4章「満塁ホームランの非日常」
十八時も過ぎた四月の夕暮れ。
空の橙は消え、薄い青と群青のあいだをさまよう。
街の影は濃く、そろそろ街灯に明かりが灯り始めようかという頃。
それが視界に入ったのは、帰路の途中にある公園に差し掛かったときだった。
「おねぇちゃん、トンネルできたよ!」
「ー__;/---_」
公園の砂場で遊ぶ小さな子供と、首が異様に長いセーラー服姿の少女。
子供の声は聞き取れるが、少女の声は聞き取れない。
「おねえちゃん!つぎはブランコやろ!」
「-/__--ー■□ーーー」
彼女はコチラの世界の住人ではない。
というのも、その公園はいつの頃からか首吊り自殺で有名な公園となっていて、彼女はその公園の見えない主だった。
しかし、何故か子供とは意思疎通が出来ている様だ。
意を決して、普段は絶対に入らない公園に足を踏み入れる。
その瞬間、強い悪寒が全身を走り、彼はその場に固まってしまう。
が、すぐに気を取り直してゆっくりと歩を進めた。
作った握り拳に力を込め、吸った息をゆっくり吐きながら、震えないように奥歯を噛み締める。
そうして子供のもとに着くと、彼はいたって平静を装い声をかけた。
「こんな時間にまだ遊んでんのか?」
「おにいさんだれ?」
「たまたま通りかかったお兄さんだよ。それより、家に帰る時間、とっくに過ぎてるんじゃないのか?もうすぐ真っ暗になるぞ」
「うん。でもね、おねえちゃんがまだあそびたいっていうの」
この子供には、この少女がどう見えているのか。
子供の言葉には、恐れは微塵も感じられない。
「おねえちゃんとは俺が遊ぶから、お前さんは家に帰ろうな」
そう言いながら揺れるブランコを優しく止めると、子供の手を引き公園を出る。
子供は無邪気に「またね」と、公園の少女に手を振っていた。
が、後ろからは、なんと表現したら良いのかも分からないような悲鳴が追いかけてくる。
心の中で強く、とり憑くなら自分に憑くよう念じながら、そんな事はおくびにも出さずに子供に話しかけ、家までの道案内をさせた。
途中、何かが首に巻き付く感触があるが、この子供を送り届けるまではとノーリアクションを貫く。
子供の家に着くと、心配して出てきた母親に、至極丁寧に礼をされた。
見送る子供と母親に、手を振りながらもと来た道を引き返す。
引き返すというより、引き戻されている感覚だった。
程なくして公園に到着。
首に巻き付く違和感を不快に思いつつ、何をするでもなく、取り敢えず公園内のベンチに腰を下ろす。
と、後ろから先の少女が、頭の真上からこちらの顔をのぞき込んでくる。
目の前にある真っ逆さまの少女の顔は、首を吊ったあとの死体のそれで、ひどく歪んでいた。
これがなんの前触れもなく突然現れたら、悲鳴を上げていたかもしれない。
自分の首には彼女の手がかけられ、少しずつゆっくりと力が込められていく。
さて、どうしたもんか。
ここに来て金縛りなのか、体は指先一つ動かない状況だ。
傍から見れば、ただベンチに座っているようにしか見えないだろう。
(俺を殺すのか?)
「__//~/+-□」
心の中の呟きに答えるように彼女の声が聞こえるが、やはり言葉にはなっていない。
意思の疎通は難しいらしい。
この程度の金縛りなら慣れているので、振りほどこうと思えば簡単に振りほどける。
しかしそれをしたところで、首を絞めている手が一気に力を込めてくる可能性もある。
その場合は間違いなく死ぬだろう。
今目の前にいるのは、ただの「幽霊」では無い。
数々のものが重なり合って集合体になった、化け物に近い存在だ。
しかし、そんなことがわかっていたところで、今の自分にはなすすべが無い。
特別修行をして霊験あらたかな力があるわけでもないし、何かしらの道具を持っているわけでもない。
そういうものをとてもよく見るというだけの、ただの一般的な学生なのだ。
どうにか振りほどく手は無いかと思案するが、それよりも首が締まって呼吸が出来なくなってきている。
「くっ……」
遂に気道が締められて、ほんの少ししか息が入ってこない。
視界が狭まり、耳は自身の鼓動の音を拾い、他の音が聞こえず、指先が冷え、しびれるのを感じる。
このまま意識を失ったらどうなってしまうのだろうか?
