第10話「狂笑の群れ!ハイエナールの影」
翌日、下校の時間。みのりとゆかなと並んで歩きながら、ひなたはぼんやりと空を仰いでいた。太陽は傾き、校舎の壁に長い影を刻む。風が通り抜けるたび、木々の葉がさらさらと鳴って、昨日の戦いの余韻をやわらかく撫でるようだった。しかし消しはしない。
(あの人……シルバーパラディン。強かった。でも、私たちは……何もできなかった)
ゆかなが囁く。
「やっぱり昨日の戦いのこと考えてるのかな? それとも誠一郎さん?」
みのりが肩をすくめる。
「それもあるけど、シルバーパラディンのこともあるよね。心当たりが多すぎて、わからないけど」
二人のひそひそ声は耳に届くのに、足取りは夢の中を歩いているみたいで、地面の感触が遠い。ひなたの胸の奥はまだざわめいたままだった。制服の袖口に残る焦げ臭さが、現実を思い出させる。
(守れた命もあった。けど、守れなかったものがあったかもしれない)
バイオス邸に着く頃には、夕焼けは濃く、窓ガラスの向こうで魚の鱗のように光っていた。玄関をくぐると、既にしおんとまどかが来ていた。しかし二人とも沈み込み、空気は重い。特にまどかは、いつもなら頼もしい姉御肌の彼女が、机に突っ伏したまま動かない。しおんのホワイトボードは白紙、ノートも真っ白。この家に響くのは、ティアとバイオスさんの小声だけだった。時計の秒針が、ひどく大きく聞こえる。沈黙に耐えられず口を開こうとしたとき、まどかが低く言った。
「……何か対策でも思いついたの?」
「え?」
「バザールに勝つ方法があるのかって聞いてるんだよ! あんな怪力と狂気に満ちた化け物、どうやって倒せるんだ! 答えが出せなきゃ、また負けるだけじゃない! 怖いんだよ、あいつが!」
まどかの声は震え、拳が膝に落ちた。指の節が白く浮き出て、皮膚がきしむ。
「これは遊びじゃない。学校の勉強みたいに失敗してもやり直せるんじゃない。失敗したら……みんな殺されてたんだよ!」
いつも勇敢で強いまどかの姿は、そこになかった。ひなたの胸が締めつけられる。頭の中で、昨日の爪痕の音と、泣き声が重なる。
(立ち直らせなきゃ……まどかが崩れたら、みんなも前に進めない)
「勇気の戦士が怖がったらだめって、誰が決めたの?」
ひなたは思わず声を張った。自分の声が少し震えているのを、自分で驚く。
「え……?」
「誰だって、あんな化け物を見たら怖いよ。でも勇気って、恐怖を知らないことじゃない。恐怖に負けずに立ち向かおうとする、その意志のことだよ。まどかちゃんがバザールの脅威を克服するまで、私はずっとそばにいる。一緒に方法を探す。仲間だから」
言葉と同時に、胸の真ん中に熱が灯った。まどかは唇を震わせ、目の縁が濡れていく。次の瞬間、ひなたに抱きついて泣き崩れた。制服の肩に温い涙が落ちる。
「ひなた……!」
「泣いてもいいよ。大事なのは、その後また立ち上がること」
しおんも涙を流しながら言った。
「ひなた、ありがとう。あなたじゃなきゃ、まどかを救えなかった」
みのりとゆかなも加わり、ひなたをぎゅうっと抱きしめる。
「こら、仲間の話をしておいて私たちを置いていかないでよ!」
「仲間外れはなしだよ、ひなたちゃん」
ゆかなが笑い混じりに言い、みのりが頷く。
「みんな、くっつきすぎて苦しいよぉ!」
その様子を見守るティアとバイオスも目を潤ませていた。
「これが……ブレイブメイデンズの絆なのだぴょん」
やがて涙は乾き、夜風がカーテンを揺らした。結論は出せなかったが、心はわずかに前を向く。その日は解散となり、玄関先でそれぞれの足音が暗がりに消えていった。ひなたは振り返って窓に映る自分を見た。少し赤い目。けれど、まっすぐだ。
翌日、ようやく会議が開かれた。空模様は薄曇りで、窓の外の白い光が部屋の輪郭を柔らかくする。
「今日はしおんちゃんの代わりに、私が作戦について説明するね」
ひなたは緊張しながらも言葉をつなぐ。手のひらに汗が滲むのを、膝のスカート布でそっと拭った。
「バザールに勝つ方法は二つ。ひとつは私たちが強くなること。もうひとつは……シルバーパラディンを探し出して仲間にすること。でも……」
ひなたは小さく首を振った。
