(三) 血塗られた海の供物

 恭一が部屋に飛び込んだ瞬間、清助の狂気は彼へと向けられた。


「部外者が!このけがれた家に、貴様が何の用だ!」


 清助は手に血を滴らせた包丁を恭一に向けた。その瞳はにごり、魚の鱗のように鈍く光っている。


 恭一は卓子たくしを蹴り上げ、清助と志麻の間に入った。


「落ち着け!志麻さんは怪我をしている!人を殺すつもりか!」


「殺す?違う!このけがれを、海に返すんだ!この女も、あの髪と一緒だ。海が求めている!供物だ!」


 清助は雄叫びを上げ、包丁を振り下ろした。恭一は咄嗟に身をひるがえし、卓子の角で清助の腕を叩いた。包丁が床に落ち、甲高い音を立てた。その音は、部屋に充満した血と潮、そして生臭さの粘着質な静寂を破った。


 恭一は、志麻を抱え上げた。彼女の腕からは脈打つように血が流れ出ており、服はすでに赤黒く濡れていた。


「逃げるぞ!」


 恭一は志麻を背負い、清助の家の裏口から、海へと続く石段を駆け下りた。志麻の痩せた体は熱く震え、背中に背負われた彼女の傷口から滴る血が、恭一の背中を温かく濡らした。


 彼らが逃げ出した直後、村中に響き渡る太鼓の音が鳴り響いた。


 ドォン、ドォン、ドォン。


 それは、単なる儀式の音ではなかった。まるで、海の心臓が打ち鳴らされているかのような、深く、重い響きだった。


 恭一は、志麻を抱えて岩場を抜けた。目の前には、満月が水平線に昇り始めた静かな浜辺が広がっていた。だが、その静けさは、地獄の前触れだった。


 村人たちが、浜辺に集まっていた。全員が、白い布を巻き付け、手に古い松明を持っていた。彼らの顔は、松明の火に照らされ、獣じみた狂信の熱を帯びていた。


 その集団の中央に、黒い石で組まれた粗末な祭壇があった。


 そして、祭壇の上に置かれていたもの。


 それは、志麻が抱いていたものよりも遥かに巨大な、濡れた黒い束だった。何千、何万という髪の毛が絡み合い、まるで海藻の怪物のようにうねり、祭壇の石から床へと垂れ下がっていた。


 ――海境うなさか


 恭一は息を飲んだ。その髪からは、凄まじい怨念と、濃密な潮の匂い、そして生贄の血の香りが立ち込めていた。それは、単なる少女の亡骸の一部ではない。村の歴史、迷信、そして海の狂気が凝縮された、呪いの実体だった。


「海の主が、供物を求めておるぞ!」


 老巫女と思われる老婆が、奇妙な節回しで叫んだ。その声は、潮騒の音と太鼓の音に混ざり、恭一の鼓膜を不快に震わせた。


「魚を獲り、船を守るため、人の血を、髪を返せ!」


 村人たちは、口々に奇声を上げ、松明を振り回した。彼らの熱狂は、恭一と志麻を完全に包囲しようとしていた。


 その時、恭一の背中の志麻が、かすかな声を上げた。


「……海に、返して。全部、海に、沈めて」


 志麻は、自分がこの儀式の中心であることを知っていた。彼女は、夫婦としての地獄、髪の呪い、全てを終わらせることを望んでいた。


 呪いの実体

 清助が、包丁を再び手にし、狂気の目で恭一と志麻を追って浜辺に現れた。


「志麻!お前が、新しい髪になるんだ!少女の、代わりだ!」


 清助は、祭壇の髪の束を指さした。


「あの髪は、俺たちの娘だ!海に沈んだ、俺たちの娘だ!お前が、その怨念を引き継ぐんだ!」


 恭一は戦慄した。この夫婦は、かつて本当に海難で少女の娘を失い、その娘の髪を呪いの依代として崇拝し、狂気に陥っていたのだ。


 清助が突進してきた瞬間、恭一は背中の志麻を下ろし、清助を突き飛ばした。清助はもんどりうって、祭壇の黒い石に頭を打ちつけた。


 ガシャリ。


 祭壇が崩れ、巨大な海境うなさかの束が、岩場に落下した。


 その瞬間、呪いの髪は、まるで海底の熱水に触れたかのように、激しくうごめき始めた。


 濡れた黒い筋の一つ一つが、生命を帯びたように伸び、恭一たちの方へと、這い上がってきた。髪の毛の束は、血と潮を吸い込み、粘液質の光沢を放ちながら、恭一の足首に絡みつき始めた。


「くそっ!」


 恭一は、腰に差していたナイフを抜き、絡みつく髪を切り裂いた。しかし、一本切っても、次から次へと無数の髪が蛇のように這い寄ってくる。


 恭一の足元に、切り裂かれた髪から、生臭い、黒く濁った粘液が滴り落ちた。それはまるで、深海の魚の体液のようであり、少女の怨念そのもののようでもあった。


 村人たちは、髪のうごめきを見て、さらに熱狂した。


「海が怒っておられる!供物が、足りない!」


 老婆が、松明たいまつを高く掲げた。


 恭一は、志麻を抱きかかえ、最後の力を振り絞って、その髪の海の渦から、岩場の奥へと逃げ込んだ。背後からは、村人たちの叫び声と、髪の束が岩を這う粘つく音が追いかけてくる。


 恭一の頭の中には、妹の面影と、志麻の悲鳴、そして海と血の混ざった腐敗臭しかなかった。この村の深淵には、妹の行方、そして少女の怨念が絡みついた、出口のない迷宮が存在していることを、彼は痛いほどに悟っていた。

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