第15話

 ガチャリ、と鍵の掛かる音が、やけに大きく部屋に響いた。


 優は玄関のドアに背を預ける。

 しばし目を閉じ、冷たい金属の感触が昂った神経をわずかに鎮めてくれるのを待った。


 外では依然として雨が激しくアスファルトを叩いている。

 その音に混じって、先ほどまで此処にいたはずの誰かの気配が、完全に洗い流されていくようだった。


 もう、振り返らない。


 日葵との物語は、確かに今、この手で終わらせたのだ。

 エンドロールは流れた。


 観客は自分一人。

 あまりにも寂しい上映会だったが、それで良かった。


 深く、息を吐く。

 肺の底に溜まっていた澱んだ空気が、全て吐き出されていくのを感じた。


 優は顔を上げ、リビングへと続くドアに目を向けた。


 ドアの隙間から漏れる、PCモニターの青白い光。

 その光の中には、彼の「今」が、そして「未来」が待っている。


 過去に浸っている暇など、一秒たりともなかった。


「……悪かったな、待たせて。少し、手間取った」


 リビングに戻ると、相葉寧々はヘッドフォンをつけたまま、タイムライン上の映像クリップを睨みつけていた。


 優の声に気づき、ゆっくりとヘッドフォンを首にかける。


「……先輩。……大丈夫、ですか?」


 その問いは、先ほどの来訪者のことを指しているのだろう。

 寧々の真っ直ぐな瞳には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。


「ああ、もう大丈夫だ。……それより、早く終わらせないと、な」


 優は努めて明るい声を出し、寧々の隣の椅子に腰を下ろした。


「それより、どうだ? 音の繋がりは」


「……はい。ここの環境音、もう少しだけレベルを下げた方が、次のシーンの静寂が際立つかと」


 寧々はすぐさま創作の世界に意識を戻し、マウスを操作する。

 そのプロフェッショナルな切り替えの速さに、優は内心で救われていた。


 彼女は余計な詮索をしない。

 ただ、共に創るべき作品のことだけを、まっすぐに見据えている。


 モニターには、雨上がりの河川敷を歩く少女の後ろ姿が映し出されていた。

 寧々が演じる主人公だ。


 その背中には、喪失と、それでも前を向こうとする微かな希望が同居している。


 それは、優と寧々、二人自身の物語でもあった。


 映画祭のオンライン提出締め切りは、明日の午前9時。


 残された時間は、もう十時間を切っていた。


 ここからが、最後の戦いだ。

 サウンドミックス、カラーグレーディング。作品に魂を吹き込むための、最も繊細で過酷な工程が残されている。


「よし、やろう! 俺たちの映画を、絶対に完成させるぞ!」


「……はいっ」


 寧々の短い返事に、確かな熱が宿る。


 二人は再びモニターに向き合った。

 部屋に響くのは、クリック音と、キーボードを叩く音。そして、窓を叩く雨音だけ。


 外の世界で誰が泣いていようと、もう関係なかった。

 この部屋の中だけが、二人の世界の全てだった。


 ◇


 時計の短針が、午前四時を指そうとしていた。


 窓を叩いていた雨音は、いつの間にか弱々しい響きに変わっている。

 部屋の中には、インスタントコーヒーの香りと、二人の人間の熱気が満ちていた。


「ここのカット、もう少し青に寄せたい。夜明け前の、冷たい空気感を出したいんだ」


 優はマウスを握り、カラーホイールを微調整する。

 画面の中の風景が、ほんのわずかに色味を変えた。


 暖かみのあるオレンジが削られ、澄んだブルーが差し込まれていく。


「……やりすぎると、不自然になります。人の肌の血色まで失われる」


 隣で見ていた寧々が、静かに指摘する。

 彼女の目は、優が見落としがちな細部を的確に捉えていた。


「分かってる。ギリギリのラインを攻めたいんだ。感情の冷えと、世界の美しさの対比を――――」


 言葉は途切れ途切れだった。

 思考の速度に、口が追いつかない。


 何十時間もモニターと向き合い続けた瞳は、焼けるように熱い。

 カフェインで無理やり繋ぎ止めた意識は、時折、深い霧の中に沈みそうになる。


 だが、やめられない。

 やめるわけにはいかなかった。


 これは、ただの復讐劇ではない。


 日葵と、あの親友が作った「偽物」の傑作を上書きするためのものでもない。


 いつからか、この映画は、優と寧々、二人のためのものになっていた。


 失われた言葉。誰にも届かなかった想い。踏みにじられたプライド。


 その全てを拾い集め、繋ぎ合わせ、自分たちの手で肯定するための行為。

 それが、この映画制作だった。


 ファインダー越しに見た、寧々の生き生きとした表情。


 脚本に行き詰まる優に、彼女が語ってくれた過去の痛み。


 二人で食べたコンビニの弁当の味。


 撮影中に見た、夕焼けの美しさ。


 その全てが、フィルムに焼き付けられている。

 AIには決して生成できない、手触りのある真実として。


「……先輩」


 寧々の声で、優は我に返った。


「ここのシーンの台詞。やっぱり、彼女は何も言わない方がいいと思います」


 彼女が指差したのは、クライマックスの直前。

 主人公の少年が、ヒロインに自分の過去を打ち明けるシーンだった。脚本では、ヒロインが慰めの言葉を返すことになっていた。


「でも、それじゃ彼の告白が宙に浮かないか?」


「……言葉は、時々、安っぽくなる。本当に心が動いた時、人は何も言えなくなるはずです」


 寧々は、自分の経験を語るように言った。


「ただ、隣にいる。それだけで、救われることもある。このヒロインは、そういう優しさを持ってる子だから」


 優は、モニターの中のヒロインと、隣にいる寧々の姿を重ねて見た。


 そうだ。彼女はずっとそうだった。


 絶望していた俺の隣に、ただ、静かに立っていてくれた。

 多くを語らず、ただ、その存在で示してくれた。


 君は一人じゃない、と。


「……分かった。その台詞、カットしよう」


 優はタイムライン上の音声データを、迷いなく削除した。


 無音になった数秒間。


 その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に、登場人物たちの絆の深さを物語っているように見えた。