「駄目だ。しおんちゃんみたいに具体的でわかりやすい説明はできないよ」
それでも、仲間たちは頷いた。みんなの心も同じ方向を向いていたのだ。ティアに強い武器や技の習得方法を尋ねたが、彼女は耳を垂らし「そんな都合のいいものはないぴょん……あったらすぐに渡してたぴょん」と謝った。バイオスは顎髭をいじりながら、「近道は毒にもなる。だが、鍛錬は嘘をつかぬ」と静かに助言する。
その日から、ひなたとまどかは庭で竹刀を手に鍛錬を始めた。竹のしなりが手に伝わり、気合いの声が空へ吸い込まれる。まどかの面の向こう、瞳はもう怯えだけではなく、悔しさと意地で光っている。ひなたの手のひらには徐々にまめができ、痛みが脈打つたびに、昨日の無力さを上書きしていく気がした。
しおんはバザールの動きを細かくノートにまとめる。ページの端に貼られた付箋が増えていく。矢印、円、数字。彼女の細い指がペン先を追い、インクの匂いが部屋に満ちる。みのりも、思い出したことを丁寧に加え、推測を慎重に区別しながら分析を深める。彼女の字は丸く、しかし迷いがない。
ゆかなはティアを連れて外に出て、シルバーパラディンや蛇型の精霊の情報を探しに向かった。古本屋の埃っぽい匂い、神社の石段の冷たさ、聞き込みで交わす小さな会釈。ティアは人混みに目を白黒させながらも、耳をぴんと立てて噂話を拾い集める。
「銀色の狼の影を見たって聞いたぴょん」
「それは犬の散歩だよ、ティア……」
仲間たちは、それぞれの方法で再び前に進み始めた。夕方、筋肉の張りを分け合いながら、水の入ったコップが汗ばんだ手に冷たくて気持ちいい。小さく笑って、明日へ手を伸ばす。
暗黒の玉座にて。石壁は息をしているかのように脈動し、天井から滴る黒い露が、落ちるたびに地の底からの呻きのような音を立てた。バザールが低く報告する。
「銀の剣……あれは何者だ」
サーペントゥーナが口元を歪める。長い舌が喉の奥で湿った音を鳴らした。
「美しい獣には牙を研ぎ澄ませばいい。それだけのこと」
アビスロードの声は地底から響くように低い。
「恐怖はまだ足りぬ。狩りを続けよ。門は血を望んでいる。門が満ちれば、こちらとあちらは混ざり合う」
闇の奥から笑いが弾けた。
「ヒャハハ……牙は群れで光る。俺の番だ」
現れたのは狂気の獣、ハイエナール。双眸に狂気を宿し、牙を舌で舐める。肩から垂れた骨飾りが歩くたびにからからと鳴り、笑い声が洞窟のような広間に反響して、笑いは倍音になって戻ってくる。
「俺の群れが必ず奴らを探し出す。ガゼルスの分まで成果を出してやる。笑いと断末魔、どっちが先か試してやろうぜ!」
バザールは一瞬だけ目を細め、次いで頷く。
「好きにしろ。ただし、門へ続く血脈は断つな」
「承知!」
ハイエナールは地を蹴り、影の群れを従えて闇に溶けた。
放課後のショッピングモール。子どもたちの笑い声、パン屋の甘い香り。平和な空気は、一瞬で地獄に変わった。
轟音。ガラスが砕け、黒煙が吹き上がる。悲鳴が重なり、人々が雪崩のように走り出す。
「逃げろおおお!」
群れをなして飛び込んできたのは、ヘルハウンドとハイエナール。
「ヒャハハ! 走れ走れ! ブレイブメイデンズをおびき出せ! 人間共は泣き叫べばいい!」
咆哮がモールを揺らし、ガラス片が雨のように降り注ぐ。焦げた匂いが鼻を刺し、転がった果物が踏みつぶされて甘い汁が床に広がる。泣き叫ぶ子どもの小さな手が母親の袖を必死につかんでいた。
「そうはさせない!」
ひなたが剣を抜き放つ。刃が照明を受けて白く閃き、斬撃でヘルハウンドを薙ぎ払う。熱い血と黒い霧がぶつかり、足元が一瞬ぬるりとした。
「避難誘導、私がやるわ!」
みのりが結界を展開し、逃げ遅れた人々を守る。透明な壁が波紋のように広がり、乱反射した光が彼女の頬に粒となって跳ねる。
「凍りなさい!」
しおんが氷の魔法で群れを閉じ込め、一気に砕く。砕けた氷片が星屑みたいに散り、そこへゆかなの矢が閃光のように飛ぶ。音より速く、影を穿つ。
「前は任せろ!」
まどかが盾となって前に立ちはだかる。踏み込みのたびに床が低く唸り、肩口から伝わる衝撃が腕に痺れを残す。
