シガレットデディケーション

ゆとり

プロローグ

 不断一心ふだん いっしんはコールセンターで正社員として働く会社員だ。

 どこにでもいるサラリーマンに見えるが、仕事への熱量が他の社員のとは違っていた。

 彼はこの会社で出世を目指し、結果だけを見据えて仕事をしていた。そのため他の社員と協力することはせず、一人で突っ走っているのだ。

 しかし、コールセンターという業種的に顧客と一対一で話す事が主であり、一人で仕事をしようが特に周りに迷惑をかける事もなかった。


 一心は昔から目的のためなら手段を選ばない、周りのことは気にしない性格のため、他者とぶつかる事もしばしばあった。いや、ただの観測バイアスであり、本来はつねに誰かとぶつかっていた。しかしそれを一心が認識出来なかったのは、まさに周りのことは気にしない性格ゆえだろう。それと楽観的なことも関係しているだろう。おかげで23歳という年齢になるまで自分の性格と向き合う機会がなかったのである。


「はい。承知いたしました!それではよろしくお願いいたします!失礼いたします!」


 耳に当てた受話器からプープーという相手が電話を切った音がなり、それを聞いてから一心は左手に持った受話器を電話本体へと置く。それと同時に電話越しに話していたとは思えないほどの優しい笑みを崩すと、顧客情報を更新するためにPCと向き合いキーボードを叩く。


 やっと情報更新に終わりが見えたとき、一心は右肩から肘にかけて熱を感じ、同時に軽い衝撃がくる。


 一心が右を向くとまず目に入ってきたのは、嫌らしい笑顔の同僚。それから視界の端に茶色く濡れた自身のワイシャツを認識した。

 少し目線を下に移動させると床に転がっているマグカップが一心のワイシャツを濡らしたであろう液体を口から垂らしている。


 その視覚情報からコーヒーをかけられたのだと一心は理解するが、わざとらしく「ごめんな。手がすべってさ」と平謝りをする同僚を責めることもせず、右手を軽く振りながら、「大丈夫大丈夫!」と元気よく笑顔で返す。


 状況からみてこの同僚は一心に対してわざとコーヒーをかけたのだが、一心にはコーヒーの熱さも生み出した黄ばみも、もっと言えば同僚のこうした嫌がらせも気にしていなかった。というよりも興味がないのである。気にしたところでしょうがないとか、イジメられている現状を諦めているとかそういうレベルではなく、どうでもいいと思っている。


 この同僚だけでなく、他の社員も何名かは一心が仕事でメキメキと実績を残していくのが気に食わなく、日頃からこうした嫌がらせをしている。

 しかし、一心がそれに屈するどころか気にしていなさそうなのが余計に気に食わなくなり、更に嫌がらせはエスカレートしていっているのだが、一心はそれすら気に止めない。


 だが、いくら一心が気に止めなくてもそうした事が日常的に行われていると職場の空気は悪くなる一方であり、イジメに加担していない人たちがその空気に堪えられなくなるのは必然であるのだった。


 ✳✳✳✳✳✳


 一心がコーヒーをかけられた日から二ヶ月後、彼は自宅近くの公園のベンチで黄昏れていた。


「あーひまだなー」


 腰で座り、ベンチの背もたれに頭を乗せて天を仰ぐ彼の顔に覇気はなく、まるで人生そのものの目的を失ったのかとも思えるものだった。


 、仕事が定時を迎えそうなタイミングで一心は上司に呼び出され、クビ宣告されていたのである。

 理由は職場の空気を著しく悪くしたというものだった。


 上司も一心に対するイジメを把握はしていたが、面倒事に巻き込まれるのはごめんだと見て見ぬ振りをしていたのだが、一部の社員から、イジメをどうにかしてほしいとの声があがり、仕方なくどうにかすることにしたが、イジメをしていた人たち、それから一心と話をして解決、というのは時間がかかり面倒臭いという理由で一方的に一心をクビにした方が早いという決断である。それくらい一心の上司はめんどくさがりで、それだけで一心が上司に恵まれなかった事が伺える。


 もちろん、一心もその判断には物申したが、やってもないことをねつ造されていたり、実際、嫌がらせに対して反応がなかった事も悪い方に捉えられ、更にはのことまで引っ張りだされ、逆に職場に嫌気がさし、即日退職したのであった。


「兄ちゃん今日もひましてんのか?」


 そう声をかけてきたのは最近この公園で知り合った名前もしらないおじさんだった。

 見た感じ、まだ定年には早い年齢に見えるのだが、着ている服がボロボロだったり、無精髭が伸びていたりするに、一心と同じく、職なしのおじさんなのだろう。


「おっす。おっちゃんも相変わらずひまそうだな」


「俺はこれが楽しみで生きてるからいいんだよ」


 そういうと持っていた袋から焼酎のカップを取りだし、二カッと笑う。まだ時計の針はてっぺんを少し過ぎた頃だというのに焼酎を飲もうとするあたり、ほんとうに職なしおじさんなのだ。


