第18話
偽りの喝采は、もう止んだ。
ここからは、俺たちの時間だ――。
その言葉は声にはならなかった。
だが、隣に座る寧々には、確かに伝わったはずだった。
彼女の小さな手が、暗闇の中でそっと優のブレザーの袖を掴む。
冷たい指先が、彼の内に燃える熱を確かめるように。
ふっ、とホールの照明が完全に落ちる。
瞬く間に訪れた完全な闇が、直前までの喧騒を嘘のように呑み込んだ。
観客たちの息を呑む気配だけが、濃密な空気の中を漂っている。
カタ、カタカタ……。
古めかしい映写機の駆動音が、張り詰めた静寂を優しく震わせた。
それは最新のデジタル上映機からは決して生まれ得ない、どこか懐かしく、温かい機械の吐息。
そのノスタルジックな響きに、観客席のあちこちから、微かなざわめきが起こる。
戸惑い、期待、そして何かに気づいたような囁きが、波紋のように広がり、やがて息を呑む静寂へと収束していく。
やがて、フィルムが回り、レンズを通して一条の光が闇を切り裂いた。
光は真っ直ぐにスクリーンへと到達する。
そこに映し出されたのは、無数の傷やゴミが走る、ざらついた質感の映像だった。
まるで古い記憶を無理やり引き出したかのような、不完全で、けれど確かな手触りのある光の粒子。
そして、黒い背景に、白い手書きの文字が静かに浮かび上がる。
『光の在り処』
優と寧々、二人だけの映画が、静かに始まった。
◇
最初に映し出されたのは、見慣れた田舎町の風景だった。
朝靄のかかった河川敷。
錆びついた鉄橋を渡る、単線の電車。
誰もいないバス停と、ひび割れたアスファルトから顔を出す雑草。
親友――影山が撮った、AIによる完璧な空撮映像とは正反対の、どこまでも地面に近い視点。
手持ちカメラの微かな揺れが、まるでそこに立って呼吸をしているかのような生々しさを伝えてくる。
客席の前方で、影山は腕を組み、鼻で笑った。
「なんだ、これは。ただの風景記録か?」
技術も何もない、素人のホームビデオじゃないか。
手ブレ補正すらまともにかけていない。
こんなものが映画と呼べるか。
AIが構築する緻密な世界に比べれば、あまりにも、あまりにも粗雑だ。
彼の隣で、日葵はじっとスクリーンを見つめていた。
その風景は、彼女もよく知っている場所だった。
優とデートで歩いた河川敷。
二人で乗り遅れた最終バスのバス停。
けれど、スクリーンに映るそれらは、彼女の記憶の中にある風景とはまるで違って見えた。
優のレンズを通した世界は、何気ない風景の一つ一つに、物語が宿っているようだった。
光の捉え方が、影の落ち方が、あまりにも優しく、そして切ない。
やがて、一人の少年がスクリーンに現れる。
少しうつむき加減で、分厚い本を小脇に抱え、世界から自分だけが切り離されているかのような表情で歩いている。
それは役者が演じているのではなく、優自身の戸惑いや孤独が、そのまま投影されたかのような青年だった。
そして、彼とすれ違う一人の少女。
黒い髪を揺らし、大きな瞳で世界をじっと観察している。
誰とも視線を合わせようとしないのに、その瞳は誰よりも多くのものを見ている。
彼女もまた、この世界にうまく馴染めないでいるようだった。
二人はただ、すれ違うだけ。
言葉も交わさない。
だが、その一瞬、カメラは少女が落とした一枚のスケッチブックを捉える。
風に舞い、道端の草むらに落ちるそれを、少年は気づかない。
観客席は静まり返っていた。
派手な展開も、気の利いた台詞もない。
ただ、孤独な魂が二人、同じ町に存在している。
その事実だけが、淡々と、しかし丁寧に描かれていく。
影山は苛立ち始めていた。
退屈だ。
意味がわからない。
こんな自己満足な映像を、観客が評価するはずがない。
だが、彼の周囲の空気は、そうではなかった。
誰もがスクリーンに釘付けになっている。
前のめりになり、息を殺して、二人の運命を見守っている。
それは、影山の映画が上映されていた時とは明らかに違う、熱のこもった集中力だった。
物語は進む。
少年が主宰する小さな映像サークル。
彼は理想に燃え、仲間たちに熱く語る。
だが、その情熱は空回りし、やがて彼は裏切られる。
そのシーンに、残酷なまでに具体的な台詞はなかった。
PCの画面に映し出されていたのは、自分ではない誰かと、楽しげに笑い合う恋人の顔だった。
モニターの冷たい光が、その明るい表情を無情に浮かび上がらせる。
少年は、ただその光景を、背中を丸めて見つめていた。
やがて、その肩が小さく震え始める。
