第25話 enharmonic(エンハーモニック) ー85の境界
綾先輩の指揮が乱れている。
彼女の心の中に潜む、勝利への渇望と過去への恐怖。
その二つの相反する感情の嵐が、彼女の腕から正確さを奪っていた。
引き延ばされる逆循環終止。ホールに充満する観客たちの熱狂的な期待。
そして、それに共鳴してどこまでも上昇していく、私たちのAffection値。
78……81……83……!
儀式相を超え、私たちはついにその最後の境界線へと手をかけようとしていた。
IDSの運用マニュアルに赤文字で記された、禁断の領域。
――越境相(ボーダーライン):Aff 85-100
『自由意志の著しい揺らぎが確認される危険水域。演奏者は自己と他者の境界が曖昧になり、強い一体感を渇望する。依存および精神的汚染(メンタル・ポリューション)のリスクが極めて高い。いかなる理由があろうとも、到達は禁止される』
壁のランプが狂ったように明滅を始めた。
それまでの甘い蜜色に、警告を意味する緋色の光が断続的に混じり始める。
まるで機械が悲鳴を上げているかのようだった。
まずい。このままでは本当に越境してしまう。
私たちの歌が、私たち自身を、そして聴いているすべての人々の心を壊してしまう。
指揮台の上で、綾先輩はもうほとんど恐慌状態に陥っていた。
その瞳は虚空を見つめ、唇がかすかに震えている。
彼女の耳には、もう私たちの歌は聞こえていないのだろう。
彼女は今、一人、あの数年前の冬の夜の練習室に囚われているのだ。
その絶望的な状況の中で、私は隣に立つ詩織さんを見た。
彼女の顔は蒼白だった。だが、その瞳は決して死んではいなかった。
彼女は私に向かって、確かに頷いた。
――やりましょう、先輩。
私たちの歌を。
私は綾先輩の指揮から完全に意識を切り離した。
そして詩織さんと二人で、あの呼吸を始めたのだ。
私が息を吐く。詩織さんがその息を受け取るように吸う。
与える息と受け取る息。陰と陽。
狂ったように加速していく音楽の奔流の真っ只中に、
私たちは二人だけの、小さな、しかし絶対に揺らぐことのない聖域(サンクチュアリ)を作り出した。
そして、私は歌い始めた。
それは楽譜にはないアドリブ。
逆循環終止という不安定な和音の中心に、私は一本の楔を打ち込んだ。
第一楽章で歌った、あのもっとも穏やかで清らかで、そしてCohesionの純度の高いメロディの断片。
それはあまりにも唐突で、音楽理論的にはありえない響きだった。
熱狂の蜜色の中に一滴だけ落とされた静寂の青。
不協和音と呼ぶには、あまりにもその響きは澄み切っていた。
ホール全体が、その異質な音に一瞬戸惑ったのがわかった。
Affectionの暴力的なまでの上昇のグラフが、ほんのわずかに勢いを弱めた。
その一瞬の隙を、詩織さんは逃さなかった。
彼女のアルトが、私のその青いメロディに寄り添ってくる。
それはもう誘惑の声ではなかった。
傷ついた心を包み込むような、深く、そして慈愛に満ちた鎮魂歌(ララバイ)。
私たちの小さな反撃。
だが、それは焼け石に水だった。
一度火がついてしまった観客たちの熱狂は、そう簡単には収まらない。
Aff値は再び上昇を始めた。
84。
あと一つ。
この数字を超えてしまえば、私たちはもう私たちではいられなくなる。
私の視界がぐにゃりと歪み始めた。
自己と他者の境界が溶け出していく、あの甘美で恐ろしい感覚。
隣にいる詩織さんと、このまま一つになってしまいたい。
客席にいる名も知らない誰かと、この感情を共有したい。
その抗いがたい衝動。
――ああ、これが越境。
その最後の一線を越えかけた、まさにその瞬間。
私の手の中に握りしめられていた、あのひんやりとした布の感触が、意識の淵から私を引き戻した。
――アイマスク。
詩織さんが私たちに渡してくれた、最後の盾。
『――いつでも遮断していいんです。私たちは自由ですから』
そうだ。私は自由だ。
この熱狂に呑み込まれるかどうか。
それを最後に決めるのは、私自身だ。
私は歌いながら、ゆっくりとその黒い布を顔に当てた。
そして――
―――目を閉じた。
その瞬間、世界から色が消えた。
狂ったように明滅していた蜜色と緋色のランプの光が消える。
熱に浮かされたような観客たちの顔が消える。
怯える綾先輩の姿も、もう見えない。
そこにあったのは、ただ音だけの世界。
私の声。詩織さんの声。
そして、私たちの呼吸の音。
すー、はー。
その穏やかな循環の中に、私はようやく自分の魂の碇を下ろすことができた。
視覚という、もっとも強力な情報から解放された私の聴覚は、信じられないほど研ぎ澄まされていく。
わかる。この熱狂の嵐の中心にある、一番静かで、一番安全な場所が。
そこへ行けばいい。
譜面台のサブディスプレイの数字がどうなっているのか、私にはもうわからなかった。
ただ一つだけ確信していたことがある。
――私たちは、まだ負けてはいない。
この静かな闇の中で、私たちの本当の反撃が、今始まろうとしていた。
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