 だがその顔は職なしとは思えないほどおじさんを輝かせ、あまりの眩しさに一心は目を細める。日の光のせいもあるかもしれないが、おじさんの楽しそうな顔が今の一心の精神には眩しかったためそれも影響している。


 職なしおじさんはよいしょと当たり前のように一心の隣に座り、焼酎を開けて飲む。その一連の動作が終わると、胸ポケットからタバコを取りだし、箱の中からタバコ本体とライターを取りだし、慣れた手つきで火をつける。


「おいしいのか?」


 ふーと煙りを吐くおじさんに一心が尋ねると、これか?と右手にもった焼酎を見せる。一心は首を横に振り、そっちとおじさんの左手の人差し指を中指に挟まれたタバコを顎で指す。


「ん」


 おじさんはタバコを口にくわえ、再度ポケットからタバコを取り出すと一心に差し出してくる。一本やるよという意味だと捉えた一心は黙って受け取り、火をつける。

 これまでにタバコを吸ったことはなかったが、火の付け方や吸い方を知識として持っていた。というより


 着火した瞬間、口いっぱいに煙が入り込み、苦みが舌を包み込む。そして喉を通り、肺に到達したと同時に一心は咳込んだ。


「おぇ!!ごほっ、ごほっ!!」


 嗚咽混じりの咳におじさんは大丈夫か?と一心の背中をさする。


 一心の舌と肺がタバコを拒否り、脳はパチパチと光を点滅させた。


 その光はきっと脳もタバコを拒否したものなのだろう。

 しかし、一心の心はその逆を走っていた。


「なんだこれ!すげぇじゃんか!」


 先程までの死んだ顔を捨て、職なしおじさんが焼酎を見せたときとは比較も出来ないほどの輝かしい顔を見せる。

 その顔は、舌と肺、それから脳が吐き出した涙と、心が生み出した笑顔が無理矢理共生したものだったが、濁っていた目に光が宿っているのを見るに、誰もがいい笑顔だということだろう。


 すぐさまタバコを口に運び、二回目の煙りを一心は口に含む。

 体は再度タバコに対して拒絶反応を見せようとするが、一心はそれを無理矢理押さえ込む。


 そんなやり取りが何度か続き、短くなったタバコの火種がフィルターに到達しようとしたとき、おじさんがはいよと携帯灰皿を開いてくる。


「ありがとう!!」


 元気にそういいながら、携帯灰皿にタバコを押し込むと、ふーと一息ついてから一心は勢いよく立ち上がる。


「もういくのか?」


「おう!タバコありがとうな!」


 おじさんは一心の中に目的が出来たと理解し、がんばれよ!と声をかけ、一心は手を振りながら意気揚々と公園をでた。


 この時一心の心はタバコを吸いたいという気持ちでいっぱいだった。

 正確には、タバコを買うという目的のための働く意思が生まれたといった方がいいだろう。


 一本吸っただけで?と思うかもしれないが、仕事をクビになり目的や目標がなかった一心にはそれだけで理由としては十分だったし、逆に目的もなく、なんとなく働く事や、目的、目標を探すために働こうという意思はなかったである。


 そんな一心が向かう先はコンビニである。

 目的は二つ。

 まずはタバコ。それから求人誌である。コンビニならその両方をまとめて手に入れられると思ったのだ。


 コンビニに向かう一心の足取りは、本人の意思とは無関係にいつもよりも早く動いていた。

 そのため、路地から急にでてきた人影に気がつき避ける事が出来ずにぶつかってしまう。


 人影は衝撃で倒れ込み、持っていた袋から荷物が飛び出す。その中にタバコがある事を一心は見逃さなかった。


「すみません!大丈夫ですか?」


 倒れ込んだ人影は一心の心配する声に反応し、上を見上げる。

 ぶつかった人物は若い女性であることがわかる。そして、おそらくほとんどの人がかわいいというに違いないほどに整った顔つきだ。


「大丈夫です。こちらこそすみません」


 女性はそういうと急いで飛び出した荷物を袋に詰め込み始める。パンや飲み物、ガム、それからタバコ。袋もコンビニのものであり、飲み物が少し汗をかいているのでコンビニからの帰りかなにかだと推測できる。

 この時、一心も荷物を集める手伝ったのだが、最初に手に取ったのがタバコだったのは無意識だろう。


 女性はありがとうございますと言いながらもどこか焦った様子であり、その理由を一心が理解するのに時間はかからなかった。


「きゃ!!」


 荷物(タバコ)を袋に入れようと倒れた女性と同じ目線に屈んだ一心の視界から悲鳴と同時に女性の顔が上に浮かぶ。


 何事かと一心もワンテンポ遅れて女性の顔を追うと、女性は苦痛の表情を浮かべており、そんな彼女の腕を身長の高い、それでいて横にも体格が大きな男が女性の腕を自身の顔当たりまで掲げていた。

