?」

「好きです」

「……ふふっ。急にどうしたの?」

「なんかその、言いたくなっちゃって……」

「うふふ、可愛いやつめ」

 先輩は楽しそうに笑いをこぼしながらそう言った。

 そんな、何気ないやり取りが、私の心をきゅっと締め付ける。先輩が、笑ってくれている。笑顔の先輩。

「…………ん?」

 私は先輩を、さらに強くギュッと抱きしめた。ああ、先輩。先輩、先輩。先輩のこの温かくて柔らかい体も、綺麗に整ったこの髪も、しなやかな手足も、かわいくて愛おしいこの顔も――そして、先輩の心だって、全部、全部、私の一部にするんだ。先輩と私、二人だけのものにするんだ。もう、誰かに、先輩本人にだって、傷つけさせたりなんてしない。私が、頑張って、頑張って、頑張って、それで、それで………先輩を――

「へ? ………きゃ!?」

 私がそんなことを考えていた時だった。

「え、えと………先輩?」

 私はいつの間にか、先輩に押し倒されていた。

 先輩は私のことをじーっと見ていた。無表情のまま、とはいっても、冷たい表情というわけではなくて、ただ冷静に、先輩は私のことを見ていた。

 先輩の長い髪の毛が、私の顔を包み込む。それはまるで、外の世界を遮断するカーテンのようだった。私が見ている世界は、先輩だけ。先輩の彫刻のような綺麗な顔がよく見える。ただその美しさに、胸がドクンドクンと脈を打った。

「ね、小雪ちゃん」

「は、はい」

 私の相槌の後に先輩は、申し訳なさそうな表情を浮かべて、私に優しい声音で話しかけた。

「無理しちゃだめとは言わないし、無理してとも私は言わない。小雪ちゃんのことだから、無理してないと不安で心が壊れちゃうのかもしれない。でも、無理していると体が壊れちゃう。どっちかに偏らずに何かをし続けるというのは、きっと難しいことで、それを小雪ちゃんもちゃんと分かっていると思う。だから、結局のところ、私は小雪ちゃんに、何も言うことは出来ない」

 先輩の顔がゆっくりと近づく。頬が触れ合う。先輩の絹のような、白くて柔らかい肌が私の肌を滑らかに撫でる。

 そして先輩は、私の首元に手を回して、私に完全に密着する形になって、私を抱きしめながら、私の耳元で言葉を紡いだ。

「だからね、私は小雪ちゃんに示すことしかできない」

「先…輩……?」

「小雪ちゃんのお陰で、私は今こうして生きている。この世界で生きていくのは無理だって諦めていたけれど。小雪ちゃんが居てくれるから、何とか私は生きていけてる」

 先輩は私を強い力で抱きしめる。まるで私を捕食するかのように。

「ね、だからさ……感じてほしいの。私という存在は、貴女がいるから生きているんだって」

 先輩の足が、私の両足の間に食い込むようにして絡まっていく。先輩の腕が、顔が、髪が、私という人間をどんどん包み込んでいく。

 視覚は先輩に、嗅覚は先輩に、触角は先輩に満たされていく。

「貴女が居なくなってしまうのが、一番、怖いの………」

 先輩は私の脳内を抉るかのように、私の耳の密着しながら、そう声を溢した。すると、先輩はゆっくりと私の顔から、数十センチほどの距離を取って、いつものどこか掴みの無い微笑を浮かべて、まるで私をちょっとからかうかのような口調で、

「だからね、小雪ちゃん。無理難題は承知だけど、頑張りすぎないでくれたらいいなって思う。大丈夫――私はちゃんと生きてるから。少なくとも、小雪ちゃんが生きている間はね」

 と言った。

 私はその時、自身の心境がさっきまでとは全然違うものになっているように感じた。それがどうしてなのか、私にはよく分からなかった。いや、きっと先輩が私に言ってくれた、示してくれたことが関わっていて、それが原因となって私の心に作用したのだということは分かっている。だけれど、それが何なのか、うまく言葉には表せなかった。だけれど、今の私の気持ちは、先ほどよりも晴れやかで、まるで私にとっての先輩のような、快晴のような明るさを有していた。

(ああ、先輩………)

 先輩は、どうしてこんなにも私のことを救ってくれるのだろう。

 どうして私のことをこんなにも理解してくれるのだろう。

 本当に、本当に素敵な人。

 私が、心から愛している人。

「………先輩。ありがとうございます」

 私は先輩にそう言って、さらに続けて言う。

「私、前に比べたら、最近はほどよく頑張れるようになってきたんです。だから、先輩。少しは、安心してくれてもいいですからね」

 私も先輩と同じように微笑む。そうして、先輩の首元へと両手を回した。

「ふふっ、そっか。よかった――って、わ!」

 私は、先輩の顔を近づけて、勝手に唇を重ねた。

「小雪……ちゃ……ん……」

「んっ……先輩……」

 もう一度、先ほどと同じように体を密着させて、甘い、甘い、キスをする。先輩と、お互いの粘膜を執拗に求め合う。舌の形も、歯の形も、口の構造も、もうすっかり知り尽くしてしまった。味覚は先輩に満たされていく。

 先輩の呼吸の音が、いつもの先輩とは対照的な、とても甘くて、可愛らしくて、愛しくてたまらない、まるでハープの音色のような声が私の口の中に伝わる。まるで溶け合うかのように。聴覚も先輩に満たされていく。

 私も、先輩も、お互いを求め合う。そうして、一緒に愛に酔いながら、その酔いをさらに悪化させていく。もう酔いから冷めないように。全部、手遅れにするために。私をもう、貴女なしでは生きられないようにするために。貴女を、私なしでは生きられないようにするために。一緒に世界の端っこで、誰にも気づかれないように、底なしの楽園へと堕ちていく。


 そうして、数十分の時が経ち、唇が名残惜しそうに離れる。

 先輩の口から、私と先輩の混ざりあった唾液が垂れて、先輩はそれを美味しそうにペロリと舐めた。

「ふふふっ……小雪ちゃん。顔、真っ赤だね」

「それは、そうでしょうね………だって、先輩のこと、大好きですから」

「ありがと、私も」

「あと先輩………いつものごとく余裕ぶってるところ悪いですけど、ビックリするくらい耳真っ赤になってますからね?」

「ぐぬぬぬ……バレてしまっていたか………!」

「うふふっ。はい、バレバレですよ」

「あはは。ま、別にいーけどね。さてと、それじゃあ……私が寝てたせいでずいぶんと遅れてしまいましたが、まあそんな日もあるだろうということで、昨日話してた通り、映画見よっか。あ、疲れてない? 大丈夫?」

「はい。全然大丈夫です。見ましょ、見ましょ!」

「ふーふふ。うん、じゃあ見よっか。ていうか、明日休みなわけだし、お酒とか飲んじゃう?」

「名案ですね、先輩。飲みましょ~」


 いつもの日常。

 これからも続く、続けさせてみせる、私の大好きな日々。


 私と先輩、二人の世界。

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