お抱え庭師は青き恋を甘く咲かせる ー ソルティ・リトルレディ ー

入鹿 なつ

Salty little lady

 ルーシーは小さな体をさらに小さく屈めて、生け垣の隙間をそうっと覗き込んだ。白い小花と楕円の葉を透かして、庭園の手入れに精を出す庭師の姿が見える。

 野良着の首に手ぬぐいを巻いた禿げ頭のバートは祖父の代から屋敷に出入りしていて、ルーシーもずっと可愛がってもらっている。けれど、脚立にのぼってバラのアーチを手入れしている彼の足元に立つ、やせっぽっちの少年は知らない顔だった。


 よれたシャツとズボンを着た手足は伸びやかだけれど、華奢な輪郭は少年と言って差しつかえないだろう。バートを見上げる首も細くて、体力が必要な庭仕事をさせるには頼りなさが否めない。

 それでもレンガ色の癖毛が庭の緑に映えて見えるのが興味深く、鼻筋の通った少年の横顔をもっとよく見ようと、ルーシーは花の香りの中に顔を埋めた。


 不意に、少年がこちらを向いた。灰色の瞳と目が合った気がして、ルーシーは慌てて生け垣から顔を離した。


(……気付かれた?)


 自分の暮らす屋敷の敷地内であるし、悪いことをしているわけではない。しかし少年の姿をつぶさに見ていたことを知られるのは気恥ずかしさがあり、ルーシーは早鐘打つ胸を押さえて息を詰める。

 鼓動が落ち着くのを待って、ルーシーはさっきよりも慎重に、生け垣に顔を寄せた。花に縁取られた景色の中の少年は、もうこちらを見てはいなかった。




 ❁




 視界の端を光がかすめた気がして、イアンは顔を振り向けた。バラのアーチから続くレンガ道の角に、煙るように小花を咲かせる生け垣がある。その合間に、蜂蜜色をした人の頭が見た。


「バートさん」


 呼びかけに応えて、庭師の師匠は脚立の上からこちらを見下ろした。


「どうした?」

「あそこに、誰かいます」


 バートは奇妙そうに眉間を開き、イアンが見詰める先に目をやった。高い位置にいる分、バートの方がはっきり様子が見えるに違いない。彼は生け垣へ視線を向けるなり、ああ、と言って苦笑した。


「ここのお嬢様だ。自分以外の子供が屋敷にいるのが物珍しいんだろう。隠れてるおつもりなんだ。そっとしておいて差し上げなさい」

「……はい」


 バートがはさみを持ち直して作業を再開したので、イアンは後ろ髪引かれる心地で顔を正面に戻した。




 ❁




 道具を抱えたバートと少年が視界から消えて、ルーシーは強張らせていた肩から力を抜いた。そうすると急に、花の匂いが濃くなったような気がする。自分はよほど熱心に少年を観察してしまっていたらしい。唇と喉が渇いて、胃は午後のお茶の時間を伝えている。