しびれ始めた頭でそんな事を考える。
と、そこに聞き覚えのある声が頭の中に響いてきた。
『我に名を与えよ』
先の虎の声だった。
『このままでは死んでしまう』
『我を振るえ』
呼吸ができない苦しさの中、考える余裕は無かった。
「は……く、しゅ、う」
どうにか口を動かし、言葉を吐き出す。
『承った。これより我が名は白秋。主の力となり御身に仕えよう』
その声と、自身が座っているベンチがひっくり返ったのはほぼ同時。
直後、巨大な虎が現れ少女を彼から引き剥がすと、そのまま吹き飛ばした。
「ゲホッ、ゲホッ!」
気道が一気に開放され、肺に空気が送り込まれる。
おかげで激しくむせ込み、彼はその場でうずくまった。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
どうにか呼吸を整え、立ち上がる。
見ると、少女も離れてはいたが立ち上がっていた。
そして隣にはダンプカーくらいはあろうかという巨大な虎。
「げほっ……でけぇな」
『小さいほうがよろしいか』
言うと、虎はみるみるうちに姿が縮み、馬ほどの大きさになった。
『主、
顔をこちらに向けた虎は、急にそんなことを聞いてくる。
「つるぎ?剣道やってっから、刀くらいならなんとかなるんじゃねえか?」
『なればこれを振るえ』
彼の答えに虎は突然ジャンプしたかと思うと、その身を抜き身の日本刀に変えた。
回転しながら落下してきたそれは、彼のすぐ目の前の足元にサクリと突き刺さる。
「あっぶねぇな!」
思わずそう言って一歩下がるが、虎が消えたのを確認した少女が、こちらに向けて突進してきたのを見て、迷わず刀を引き抜き構えた。
首めがけて伸ばしてきたその腕を横に交わし、刀を振り下ろす。
と、両腕がスパッと簡単に切り落とされた。
「ーーー_/_/;:--~==/‼」
内容の聞き取れない悲鳴をあげ、少女がもんどり打って倒れ、のたうち回る。
そんな少女をよく見ると、その伸びた首の頭の付け根。ちょうど顎のすぐ下辺りにロープが巻き付いているのが見えた。
ロープの先をたどると、首の後ろから公園の端に生えている木へと伸びている。
が、それを見たところでここからどうすれば良いというのか。
「……こっからどうすりゃいいんだよ?」
そんなつぶやきに先の虎の声が答える。
『大元を正せば良い』
「元って……あの木か?」
言いながらよく見ると、木の枝には、そこで首を括るのに使われたであろうロープが、無数にぶら下がっていた。
あの木自体があの化け物の大元となっているのは確かな様だ。
しかし、だからといってこちらは日本刀ひと振り——ましてや素人の刀さばきでは、せいぜい木の皮一枚傷つけるのがいいところだろう。
下手をすれば刃が欠けてしまう恐れもある。
そんなことを気にしているのがわかったのか、
『切るのではない。消滅させるのだ』
先の虎の声がそう言った。
「消滅させる?」
どういうことがわからずオウム返しに聞き返すと、虎はさらに続ける。
『更新はなされた。今ならば主が念じるだけで、尖先に触れた全てのモノを消滅させる事ができる。やらねば主が殺られてしまう』
と、いつの間にか少女は消え、足元には先程見たものと同類と思しきロープが、木から何本も伸びてきていた。
これにからめとられれば、翌日には新しい首吊り死体として発見されることになるだろう。
彼は一つ深呼吸をして意識を集中させる。
相手は目の前の木。
相手が消える事をイメージして胴斬りを叩き込めばいいのだろうか。
やってみなければなんとも言えない。
やるしかない。
吐く息を、細く、鋭く。
正眼に構え、踏み出す。
同時に、襲ってくるロープの絵図らが何ともシュールだが、そんなことを考えている場合ではない。
ロープに触れないよう避けつつ全速力で前へ進む。
数メートルの距離を一気に縮め、勢いを乗せて全力で木の幹に胴を叩き込んだ。
剣道のやり方だが、手応えはあった。
木を斬ったはずなのに、全く別のものを斬ったような手応えを感じ、すぐさま木へと向き直る。
すると、木からぶら下がったり、根元から伸びたりしていたロープが、まるで生き物のように空中にひと塊に集まる。
油断せずに身構えていると、塊は蠢きながらどんどん収縮し、最終的に粒となって消えてしまった。
終わったか。
そう思ったのもつかの間。
木から、ミシミシと音が聞こえ始めたのだ。