「……よし。これで、全部だ」


 午前六時。


 全ての編集作業を終え、優は呟いた。


「あとは、書き出しだけだな」


 最終的な映像データとして出力する、レンダリングという作業。

 一度始めれば、もう後戻りはできない。


 優は寧々の方を見た。

 彼女もまた、緊張した面持ちで優を見つめ返している。


「いいか?」


 寧々は、こくりと力強く頷いた。


 優はエンターキーに指を置く。

 一瞬の逡巡の後、祈るように、強く、キーを押し込んだ。


 画面に、プログレスバーが現れる。


 0%。


 それは、ゆっくりと、しかし着実に、右へと伸びていく。

 1%、2%……。


 二人は言葉もなく、その光の帯を見守っていた。


 心臓の音がうるさい。


 この数週間、自分たちが積み上げてきた全てが、今、一本の映画になろうとしている。


 それはまるで、新しい命の誕生に立ち会っているかのような、神聖な時間だった。


 50%を越え、70%を越え……。


 99%の表示で、バーの進みが一度、止まったように見えた。


 息を呑む。


 永遠のようにも思えた数秒の後。


 画面に、ポップアップが表示された。


『レンダリングが完了しました』


 その無機質な文字列を見た瞬間、全身の力が、ふっと抜けていく。


「……終わった」


 優が、かすれた声で言った。


「……終わりましたね」


 寧々が、震える声で応える。


 長い、長い沈黙。


 そして、どちらからともなく、笑いがこぼれた。


「はは……」


「……ふふっ」


 乾いた、しかし心の底からの笑い声だった。


 優は、衝動的に右手を差し出す。

 寧々は一瞬きょとんとしたが、すぐにその意図を理解し、おずおずと自分の右手を重ねた。


 パチン、と乾いた音が響く。


 初めての、ハイタッチだった。


 触れた手のひらは、少しだけ冷たかったけれど、確かに温かかった。


 その瞬間、猛烈な疲労と眠気が、津波のように優を襲った。

 アドレナリンが、ついに尽きたのだ。


「……少し、休むか」


「……はい」


 寧々の返事も、どこか夢見心地だった。


 優は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰ぐ。

 瞼が鉛のように重い。


 もう、動けなかった。


 意識が途切れる寸前、隣で寧々がソファに身を沈める気配を感じた。


 それでいい。


 よく、頑張った。


 二人とも。


 優の意識は、静かな闇の中へと沈んでいった。


 ◇


 どれくらい眠っていただろうか。


 ふと意識が浮上し、優はゆっくりと目を開けた。


 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。

 朝日だ。


 雨は、完全に上がっていた。


 体を起こすと、首筋がギシギシと痛む。

 椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。


 隣のソファに目をやり、優は息を呑んだ。


 相葉寧々が、小さな体を丸めるようにして眠っていた。


 規則正しい寝息が、静かに聞こえる。

 普段は固く結ばれていることの多い唇が、今はわずかに開いている。

 長い睫毛が、白い頬に影を落としていた。


 いつも纏っている、他者を寄せ付けないような鎧が、今はどこにもない。


 そこにはただ、疲れ果てて眠る、一人の少女の無防備な姿があった。


 優は、その寝顔から目が離せなかった。


 自分が彼女に救われたのだと、改めて実感する。


 あの時、部室に置き忘れたカチンコを、彼女が届けに来てくれなかったら。


「先輩の撮りたいものを、私と作りませんか」


 あの言葉がなかったら、自分は今頃、どうなっていただろう。


 きっと、自室に引きこもり、過去の映画の知識をなぞるだけの、空っぽな人間になっていたに違いない。

