花笑みの夢
淡雪みさ
血の花道
暮れ六つを過ぎ、吉原の空は薄い墨色に沈んでいた。
二階から見下ろせば、遊女たちが紅の衣を纏って練り歩いている。外の喧騒から切り離された静かな部屋で、私はその様子をぼんやりと眺めていた。
燭台の火がわずかに揺らぎ、畳に落ちた光が水面のように揺れている。
向かいに座るのは、
私に貢ぐために家業を潰しているようなので、そろそろ潮時かと思っている。
窓際に座って煙管を吸う私の横で、「これを……」と、菖が懐から細い包みを取り出した。
包みの中には、美しい花柄の簪があった。
「似合うと思ったんだ。花風さんは、花が咲いたように微笑む人だから」
「まあ……口がお上手なことで。そんなことを仰せになる殿方は、初めてでございますわ」
私は菖にうっとりとした顔を向けながら、心の中では冷静だった。
花のように笑うと言われても、私の花の時期はとっくに過ぎている。この身は飾りであり、売り物である。若さを過ぎれば後は腐って枯れていくだけ。
金を持たず、将来の見えない男と、遊んでいる暇はない。
私は鏡台の前に立つ。簪を髪に挿すと、金の花弁が灯の色を受けてわずかに光った。
鏡の中の私は、よくできた絵のように微笑んでいる。
「本当に、これが私に相応しゅうございますかしら?」
「誰よりも似合っているよ。次の春は、それを着けて一緒に花を見たいね」
春。その現実味のない響きに、私はほんの少しだけ笑った。
私は明日身請けされる。菖と過ごす春はもう来ない。
翌朝、雨は上がり、吉原の通りには淡い霞がかかっていた。
張見世の格子が一枚ずつ開け放たれてゆく。いつもなら私も、あの中の一人として座り、客を迎えるはずだった。
けれど今日ばかりは違う。
私は鏡台の前で髪を結い直していた。
机の上には簪がある。昨夜、菖から贈られたものだ。これはここに置いていかせてもらう。
部屋の外では、女郎見習いである禿たちが慌ただしく支度を整えている。白粉の香が濃く、衣桁には新しい衣がかけられていた。
薄桃色の地に桜の刺繍。身請けの祝いに、楼主が誂えてくれたものだという。
「花風姐さん、本当におめでとうございます。これでやっと、自由になれるのですね」
禿の一人が涙ぐみながら言った。
私は曖昧に笑い返した。幼い彼女は、私が何よりも自由を欲していたことを知っている。
自由が欲しい。
私には手に入らないものだから。
でも、この身請けによる自由を、私はまだ信じ切れずにいる。
身請けとは、客が金を支払って遊女を店から解放し、妾や妻として引き取る制度だ。それは廓からの解放であり、同時に新しい籠の始まりでもあるだろう。
店の外で駕籠の音がした。黒塗りの駕籠に、家紋の入った暖簾がかけられている。
迎えに来たのは、私を買い上げた男の使いだ。彼には他にも既に数人、女がいると聞いている。自分が江戸っ子であることを自慢してばかりの、半可通な人だ。
ここにいる遊女の多くが、元は身売りをしなければ生きていけなかった貧農の娘だ。そんな相手に、江戸っ子であると語る無神経さにもうんざりする。けれど、もう若くない私は、文句を言える立場ではない。
楼主や姐さん方が玄関先に並び、盃を交わして見送ってくれる。
私は白地の小袖に袖を通し、帯を締めた。襟元の紅を少し控えめにして、姿見の前で息を整えた。
外に出ると、通りの両側には妓たちが並び、手を合わせて見送っていた。
駕籠の戸が開かれる。私は裾をさばき、そこに乗り込もうとした。
――その時、背後から聞き慣れた低い声がした。
「どこへ行くの。花風」
振り返ると、真後ろに菖が立っていた。
私は驚いて息を飲む。
「どうして……こんな時間にあなたがいるの」
問いかけながらも、嫌な予感がした。
菖がゆるりと口元に弧を描いた。彼の微笑は、いつだって少し歪んでいる。
「見送りに来たんだ」
そう言って、彼は一歩、二歩と近づいてくる。
不意に、懐から小刀の光が覗いた。
あ、と思った次の瞬間には、鋭利な刃が私の体を刺していた。
温かい血液が胸元に広がる。
「俺のものにならないなら死んでくれ」
遠くで、春雨がまた降り始めていた。
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