それはだんだんと大きくなり、最終的に彼が胴を叩き込んだ部分を中心に、バキバキと大きな音を立てて倒れた。
あまりに大きな音がした為、周りの家の窓が開く音や、玄関から人が出てくる気配がする。
自分がこのままここにいれば、間違いなく警察のお世話になってしまう。
それだけは避けたい。
なんとしても。
「白秋、飛べるか?」
『主が望めば』
「じゃあ今すぐ俺を乗せて飛べ!」
『御意』
咄嗟に思いつき、刀から虎になった白秋に跨り、人目が届かないうちに空へと逃げる。
が、その後は考えていなかった。
そう。着地のことまでは。
「う、おわぁぁぁあーーー‼」
飛ぶと言ったのは超高高度のジャンプでしかなかった。
一旦空高く飛び上がった虎は、放物線を描き、物理法則に従って加速した状態でかなり離れた空き地に着地。
「ぐぇっ!」
着地の反動でそんな声が漏れる。
彼は、ヨロヨロと虎の背から降りると、ゼイゼイと肩で息をしながら虎の鼻っ柱をひっぱたいた。
『痛いではないか』
「お前は!飛べるって言ったじゃねぇか!」
『飛んだであろう』
「アレはジャンプ!飛び上がっただけだ!」
『何が違うのだ』
「……あーもう!」
確かに「飛べ」としか言わなかったし、どう捉えるかは虎の理解力に賭けるしかなかったのだから、これはもう仕方がないかと、彼はため息をつく。
ともかく、現場からは離れることができたのだから良しとしよう。
一息ついて、今度こそ家に帰るべく一歩踏み出したその時だった。
「あ、れ?」
ぐにゃりと視界が歪み、暗転。
そのまま彼はその場に倒れた。
◆
『主様』
突如、頭の中に昼間のあの龍の声が聞こえて、彼は眉根を寄せた。
家に帰ってから小一時間ほど。
夕食を済ませた彼は、翌日の学校の準備をしていた。
なんの事はない。
他にやることが思い浮かばなかったのだ。
そこに人外から声をかけられ、彼は明らかに不機嫌になった。
無視を決め込み作業をすすめる。
が、
『主様。白虎の主が倒れました』
そう言われて思わず手を止め、カバンに入れたままになっていた玉を取り出す。
「どういう事?」
『今、白虎……白秋から連絡が入りました。至急助けて欲しいと』
「それは本当なのか?」
『真でございます。私どもは嘘をつけるようには出来ておりません』
「何があった?」
『わかりません。とにかく白秋も混乱しているようで、助けてとしか……』
「場所は?」
『申し訳ございません。私は契約がなければ外の情報を知り得ないのでございます。外の情報がわかるようになれば、玉同士の場所も把握できるのですが……』
「お互い念話はできるのに?」
『覚醒していればそれは可能なのです。他の者たちは契約したのでしたね。彼らに助力を求めますか?』
「……ちっ」
そこまで話して思わず舌打ちをする。
理由はどうあれ、倒れた清司をあの二人に任せるのは宜しくない。
清司とは、小学校一年時からの付き合いだが、時折化け物の類に襲われたり、その気に当てられたりして具合が悪くなったり、倒れることがあった。
別に虚弱体質ということではなく、本人いわく倒れる時は本当にいっぺんに視界が暗転して、気がついたら倒れているのだという。
その後は決まって体調を崩していた。
今回も恐らくそれだろう。
最近めっきり減っていたから失念していた。
彼は珍しく、苛立ちも顕に手にしていた玉を叩きつけるように机に置くと、
「お前の名前は、「
そう言った。
瞬間、部屋が埋まるほどの大きさの青い龍が姿を現し、
『承りました。只今より、私は蒼春として、主の御身に仕え、共にあることを誓います』
言いながら深々と頭を垂れた。
「すぐに準備して出る。お前は玉に戻れ。念話で場所だけ教えろ」
『御意』
彼は着替えもそこそこに上着を引っ掴むと、飛び出すように家から出て駆け出した。
◆
「キミは、毎日会いに来てくれる?」
「うん」
「約束だね」
「うん。やくそく!」
幼い頃。
見知らぬ年上の少女と交わした約束があった。
◆
今にも雨が落ちてきそうな曇天の下。
その日も彼は、家から少し離れたその公園で一人遊んでいた。
家の近くにも公園はあるが、近所の子供たちは皆、彼を気味悪がってまともに遊ぼうとはしない。
彼の目には、生まれたときから人には見えないモノが映っていた。
両親は朗らかな性格の持ち主で、そんな彼を気味悪がることも無く、普通の子供として育てていたため、自分が見えているものが他の人にも見えていると信じ、それが当たり前と思っていた。