 今日はチョコレートのスコーンがいい、などと思いながら、ルーシーは立ち上がるために膝を立てた。


「あの――」

「ひゃっ」


 背後から急に声をかけられ、ルーシーは悲鳴と一緒に心臓が飛び出しそうになった。腰を抜かした勢いで振り返ると、ついさっきまで垣間見ていた少年が間近に立っていた。

 生け垣の根元でじたばたするルーシーに、少年は焦った表情で膝をついた。


「だ、大丈夫ですか」


 少年の手がルーシーの手首をつかみ、かしいだ上体をそっと引き起こす。枝のように細く見えた少年の腕は、ルーシーよりもずっとしなやかな力強さを備えていた。


「ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんです」


 少年の声は涼やかだったが、大人びた低さがあった。こちらを窺う灰色の眼差しをルーシーが上目遣いに見返すと、彼はちょっと困ったように眉尻を下げた。


「こちらのお嬢様だと伺ったので、ご挨拶をと思って」


 少年は気を取り直すように背筋を伸ばした。


「イアンって言います。バートさんの所でお世話になっていて、今日は初めてここに連れてきてもらいました。これから頻繁にお邪魔させていただくことになると思います」

「……ルーシー、です」


 ルーシーがおずおずと名乗れば、イアンは飛び切り感じよく笑んだ。


「ルーシー様ですね。よろしくお願いいたします」


 爽やかに微笑まれれば、悪い気はしない。頬のほてりを感じながら、ルーシーは彼への警戒を緩めて口を開いた。


 その時、ルーシーの胃袋が低く鳴った。

 慌てて腹を押さえたが、それでなかったことにできるわけもない。

 笑われてしまう、とルーシーは思った。けれど、恥ずかしさでうずくまる少女に、イアンはむしろ戸惑ったようだった。

 彼はいくらか瞳をさまよわせたあと、思い出したようにシャツのポケットに手を入れた。


「えっと、よかったらこれを」


 取り出した茶色の紙包みを少年が開くと、中から現れたのは焼き菓子のようだった。クッキーに似ているが、それにしては厚みがなく、甘い香りもしない。

 お茶の時間に出るものとは違う未知のお菓子に興味をそそられ、ルーシーは積み重なっている一枚をつまみ上げた。イアンを窺い見れば、思いがけず正面から目が合い、ルーシーは慌てて視線をそらして焼き菓子を口に含んだ。

 固く焼かれた菓子は素っ気ない小麦粉の味ばかりかと思ったが、ほんのりとした塩味があとを引いた。


「……もう一枚、いただいても?」


 ルーシーが恐る恐る問いかければ、緊張の面持ちだったイアンの表情がほころんだ。


「もちろん。気に入ったのなら、全部どうぞ」


 ルーシーが遠慮がちにもう一枚を口に運ぶ間に、彼は焼き菓子を包み直して少女に丸ごと持たせてくれた。

 思いがけない贈り物に、気分が高揚する。ルーシーは心音がまた早くなるのを感じたが、それはどこか心地よい温かさをもたらすものだった。


「安心しました」


 イアンが呟き、ルーシーは首をかしげて彼を見た。レンガ色の癖毛がふわりと揺れ、涼しい灰色の眼差しが細まった。


「お庭に隠れてるくらいだから堅苦しい方ではないだろうとは思いましたが、気難しい方だったらどうしようと思っていたんです。恥ずかしがり屋ではいらっしゃるけれど、可愛らしい方で本当によかった。お話しできて嬉しいです。ルーシー様にお会いできるなら、ここに通うのも楽しくなりそうです」


 ぽかんとして、ルーシーはイアンの笑顔を見た。その輝かんばかりの表情で、彼は今、なんと言ったか。

 可愛い、なんて賛辞は、大人たちから散々言われてきた。ところがイアンの声に乗ると、途端に違った響きを帯び、くすぐられたようなこそばゆさが鼻の奥をつついた。それは徐々に熱へと変わり、顔全体へと広がってルーシーは混乱した。


 ぱーん、と。小気味よい音が庭園に響いた。


 イアンが目を見開いているのは当然だが、それと同じくらい、彼に平手を叩きつけた自身の行動にルーシーは驚いた。硬直した少年の頬に、赤い手形が浮かび上がる。

 なぜ叩かれたのか、イアンに分かるまい。ルーシーも、なぜ彼を叩いてしまったのか分からないのだから。

 ルーシーの熱は瞬く間に冷めて青ざめ、沈黙が動揺を浮き彫りにする。

 恐々と、イアンが沈黙を破った。


「あの……」


 かすかに声が震えていて、彼の狼狽えがルーシーにもひしひしと伝わってきた。


「ごめんなさい。なにか、気に障ることを言ってしまったようで……」


 そうではない、とルーシーは言おうとした。ところが口をついたのは、まったく正反対の言葉だった。


「そうよ!」


 ルーシーは勢いよく立ち上がって、膝をついたままのイアンを見下ろした。


「わたくしが可愛いなんて……話せて嬉しいなんて……そんなこと……」


 冷えたはずの頬が、また熱くなっていた。耳や額、目蓋や唇まで熱い。赤くなっているだろう顔を、イアンが凝視している。それがますますルーシーの羞恥をあおったが、そこで言葉を止めるわけにもいかなかった。


「だから今度は、わたくしが……お菓子を用意します。お茶も、用意します。だから、また……こうやってお話し、してください」


 声がどんどん小さくなりながらも、かろうじて最後まで言い切った。ルーシーの気持ちは今にも逃げ出しそうだったが、返事を聞かなくてはと必死で足を踏ん張る。

 呆然としていたイアンが、ふっと息を漏らした。笑み崩れた彼に、ルーシーは今度こそ顔が火を噴いたと思った。


「はい。ルーシー様とのお茶の時間、楽しみにしています。これからたくさん、お話しできると嬉しいです」


 心臓が止まった気がして、ルーシーは息を吸い込んだ。

 ぱーん、と。平手の音が再び、庭園に響き渡った。

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