第19話:女神の天秤

 始まりの街『テラ・オリジン』の門を、俺はまるで罪人のような気分でくぐった。

 周囲を行き交う、きらびやかな装備に身を固めたプレイヤーたち。STR1、VIT1の今、彼ら全員が、俺を一撃で葬り去れる死神に見える。

 戦闘能力はゼロ、金策のあてもない。あるのは、インベントリに転がるいくつかの雑多な素材と、呪いのスキル、そして呪いの装備だけ。まさに、八方塞がりだった。


「……どうしたものか」


 このままでは、街から一歩も出られない。

 俺は藁にもすがる思いで、中央広場に面した一際大きな武具店へと向かった。

 店の名は『銀の山猫』。品揃えも質も一級品だが、それ以上に、NPCである女店主の商才がえげつないことで有名だ。

 そんな店主が、俺のような貧乏プレイヤーに何か仕事を紹介してくれる可能性は限りなく低い。だが、もう、どこかに賭けるしかなかった。


 カラン、とドアベルが鳴る。

 店に入ると、銀髪をポニーテールに結い上げた、怜悧な美貌の女性店主――エララが、カウンターで帳簿をつけながら、こちらを一瞥もせずに涼やかな声で言った。


「いらっしゃいませ。―――冷やかしなら、他所へどうぞ」

「……いや、何か、仕事はないかと思ってな。報酬は後払いで構わない。それか、この金で買える装備でも……」


 俺はなけなしの金貨を数枚、カウンターに置いた。

 エララは帳簿から顔を上げ、俺の貧相な装備と、カウンターの上のわずかな金貨を見て、呆れたように、そして侮蔑の色を隠そうともせずに、フンと鼻を鳴らした。


「冗談でしょう?うちは慈善事業じゃないの。そのようなした金では、砥石の一つも買えませんわ。お引き取りを――」


 彼女が追い払うための言葉を言いかけた、その時。

 ようやく、彼女の視線が、俺の顔を、その瞳を、真正面から捉えた。


 ぴたり、とエララの動きが止まる。

 侮蔑の色が消え、まるで希少な鉱石を鑑定するかのような、鋭い光がその瞳に宿った。帳簿を置いてカウンターに両肘をつくと、彼女は値踏みするように、俺を頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと観察した。


「……なるほど。面白い」


 先ほどまでの氷のような態度は消えている。だが、別に態度が軟化したわけじゃない。むしろ、獲物を見つけた捕食者のような、冷たい獰猛さがその声にはあった。


「あなた、何かお探しで?」

「……仕事か、この金で買える装備を、と」

 俺がカウンターの上の金貨を示すと、彼女はそれに一瞥もくれず、静かに首を横に振った。


「……少々お待ちを」


 エララはそう言うと、店の奥へと消えていく。俺が知る限り、あそこは彼女が常連の中でも特に認めた相手にしか見せない、特注品や秘蔵コレクションが並ぶ一室のはずだ。


 やがて、彼女は二つの装備品を手に、静かに戻ってきた。

 カウンターの上に、まるで芸術品のようにそっと置かれる。


 一つは、闇に溶けるような漆黒のマント。

 もう一つは、風を模した銀の刺繍が施された、しなやかな革のブーツ。


【影猫の外套】(シークレット):AGI +55, 隠密性UP

【疾風の長靴】(シークレット):AGI +12, 回避率+100%


 どちらも、一般プレイヤーが通常プレイで手にできるような代物じゃない。


「……いくらだ?」

 俺が尋ねると、エララは初めて、面白そうに口の端を吊り上げた。

「お代は、いただきません」

「は?」

「ただし、タダでお譲りするわけでもありませんわ。……交渉しましょう」

「交渉?金はないぞ」


「ええ、存じております。ですから、これは『根切り交渉』です」

 彼女は楽しそうに続けた。

「あなた様は、今後手に入れたアイテムを全てこの店に寄付する。この条件でいかがですか?」


 その目は、完全に据わっていた。

 好意じゃない。同情でもない。

 ただ、彼女の商人としての本能が、「この男という鉱脈に、誰よりも早く、独占的に投資しろ」と、抗いがたい力で叫んでいる。その本能に、彼女自身も抗うことなく身を任せている。そんな奇妙な状況だった。


「全て?クエスト報酬もか?」

「ええ、もちろん。あなた様がその手にするもの全てが対象ですわ。ユニークアイテムであろうと、伝説級の素材であろうと」

「……流石にそれはやり過ぎじゃないか?」


 俺の反論に、彼女は心底不思議そうに首を傾げた。

「そうですか?こちらのマントとブーツ。どちらも一般プレイじゃまずお目に掛かれないレアアイテムですが?」


 諭すような言葉に、背筋がぞくりと粟立った。

 考えてみれば確かにそうだ、マントにはAGI +55、ブーツには脅威の回避率+100%、これは即ち必中攻撃以外は全て回避できるのだろう。これは、もはやバランスブレイカーと言っても過言ではない代物だ。