幼稚園に入り、自分が他の子供とは違うということを自覚してからは、目に見えるモノを他の人に伝えるということをしなくなっていた。
守ってくれていた祖父の影響が無くなってからは、他の人には見えない世界の住人からちょっかいを出されることも多く、その度に反応してしまったり、何もないところで怪我をしたりを繰り返していた彼は、いつしか幼稚園や近所の子供たちの中でも浮いた存在になってしまっていた。
その結果、こうして一人、家から離れた場所にある公園まで遠征してきているのだった。
ここなら人目を気にせず思いっきり遊ぶことができる。
ひとり遊びに慣れていた彼は、誰もいないことをいいことにブランコを独り占めしたり、アスレチック遊具で楽しんでいたが、とうとう雨が落ちてきた。
濡れないようにと、とりあえずドーム型の遊具の中に入り込む。
と、そこには先客がいた。
「わ!びっくりした」
「驚かせちゃった?ごめんね」
暗がりに馴染むように、さして広くもない遊具の内側の隅に、一人の少女が膝を抱えて座っていた。
まだ幼い彼には、制服を着た姿の彼女がとても大人に見えた。
「えっと。おねえさんは、どうしてここにいるの?」
驚いて跳ねた鼓動も落ち着いた頃、外の雨も気になったが、そのまま黙っていることにも耐えられなくなり、そう尋ねる。
内心、彼女が自分にしか見えていない人だったらどうしようかという不安もあったが、話しかけずにはいられなかった。
公園の遊具の、それも小さな自分が潜り込むような穴ぐらに、自分よりもずいぶんと年上の少女がいるのは、子供ながらに不思議に思ったのだ。
外は雨脚が強くなり、遊具の中は先程よりも薄暗くなった。
「うーん。そうだよね」
少女は少し考えると、
「ここなら、見つからないかなって思ったんだ」
そう言って少し困ったような笑顔を見せた。
「かくれんぼ?」
首を傾げながら問うと、少女はまた困ったような笑顔で答える。
「そうだね」
「そと、おれしかいないよ?」
「そっかー。みんな雨降ってきたから帰っちゃったかなぁ」
「じゃあ、ひとりぼっち?」
「そうだね」
「さみしい?」
「今はキミがいてくれるから寂しくないよ」
「そっかー。よかったね」
少女の優しい返答に、無邪気に言ってにかっと笑うと、彼女もつられて笑い声をもらす。
「フフッ。ぼく、お名前は?」
「おれ?やなぎやせいじ!ごさい!」
先程の不安など吹き飛んでしまった彼は、元気よく言って手を広げてみせる。
「おねえさんは?」
「私?
「ミカさん」
「ミカお姉ちゃんでいいよ」
「ミカおおねえちゃんは、あしたもここにくる?」
「毎日来るよ」
「ホント⁉」
「うん」
「じゃあ、おれもまいにちくる!」
雨の中、そんな会話を交わし、どちらからとも無く指切りをする。
肌寒い中でも、触れた指はあたたかく、確かに生きた人のぬくもりだった。
外は雨脚も弱まり、少し空も明るくなっていた。
「そろそろ帰らないと、おうちの人心配するんじゃないかな?」
「うん」
「また明日ね」
「うん!バイバイ!」
「バイバイ」
まだこうしていたい気持ちはあったが、互いに手を振り合って、その日は別れた。
以降、この公園で二人は毎日のように遊んですごす。
幼い清司にとって、当時唯一の遊び相手で、それはずっと続くものと、彼は疑わなかった。
◆
風邪をこじらせてしばらく外で遊べなかった日が続いたが、それが解禁されたとある日。
いつものように公園に行くと、そこにはいつもは居ない大人達で人だかりが出来ていた。
近くにはパトカーと救急車も停まっており、公園の入り口は黄色いテープで出入りができないようになっており、物々しい雰囲気だった。
公園の端にある木の周りはブルーシートで覆われていて、そこに何があるのかは彼からは見えない。
「ごめんね」
何が起こっているのか理解できず、一人立ち尽くしていると、耳元にいつもの少女の声がして、
「ミカおねえちゃん?」
つぶやくように言って振り向くと、そこには首が不自然に伸びた、歪んだ顔の少女の姿があった。
あまりの姿に何も言えず、ひゅっと息をのんだ。
そこからの記憶はない。
以降、彼がその公園に近づく事はなかった。
心の奥底にしまわれた、幼い頃の記憶。
◆
「ごめんね」
少女の声。
気がつくと、公園によくあるブランコに揺られていた。
隣には顔が黒く塗りつぶされたように見えない少女が、やはり同じくブランコに揺られている。
何を謝ることがある?