音が消え、ただ少年の、絶望に満ちた呼吸だけが響く。
「……っ」
日葵は、思わず息を詰めた。
喉の奥から、乾いた嗚咽が漏れそうになる。
あれは――あの背中は、優だ。
私が、彼の部室のドアを開ける直前、あの日、彼が一人で抱え込んでいた絶望の輪郭が、まざまざとスクリーンに焼き付いている。
見て見ぬふりをしてきた、いや、見ようともしなかった彼の痛み。
それが今、巨大な光の塊となって、逃げ場なく彼女の心臓を抉る。
違う。
こんな、こんな顔を、彼にさせていたなんて。
私は彼を、ただ理屈っぽくて退屈な男だと決めつけ、自分の気持ちばかりを優先していた。
彼の言葉を、彼の想いを、本当に理解しようとさえしなかった。
一番分かっていなかったのは、私の方だったのだ。
脳裏に、ふと、遠い日の記憶が蘇る。
雨上がりの校舎裏で、優が目を輝かせて、小さなデジタルカメラを構えていた。
「見て、日葵。水たまりに、空が映ってるんだ」
彼は無邪気な子どものように笑い、ファインダーを覗き込んでいた。
その横顔には、まだ、あの絶望の影などなかった。
別の時。
カフェで、彼が熱っぽく語っていた。
「物語っていうのは、誰かの心に光を灯すものだ。完璧じゃなくていい。不器用でもいい。大切なのは、本物の光を捉えることなんだ」
私は、彼の言葉を、ただの青臭い理想だと笑っただろうか。
いや、違う。
あの時、確かに私も、彼の熱に触れて、心が躍っていたはずだ。
いつから、私たちはすれ違ってしまったのだろう。
涙が、日葵の頬を伝った。
隣に座る影山は、スクリーンの中のドラマと現実が繋がっていることなど知る由もなく、ただ「陳腐な失恋話か」と心の中で吐き捨てている。
その温度差が、日葵をさらに孤独にさせた。
映画の中の少年は、全てを失い、自室に引きこもる。
部屋は暗く、彼の顔には光が当たらない。
世界から拒絶されたかのように、彼は闇に沈んでいく。
その時だった。
コン、コン、とドアをノックする音が響く。
少年は無視する。
しかし、ノックは続く。
やがて、ドアの隙間から、一通の封筒が差し入れられた。
中には、一枚のスケッチ。
それは、かつて少女が落としたスケッチブックに描かれていたものと同じタッチで、光が差し込む窓辺に置かれた、一台の古い8ミリカメラが描かれていた。
そこから、物語は静かに色を取り戻し始める。
少年と少女は、再会する。
二人は言葉少なだが、カメラを通して心を通わせていく。
少女がファインダーを覗くと、世界は少しだけ輝いて見えた。
少年が彼女にレンズを向けると、今まで撮れなかったはずの、生きた表情がそこにあった。
「……すごい」
客席のどこかから、そんな囁きが漏れた。
それは、誰か一人の感想ではなかった。
ホール全体が、同じ感情を共有し始めていた。
審査員席に座っていた、白髪の老監督が、そっと眼鏡を外し、ハンカチで目元を拭った。
彼は、商業主義に傾いた現代の映画界に長年苦言を呈してきた、伝説的な人物だった。
その彼が、この無名な高校生の、荒削りな映画に心を揺さぶられている。
影山はその光景を信じられないものを見る目で見ていた。
なぜだ。
なぜ、こんなものが。
何が、人々をこれほど惹きつけるのか。
完璧なAIが計算し尽くした映像美。
データに基づいた緻密な物語構成。
それこそが『正しい』映画の姿のはずだ。
手ブレ一つまともに補正できない、感情のノイズでしかない不完全な映像に、なぜ、人は心を動かされるのか。
理解できない。
理解したくもない。
俺の映画の方が、技術は上だ。
映像は美しい。
物語だって、もっと分かりやすく感動的に作ったはずだ。
なのに、なぜ。
彼の疑問に答えるかのように、スクリーンでは二人が撮った映像がインサートされる。
朝露に濡れる蜘蛛の巣。
雨上がりの水たまりに映る空。
猫のあくび。
AIが生み出す壮大な風景ではない。
どこにでもある、日常の断片。
しかし、そこには確かな「発見」があった。
作り手の感動があった。
世界はこんなにも美しいのだという、静かな、しかし力強い主張が満ちていた。
そして、日葵は気づいてしまった。
影山の映画では、自分は「被写体」だった。
美しく撮られるための、お人形だった。
だが、この映画に映る少女は違う。
彼女は、「作り手」だった。
少年と共に世界を発見し、物語を紡ぐ、対等なパートナーだった。
自分が欲しかったのは、本当はどっちだったのだろう。
ただ綺麗だと褒めそやされることか。
それとも、誰かと一緒に、一つの物語を創り上げることだったのか。