 日葵と親友への憎しみを燻らせながら、腐っていくだけだっただろう。


 彼女が、もう一度カメラを握らせてくれた。


 彼女が、俺の撮るものを信じてくれた。


 彼女の鋭い感性が、俺の独りよがりな創作を、本物の物語へと昇華させてくれた。


 彼女がいたから、俺は、また前を向けたんだ。


 窓の外が、明るさを増していく。


 部屋の隅に、脱ぎっぱなしになっていた自分の学生服のブレザーが目に入った。


 優は静かに立ち上がり、それを手に取る。

 そして、眠る寧々の体に、そっとかけた。


 起こさないように。


 この安らかな眠りを、邪魔しないように。


 言葉にならない、温かい感情が胸を満たしていた。


 朝日に照らされた寧々の寝顔を見つめながら、優は静かに誓う。


 この映画を、必ず届けるべき場所へ届ける。


 俺たちの物語が「本物」だと、世界に証明してみせる。

 それが、彼女への、最高の恩返しになるはずだから。


 リビングテーブルに置かれた、完成した映画のデータが入ったUSBメモリが、朝日の光を鈍く反射している。

 その輝きの中に、静かに眠る寧々の面影が重なった。


 ◇


「……ん……」


 小さな呻き声が聞こえ、優はキッチンで湯を沸かしていた手を止めた。


 寧々が、ソファの上でゆっくりと身じろぎしている。

 やがて、長い睫毛が震え、その瞳がうっすらと開かれた。


 寝ぼけ眼で数度まばたきをした後、彼女の視線が、自分の肩にかかっているものに気づいて止まった。


 男子用の、見慣れた制服のブレザー。


 寧々の頬が、朝日を浴びていないのに、みるみるうちに赤く染まっていく。


「あ……」


 その声にならない声を聞いて、優はなんだか酷く照れ臭くなった。

 慌てて、インスタントコーヒーの粉が入ったマグカップを二つ、テーブルに置く。


「お、おはよう。よ、よく眠れたか?」


「……お、おはようございます」


 寧々は慌てて体を起こし、ブレザーを畳もうとする。

 その仕草がぎこちなくて、なんだか見ていられなかった。


「あー、いいって。俺が後で着るから、気にすんな」


「……でも、その……」


 優は、極度の疲労と、何より彼女の気を遣う姿に、思わず声を強めてしまった。

 徹夜明けの神経は、普段よりずっと研ぎ澄まされていて、同時に摩耗している。


「いいから、大丈夫だって」


 優が少し強い口調で言うと、寧々はびくりと肩を震わせ、俯いてしまった。


 しまった、と優は思う。

 彼女はただ、気を遣ってくれただけなのに。


「……その、悪かった。冷えるかと思って、勝手に……」


「い、いえっ! その……ありがとうございます。暖かかったです」


 蚊の鳴くような声で言うと、寧々は再び顔を赤くして俯いた。


 気まずい沈黙が流れる。


 ケトルが、カチリと音を立てて湯が沸いたことを知らせた。

 救いの合図だった。


 優は二つのマグカップに湯を注ぎ、一つを寧々の前に置く。


「ほら。飲んで、目ぇ覚ませ」


「……はい」


 二人は、しばらく黙ってコーヒーを啜った。


 部屋には、新しい朝の光と、コーヒーの香りが満ちている。

 昨夜までの、戦場のような空気はどこにもなかった。


 やがて、優はテーブルの上に置いていた一本のUSBメモリを、すっと手に取った。


 銀色の、小さな記憶媒体。


 この中に、自分たちの全てが詰まっている。


「……先輩」


 寧々が、決意を秘めた瞳で優を見上げていた。


 その瞳には、もう眠気の欠片もない。


 優は、彼女に向かって、不器用に笑ってみせた。

 照れ臭さと、誇らしさと、そして高揚感が入り混じった、最高の笑顔だった。


「行こうか、相葉」


 優は立ち上がる。


「俺たちの映画を、世界に叩きつけに」

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