「こんな事になるなんて思わなかった」
こんな事……?
「君がまた来てくれるとも思ってなかったから、うれしくて……」
前に会ったことあったっけ?
「忘れちゃったよね」
……ごめん。
「いいの。私が悪いの。私が嫌になって、諦めちゃったから」
諦めた?何を……
『——るじ!』
あ?何だこの声
『目を覚まされよ!』
うるさいな……
「……戻ったほうがいいね」
そうかな?
「私を……——てくれて、ありがとう」
え?
◆
『主‼』
「う……」
気がつくと、そこは先程虎に乗って降り立った空き地だった。
どうやら気を失っていたらしい。
『ぐすっ……あるじぃ……』
声の主を見ると、そこには虎ではなく、子供が涙をいっぱいに浮かべて地面に手をつき、顔をのぞき込んでいた。
人の姿にもなるのかと、心の中で感心する。
「呼んでたの……お前か」
言いながらゆっくりと起き上がった。
気分は最高潮に悪い。
何なら今にも吐きそうだ。
それを知ってか知らずか、子供はひしっと清司にしがみついてきた。
『主……死んでしまったかと……思って……ぐすっ』
「……誰が……死ぬか」
かすれた声でそう言いつつも、具合が悪い事には変わり無く、その場で再び仰向けに寝転がる。
空はすっかり日が暮れて、街灯の明かりがわずかに届く程度のこの空き地は、人通りもなく、よほど騒ぎでもしない限り、休むにはちょうどよい場所だった。
このまま少し回復するまで。
せめてこの、目が回る感覚が落ち着くまで休んでもいいか。
そう思い目を閉じるが、
『主ぃ!死んではならぬぅ~!主ぃ~!』
そう言いながら子供がベしょべしょになった顔をこすりつけながら更に泣くものだから、仕方なく起き上がり、頭を撫でてやる。
「だから……俺は、死なねぇって」
これではとても休まらない。
泣きやまない子供をよしよしと慰めていると、こちらに近づいてくる足音に気がついた。
とたん、子供ははっと顔を上げ、虎の姿に変わり、空き地の入り口に向かって立つと、毛を逆立てる。
どうやら守ろうとしてくれているらしいが、人間相手にそれは必要ない。
「白秋、大丈夫だ。玉に戻れ」
『しかし』
「いいから……お前が見られたほうが、騒ぎになって大変だ……戻れ」
そこまで言うと、ようやく白秋は逆立てた毛を落ち着かせ、シュッと消えた。
普通の人間の目に見えるのかどうかはさておき、この虎には、色々と物事を教えたほうが良いような気がする。
さて。テンポのいい駆け足で近づいてくる足音は、空き地の前でピタリと止まった。
「ここで間違いないな」
誰かと通話でもしているのだろうか。
そんなことを言いながら空き地に入ってきた。
声は聞き馴染みのあるもので、彼は足音の主の名前を呼ぶ。
「太壱、か?」
「清司!大丈夫か、何があった?」
そう言って駆け寄ってきた太壱は、よほど急いで来たのだろうか。
珍しく息が上がっていた。
「どうして……ここに?」
「お前、玉と契約したろ。おれの玉が教えてくれた」
「なんだ……つー事は、お前も、契約したのか……」
「ああ。とにかく、お前の家まで行くぞ。立てるか?」
言いながら手を引き、立ち上がるのを手伝ってくれる。
「悪いな」
そう言いながら素直に肩を借り、ゆっくりと歩き始めた。
「公園でな……子供が遊んでたんだ……こんな時間に……」
ぽつりぽつりと、歩きながら、先までの出来事を話し始める。
肩を貸す太壱は黙って聞いていた。
「……あの公園……俺、近寄らないように……してた……」
現に今日まであの公園に足を踏み入れることはなかったのだ。
「首吊りがあった、曰く付きの公園なんて……何があるか……」
独り言のように、話を続ける。
「でも、今日……行って、わかった……」
胸が締め付けられるのを感じる。
「あそこで……ガキの頃……大事な人が、死んだんだ……」
夢に現れた少女の、最後の言葉を思い出す。
「……その人を……消したかも……しれない」