答えは、もう分かりきっていた。
映画は、クライマックスへと向かう。
二人は、自分たちの小さな映画を完成させ、小さな上映会を開く。
観客は数人しかいない。
上映が終わった後、少年は少女に向き直る。
そして、初めて、心からの笑顔を見せるのだ。
それは、作品が評価された喜びだけではない。
絶望の淵から自分を救い出してくれた、隣にいるかけがえのない存在への、感謝と、愛情と、全ての感情が込められた、ありのままの笑顔だった。
その笑顔のアップで、スクリーンは満たされる。
ざらついた映像の中で、その笑顔だけが、どんな高精細な映像よりも鮮やかに、観客の心に直接焼き付いた。
ホールは、完全な静寂に包まれていた。
先ほどまでの静寂とは違う。
誰もが息をすることを忘れ、感情の奔流にただただ打ちのめされている。
あちこちから、嗚咽が聞こえる。
鼻をすする音だけが、闇の中に響いている。
優は、隣の寧々の手がいまだに自分の袖を掴んでいることに気づいた。
見ると、彼女の肩が小さく震えている。
スクリーンに映る光を反射して、その瞳に涙が浮かんでいるのが分かった。
それは、自分たちの物語だった。
自分たちの痛みが、希望が、祈りが、そこにはあった。
それはもう、二人だけのものではない。
今この瞬間、このホールにいる全ての人々の心に届き、彼らの物語にもなろうとしていた。
ぷつり、と音がして、スクリーンが白く光り、そして暗転した。
エンドロールが流れ始める。
監督 天音 優
脚本 相葉 寧々
撮影 天音 優 相葉 寧々
編集 天音 優 相葉 寧々
主演 …………
役者の名前がいくつか並んだ後、最後にもう一度、二人の名前だけが大きく映し出される。
協力してくれた数人の友人を除けば、本当に、たった二人だけで作り上げた証。
やがて、エンドロールが終わり、ホールに再び明かりが灯り始めた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、完全な無音が支配した。
次の瞬間、その静寂を破壊するように、一人の観客が立ち上がって拍手をした。
それが合図だった。
堰を切ったように、嵐のような拍手がホール全体から巻き起こった。
それは、影山の映画が終わった後の、儀礼的な拍手とは全く違うものだった。
スタンディングオベーションをしながら、涙を流しながら、心の底からの賞賛と感動を伝えようとする、熱狂的な喝采。
「ブラボー!」
「最高だったぞ!」
そんな叫び声までが、あちこちから飛んでくる。
影山は、その光景を呆然と見つめていた。
理解が追いつかない。
何が起きたのか分からない。
彼の足元で、彼が信じていた「売れる映画」の理論が、音を立てて崩れ落ちていく。
完璧な映像美が、AIによる物語構成が、何の価値も持たないかのように、人々の熱狂に踏み潰されていく。
彼が信奉してきたものが、根底から否定された瞬間だった。
日葵は、もう前を見ることができなかった。
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
スクリーンに映っていたのは、優と、彼の新しいヒロインの物語。
そしてそれは、自分が主役の座を自ら降り、脇役ですらなくなった、別の物語の残酷な結末でもあった。
エンドロールに、自分の名前はなかった。
当たり前だ。
私は、彼の物語から、とっくに退場していたのだから。
鳴りやまない拍手と喝采の渦の中で、優は隣の寧々を見た。
寧々も、優を見ていた。
彼女の瞳は涙で濡れていたが、その表情は、今まで優が見たどんな顔よりも美しく、力強く輝いていた。
「……届きましたね、先輩。私、ずっと、この時を信じていました」
寧々が、震える声で言った。
「ああ……届いたよ、寧々。君と、だからだ」
優は、こみ上げてくるものを抑えながら、力強く頷いた。
もう、裏切り者たちのことなどどうでもよかった。
彼らがどう感じようと、関係ない。
俺たちは、俺たちの物語を語った。
そして、それを受け止めてくれる人たちが、ここにいた。
それだけで、十分だった。
優は寧々の手を、今度はそっと、しかし強く握り返した。
二人は見つめ合い、どちらからともなく、微笑んだ。
それは、映画のラストシーンで少年が少女に向けた笑顔と、全く同じ笑顔だった。
偽りの物語は終わりを告げ、本物の光が、今、確かに二人を照らしていた。
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