第10話 三月二十九日 白壁王の第 其の貮 紫微中台の噂

「まったく、御身おみら親子は食わせ者だ」雄田麻呂おだまろは心なしか不服そうに言う。

「父はともかく、私はそのような事はありませぬよ」

「まあ、みやはましな方か。だが兄上はどうなのだ」

 突然、思わぬ相手の話題が出て来て、私はつい首を傾げる。怪訝な表情にでもなっていたのか、雄田麻呂も一旦、言葉を切る。

手嶋てしまの兄の事ですか」私は小声で問いかける。

「ああ、手嶋王てしまのみこだ。相当な切れ者で大納言の気に入りだと聞くぞ。そろそろ舎人とねりから大疏だいさかんにでも任命されるだろうと、噂を聞いている」

紫微中台しびちゅうだいに入って五年目だ。さかんならば無位のままの任官でも、可能やもしれませぬな」

 皇后宮職こうごうぐうしきを紫微中台に改名し、より権限を強めたのは天平勝宝元(749)年の事。長官の紫微令しびれいは当初より、大納言の藤原仲麻呂が兼任している。

 さかんは四等官の一番下に当たり、紫微中台では従六以上相当の大疏だいさかんと正七位上相当の小疏しょうさかん、それぞれ四人ずつ任命される。

 親王の孫である私たちは、蔭位おんい制により従五位下から官位が始まる。したがって、それ相応の業績が上がるまで、無位に留め置かれる期間が極めて長い。親王の子に至っては従四位下より始まる。お陰で父は、二十九の年まで無位をかこっていた。いずれにせよ、無位の諸王みこは六位相応の扱いを受けるのが常なので、兄の大疏就任もあり得ない話ではない。

さかんだのじょうだのを問題にしている訳ではない。紫微中台におられる事を問題にしているのだ」

「問題がありますかね。あそこで諸王みこなのは兄だけですし」

「ううむ、案外、兄上よりも御身の方が、食えぬ壮士おのこやもしれぬ」

「何を言われます。このように純真な壮士を捕まえて」

「もう一度、大学に戻るか、宮。純真と言う言葉の意味を習い直した方が良い」

「どうも、信用がありませんね、私は」

「信用置けぬな。それ故、次の司召つかさめし(人事異動)で御身の父上が紫微大弼しびだいひつに任命されても、俺は決して驚かぬが」

「父や兄の出世に、私は関係ないでしょうに。それに、そのような事が起きたなら、怒り狂う御仁が出てきませぬか」

「例えば左大弁さだいべんあたりか」雄田麻呂は笑う。

 左大弁——大伴宿禰おおとものすくね古麻呂こまろの大納言批判は、誰もがよく知っているほど有名だ。

 紫微中台の次官は大小のひつが一人ずつ、大弼だいひつは正四位下となっている。故に十一年間も従四位上に留め置かれている父が、次の叙位や任官で選ばれても、建前上、不自然なところはない。しかし、皇族出身ではない皇太后おおきさきのためのつかさに、皇族の高官を置くのは、建前からも心情からも相応しくないと考える輩もいるようだ。

「もう一度、大納言と白壁王しらかべのみこを組ませたら、何をやらかす事やら。太政官としても、そいつは避けておきたいのやもしれぬな」雄田麻呂はまたも無責任に笑う。

 世間の認識では、二人は仲が良いようだ。しかし私が見ている限りでは、父と大納言の親しい様子は殆どない。朝参などで顔を合わせれば、通り一遍の挨拶はする。宴席でも並んで話す事もなければ、同じ趣味を共に楽しむ様子もまるでない。ごく稀に使いを送るとしても、兄や私の任官への口添えを頼むくらいだ。他に用事があれば、大抵は義兄の市原王いちはらのみこを仲介する。

「何よりも父は、女帝みかどに好かれていないと聞いていますから」

「それが、よう分からぬな。あの器量好みで有名な御方おんかたが、どうして宮の父上を嫌うのか。そもそも白壁王といえば、若い頃から男前で鳴らし、あちこちに女がいると有名であったろうに」

 その息子を前に、良くも平然と言ってくれるものだ。

「身持ちの悪い壮士おのこが嫌いなのでは」

 あちらこちらで女にもてた類の噂ならば、この雄田麻呂の父親も例に漏れない。しかし雄田麻呂自身は、父親の記憶が殆どないと言う。それこそ私の生まれる前の事で、年寄りらの昔話の一つだ。藤原太政大臣の四人の息子の内でも、式家しきけ宇合うまかいが一番の美男だと言われていた。若い頃から難波や東海などの地方官を幾度も務め、遣唐使として唐にまで行った。そしてその先々で、関係した相手がいたと言うから半端ではない。

「幸いにして、兄も私もそちらの方面は、父親に似てはおりませぬがね」

「身持ちの堅い事を誇って如何いかがする、独り身がその年で」

 坏を置いた雄田麻呂は、やけに大袈裟に椅子の背にふんぞり返る。

「誇ってなどおりませぬが」一応、肩などすくめて見せる。

「御身にはもう少し、遊ぶ事を教えねばならぬようだ。それが年上の務めというものか」何やら一人で納得している様子だ。

「遊びですか。狩りでも野駆けでも球技でも、一応はしておりますが、賭け事には手を出さぬようにしていますよ」素知らぬ振りで私は受け流す。

「馬鹿にしておるな、御身」

「滅相も」

「遊びと言えば相場が決まっておろう」

「夜の遊び、ですか、つまりは」

遊行女婦うかれめ、つまりは娼館だ。行った事はあるか」

「ありませぬよ」

「では決まりだ。近い内に誘う故、楽しみにしておられよ」

「楽しみにですか、確かに」裏腹な口調で応えて見せる。

 とは申せ、私とて一端いっぱしの若い男だ。興味がない訳もない。一人で満悦する式家の放蕩息子を眺め、期待させてもらう事とする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る