胸の締め付けが、更に強くなった。
彼女が何を言ったのか。ようやく理解する。
「……俺は、彼女を……成仏もさせずに……消したのに……『ありがとう』って……」
言いながら、膝から力が抜け、太壱の肩からずり落ちるように、その場にへたり込んだ。
太壱も合わせるかのように、その場にしゃがむ。
清司の目には、いつの間にか涙が滲んでいた。
「なあ、太壱……」
「うん」
「俺……人間を……人を消滅させたのかなぁ」
「………………」
涙声になりながら、心の中でわだかまる思いを吐き出し、ただ地面を見つめる。
太壱は黙って、清司を見つめていた。
そして、
「……お前が手に入れた『消滅』の力のこと、玉にきちんと聞くべきだと思う」
いつもよりも静かに。言い聞かせるようにそう言った。
清司はその言葉に無言で頷き涙を拭うと、再び太壱の肩を借り、歩き始めた。
◆
家につくと、鬼の形相の母親が、帰りが遅くなった清司を迎えたが、彼の満身創痍の状態を見て、すぐに状況を理解したのか、自室で寝るよう言い渡された。
怒られなかったのはありがたいが、心配させてしまったようだ。
申し訳ないと思いつつ寝間着に着替えると、ベッドに横たわる。
あの後太壱は玄関前で別れ、再び走って家に帰っていった。
あいつが怒られないといいのだが。
と、そんな心配はさておき。
眠ってしまう前にやらねばならないことがある。
白秋と名付けた虎に、よくよく話を聞かなければならない。
清司は重い体を無理やり起こし、明日の準備を手短に済ませると、玉を手に、ベッドに腰を下ろした。
「白秋」
『はい』
清司の呼びかけに、玉が仄かに光るとともに声が聞こえる。
「お前の、『消滅』の力について、いくつか質問をする。詳しく聞かせろ」
『御意』
「まず、『消滅』ってのは何だ?そのままの意味か?」
『左様。先にも申し上げたが、この世のありとあらゆる「物」、「事」を『消滅』させる術である』
「……その『消滅』させたものはどうなる?」
『この世から、存在ごと消え去る。「物」を斬ったのなら存在しなかったことに。「事」を斬ったのなら無かったことになる』
「じゃあ、今日俺が斬ったのはどうなった?」
『木に宿っていたあのモノは無かったことになった』
「……なかったことになるなら、俺が今こうして覚えているのはおかしくないか?」
『それは、主の魂に『存在の譲渡』が行われるからである』
「何だその『存在の譲渡』って?」
『『消滅』を使うことは万物の理の矛盾の発生を意味する。それを防ぐためのものだ』
「…………?」
『一つの「物」がなかったことになるとき、そこに関わった他の「物」や「事」もなかったことになってしまう。そうするとありとあらゆる事象に矛盾が生じ、やがて世界は崩壊——』
「まてまてまて!段々と話がでかくなってきてないか⁉」
『それを防ぐための『存在の譲渡』である』
「そ、そうか……」
そこまで聞いて、ことの重大さに頭を抱える。
まさかここまででかい話になるとは思いもよらない。
しかし、使ってしまったものは仕方がない。
白秋の話では『存在の譲渡』とやらで、その矛盾が防げるのだから、なんとかなるのだろう。
どんなものかは知らないが、腹を括るしかなさそうだ。
「よし、わかった。じゃあその『存在の譲渡』ってのはどうすりゃできる?」
『眠れば良い』
「は?」
『眠れば、『消滅』させたモノの情報が夢を介して主の魂に直接刻み込まれる』
「夢見りゃいいってことか?」
『そういうことだ』
「……わかった」
そういうと玉の光はおさまった。
清司は随分単純なものだなという感想を胸に、枕元に玉を置くと、目覚ましをセットし、部屋の電気を消すとベッドに潜り込んだ。
そのまま目を閉じる。
今日は色々なことがありすぎた。
清司は考えるのをやめ、襲ってくる睡魔に身を委ねた。
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