ブレイブメイデンズの奮闘に応じるように、隊長格ハイエナールが姿を現した。ショッピングモールの吹き抜けにその笑いが跳ね返り、上階のガラスに歪んだ自分の顔を映す。
「やっと来たな! 狩りの始まりだ!」
「配置、パターンδ!」
しおんが短く指示を飛ばす。魔方陣が足元で光り、まどかが大剣を床に突き刺して通路を塞ぐ。きしむ床材に、魔力の線が蜘蛛の巣のように広がる。みのりのサンクチュアリ・バリアが半透明の天蓋となって広がり、ゆかなの矢がそこに宿った符の光を帯びて数を増やす。
だがハイエナールは狂笑しながらすり抜け、鋭い爪で床をえぐった。
「ヒャハハ! 遅ぇ!」
眼球だけが先に動いたように見え、次の瞬間には別の柱の陰にいる。残像が笑っている。
「速い!」
ゆかなの矢が弾かれ、火花が散る。ひなたが斬り込むも空を切る。ハイエナールの群れが結界の外周を舐めるように走り、四方から一斉にぶつかった。結界にひびが走った。音が胸の内側を叩く。
「持ちこたえるよ!」
みのりの声が震える。額の汗が頬に伝い、顎で切れて落ちる。結界の縁が薄くなり、光が瞬きながら縮む。
「来るよ!」
まどかが盾を構え直す。腕の筋肉が悲鳴を上げ、脚の震えを歯を食いしばって押し留める。しおんの指先が雷の印を描くたび、空気に焦げた匂いが混ざった。何匹かは雷撃に焼かれて倒れたが、笑い声はむしろ大きくなる。
「もっと笑え! 泣き声はごちそうだ!」
ハイエナールの喉から泡立つような笑いがあふれる。咆哮と共に群れが突進。バリケードが軋み、まどかが全身で受け止める。肩が火を噛んだように熱い。しおんの雷撃が数匹を捕らえるが、残りが迫る。結界の向こう、逃げ遅れた少年がこちらを見ている。ひなたと目が合った。泣かないように噛みしめた口元が震えている。
(間に合え——!)
息を呑む間もなく、絶望が近づく。爪が光を裂き、笑いが耳をこじ開ける。ひなたは踏み込み、剣を振り上げる。届かない。速い。視界が白く跳ねる。
その瞬間、空気が切り替わった。温度が一度だけ下がり、世界の輪郭が研ぎ澄まされる。
銀光が闇を裂いた。ハイエナールの爪がひなたを狙う——火花。刃と爪が交錯し、白銀の剣が軌跡を遮る。金属の澄んだ音が、吹き抜けの天井までまっすぐ届いた。
「また……!」
鎧姿の戦士。月光をまとったシルバーパラディンが立っていた。動くたびに鎧の継ぎ目から清冽な光がこぼれ、肩のマントが風もないのにゆるやかに揺れる。
「ここは野犬共の狩り場ではない。立ち去れ」
「ヒャハハ! 噂の騎士か! 牙と剣、どっちが折れるか試してやる!」
ハイエナールが跳躍し、牙を剥く。縦横無尽に走る残像が十重二十重に重なり、どれが本体か判然としない。シルバーパラディンは一歩も引かず盾で受ける。衝撃が空気を震わせ、周囲のガラス片が床で跳ねた。次の瞬間、銀剣が弧を描く。無駄のない、美しい一閃。まるで線を一本引き直して世界の間違いを訂正するみたいに。
「——ッ!」
獣の咆哮が途切れ、ハイエナールは胸を押さえた。そこから黒い霧が噴き出し、笑い声が泡のように弾けて消えていく。
「ぐぎゃあああ!」
群れが一瞬、主を見失った獣の目になり、ばらばらに後退した。刹那、吹き抜けの上階に漂った黒霧が渦を巻き、吸い込まれるように消える。
「ありがとう!」
駆け寄ろうとする私たちに、彼は低く告げた。
「お礼は後だ。奴が来る」
重い足音。モール全体が呼吸を止めたように静まり、空調の微かな唸り音だけが残る。次いで、焦げた鉄の臭いが風に混じる。現れたのはバザール。肩幅は扉を満たし、背後の陰を引き連れている。目は深い穴のように暗く、しかし底に赤い焔が灯る。
「再戦だな」
バザールの声は、床下から響く地鳴りのようだった。まどかが震えを飲み込み、盾を握り直す。ひなたは喉の渇きを唾で押し戻し、剣の柄を強く握る。みのりの結界が再び薄く光り、しおんの指先に雷が集う。ゆかなが矢筒を握り、矢羽根が彼女の呼吸に合わせて小さく揺れた。シルバーパラディンは盾をわずかに傾け、私たちの前に半歩だけ出る。彼の銀は、恐怖の形を淡く照らし出し、同時に恐怖の輪郭を小さくした。
嵐の再戦が幕を開けた——。
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