「これだけでは足りない、と言いたげな顔をしてらっしゃいますね。それなら、こちらのタイミングでよければ、必要なアイテムを提供しましょう。」

「あと、特別なアイテムを仕入れた場合は、真っ先に連絡を差し上げます。これでどうでしょう?」


「あ、あぁ……それは助かるな、分かった。その条件を呑もう」


 悪くない取引だ、タイミングが選べないのはいただけないが、このレベルのアイテムを無償でもらえるとなれば話は変わってくる。特別なアイテムの仕入情報がいち早く耳に入るのもうれしい。こちらで手に入れたレアアイテムを差し出すのは少々惜しい気もするが、ステータスを元に戻すアイテムなんかももらえるかもしれない。見返りとしては十分だ。


「……じゃあ、この二つを貰おう。それと、当面の活動資金も欲しい」

 俺がそう言うと、彼女は満足そうに頷いた。


「いいでしょう。では、交渉成立ですね。『銀の山猫』は、本日よりあなた様の専属スポンサーです」


 エララはカウンターの奥から革袋を掴み出すと、慣れた手つきで金貨を詰め、俺に差し出した。その所作は、いつも通りの、無駄のない店主のものだった。


 俺は、大金と最高の装備を受け取り、店を後にした。

 店の外で、俺は手の中にある大金と、身に着けた新しい装備に呆然とする。


 ポーチの中から、キナが「あの店員さん、とっても良い方でしたね、マソスさん!」と無邪気な声をかけてくる。


「……ああ、そうだな」


 良い方、か。俺には、俺の未来を買い占めにきた、恐ろしい悪魔に見えたがな。

 俺は乾いた返事しかできなかった。


 一方その頃、『ハローワールド・オンライン』管理コントロールルームでは、メインモニターに、草原で倒れ伏していたマソスがふらつきながらも起き上がり、街へと向かって歩き出す様子が映し出されていた。


「……信じられない」

 若手プランナーの坂井が、呆然と呟く。

「オーバードライブのペナルティ……全ステータスポイントが、廃止されたはずのCHAパラメータに強制再分配……。こんな致命的なエラー、前代未聞です。彼のキャラクターデータは、もう……」


「……いや」

 坂井の言葉を遮り、ディレクターの金城が、心の底から楽しそうな声で言った。

「素晴らしいじゃないか。最高だ」


「きょ、狂気ですか、金城さん!」

「狂気?違うな、坂井君。これは『物語』の始まりだよ。戦闘能力を全て失い、代わりに人の心を狂わせる『魅力』だけを手に入れた主人公。……実に面白い。だが、このままでは面白くなる前に、彼はスライムにすら殺されて終わってしまうな」


 金城の目が、悪戯っぽくキラリと光った。

「……少しだけ、舞台装置を整えてやるとしよう」


 彼はそう言うと、手元のGM(ゲームマスター)専用コンソールを操作する。

 いくつかのコマンドを打ち込み、特定のNPCのアイテムテーブルに、数行のデータを追加した。


 GM_command: item.add_to_special_inventory(NPC_ID_72, item_ID_0x8A3, flag:NotForSale)

 GM_command: item.add_to_special_inventory(NPC_ID_72, item_ID_0x9F1, flag:NotForSale)


「……ディレクター?今、何を……」

「プレゼントだよ、坂井君」


 金城は、コンソールから顔を上げた。その顔は、最高のエンターテイメントを前にした観客のように、期待に満ちていた。

「私は、彼にささやかな『活路』を用意した。だが、それを見つけ、こじ開けるのは彼自身の力だ。彼が手に入れた、あの歪な『魅力』という名の力でな。さあ、どうする、マソス君?君は、私の期待に応えられるか?」


 そして、数十分後。

 メインモニターには、マソスが武具店『銀の山猫』を訪れ、店主エララの心を完全に掌握し、金城がたった今仕込んだばかりの非売品アイテム【影猫の外套】と【疾風の長靴】をまんまと手に入れる姿が映し出されていた。


「くっくっく……はーっはっはっは!やったな、マソス君!それでこそ、私の見込んだプレイヤーだ!」


 金城は、腹を抱えて高笑いした。

 坂井は、予測不能なプレイヤーの行動と、それをさらに予測不能な方向へと導く上司の姿に、もはや戦慄するしかなかった。

 狂気の創造主は、自らが用意した舞台の上で、主人公が予想以上の名演技を見せたことに、この上ない満足感を覚えていた。

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