 彼女は急に立ち上がったのではなく、この男に無理矢理立ちあがらされたのだと一心はわかり、それと時を同じくして、目の前の女性が焦っていた理由も理解した。

 彼女はこの男になぜか追われており、逃げていたところに一心とぶつかってしまったのだろう。


 一心にとって、この女性がなぜこの男から逃げていたのか、二人はどういう関係なのかなどは微塵も興味はなかった。

 しかし、手にもったタバコをどうしようと考えていた。いくらなんでも今この状況ではいどうぞと渡すのは違うと思った。

 そして、少し考えたあと、一心ははっ!と一つの考えに至った。


「このタバコもらっていいですか?」


 普通の人ならこのような考えには至らない。しかし、一心は今タバコを買う(吸う)事しか考えていなかった。なので、この状況でタバコを返すとなると、面倒事に巻き込まれそう。むしろこの状況でこのタバコを返して欲しいとはこの女性も思わないだろうという思考。だいぶ狂っている。


 そんな一心の問い掛けに、目の前の二人はえっ?という反応だ。いや、それが当たり前の反応なのだけれども。


「なんだこいつ。頭おかしいのか?」


 女性の腕を掴みながら男はそういうが、それと同時に邪魔しないなら都合がいいとも考えていた。

 そしてそのまま女性を路地に連れていこうとする。


 そんな流れの中でも一心は、返事はなかったがタバコをもらってもいいんだよね?なんて考えながら立ち去ろうとする。


「そのタバコが欲しいなら私を助けて!!」


 引きずられた女性の足が路地に吸い込まれそうになった瞬間、そんな声が響いた。

 この女性にはなにか考えがあったわけではない。混乱した頭で一心から発せられたタバコという単語と助けて欲しいという自身の気持ちを組み合わせただけの台詞。

 だが、その言葉の組み合わせがよかった。そしてそれを聞いたのが、いいや、路地から飛び出してぶつかったのが一心でよかったのだ。


 女性の渾身の叫びを聞いた一心は、考えるよりも先に走りだし、女性が消えた路地に入ると、そのままの勢いで跳び蹴りを放つ。


 間一髪女性には当たらなかったが、一心は別に狙ってそうしたわけではない。むしろ女性に当たっても気にしなかっただろう。彼の頭にはとりあえず助ければタバコがもらえるということしかなかったのだから。


 上にも横にも大きな男が一心の跳び蹴りで倒れることはなかったが、それでも衝撃で女性の腕を離してしまう。

 一心はすぐに立ち上がり、女性を無視して横を通り抜けると男に殴りかかる。


 一心の大きくも小さくもない拳は男の人中に当たる。

 体格差があるため、それほど強く当たったわけではないが、これまでに喧嘩の経験のない男にはそれだけで牽制になった。


「ま!まってくれ!」


 人中あたりを抑えながら涙を目に溜めて後ろに下がる男だったが、一心の耳に男の声は届かない。一心はなおも追撃し、そのたびに男は待ってくださいと懇願する。


 時間にして一分もかかっていないが、殴られた男にはとても長く感じただろう。男は恐怖に堪えられなくなりその場から走り去る。


「よし、このタバコもらいますね」


 自分の役目は終わったと判断した一心は跳び蹴りの際にその辺に投げていたタバコを拾いながらそういって立ち去ろうとする。


「待ってください!」


 そんな一心を女性は呼び止める。


「なんですか?まだなにか?」


「まだ怖いので一緒にいてくれませんか?もっとタバコあげるので」


 まだ怖い。そうはいうが一心の目にはとても怖がっているようには見えない。

 跳び蹴りの際に男の手から投げ出された女性は地面に座り込んだまま一心を見上げているのだが、その顔には不気味なほどの笑みが貼付けられており、発した言葉とは違う事を考えているのは容易に想像出来た。


 この時、この女性、矢向望心やむき もちこは新たな依存先を見つけていたのだ。


 矢向は依存体質であり、付き合った恋人にもれなく依存してきた。

 それは彼女の家庭環境が影響しており、愛されて来なかったことが起因している。

 そしてそんな矢向はタバコ一つで自分を助けてくれた一心を見て、タバコを間に挟む、いや、タバコを間に挟みさえすれば一心は自分と一緒にいてくれると瞬時に理解していた。そしてあわよくば彼の愛すらも享受できるかもしれないと。

 そう思うとどうしても笑みが零れるのを我慢できなかったのである。


 タバコがもっともらえるならと一心は矢向の手をとって立ち上がる手助けをする。


 腰まで伸びた矢向の髪が路地に吹いた風に流される。

 その髪の一部を耳にかけながら矢向は一心を真っ直ぐに見つめながら少し照れた表情で自己紹介をする。


「私は矢向望心といいます。あなたは?」


「俺は不断一心です」


「一心くん。ふふっ、よろしくね」


 矢向の浮かべる不適な笑みの真意も気にせず、一心は彼女に差し出された手を取り握手を交わすのだった。

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