第8話
スマートフォンの画面の中で、怒りと屈辱に歪んだ俺、天音優の顔が凍りついている。
隣には、一切の感情を排した相葉寧々。その瞳は、紛れもない共犯者のそれだった。
録画を停止する。カシャリ、と虚しい電子音が響いた。
「……何、それ」
最初に沈黙を破ったのは、日葵だった。彼女の声には、困惑と侮蔑が深く混じり合っている。
「負け惜しみ? みっともない……。優、あんた、本当に変わっちゃったのね」
その言葉は、鋭いガラスの破片のように俺の胸に突き刺さった。
変わった?
変えたのは、お前たちだろうが、と喉の奥で叫んだ。
親友――いや、もはやその言葉を使うことすら躊躇われる男は、腕を組んでせせら笑っていた。
「自撮りかよ。情けねえな、天音。俺たちへの当てつけのつもりか? そんなもん撮って、何になるんだ」
何に、なるのか。
俺自身にも、まだ分からなかった。ただ、寧々の「それが、私たちの武器です」という言葉だけが、暗闇の中で灯る小さなランプのように、心の片隅で揺らめいていた。
「……行こうぜ」
男は日葵の肩を抱き、俺たちに背を向けた。その仕草は、見せつけるような所有欲に満ちている。
「こんな奴らに構ってる時間が無駄だ。俺たちは、もっと高みに行かなきゃならないんだからな」
日葵は一度だけ、躊躇うようにこちらを振り返った。彼女の瞳には、ほんのわずかな罪悪感のようなものが浮かんでいたかもしれない。それは、すぐに男の影に隠れてしまったけれど。
だが、それも一瞬のこと。すぐに男に促され、その背中に隠れるようにして歩き去っていった。
二人のわざとらしい笑い声が、遠ざかっていく。
河原には、俺と寧々、そして気まずい沈黙だけが残された。
風が吹き抜け、寧々の黒髪を揺らす。彼女は何も言わず、ただ川の流れを見つめていた。
「……ごめん」
俺は、絞り出すように言った。
「巻き込んじまった」
寧々はゆっくりとこちらを向いた。その表情は、相変わらず読み取れない。
「巻き込まれたなんて、思ってません」
静かな、しかし芯のある声だった。澄んだ泉の底から湧き上がるような、確かな響きがあった。
「先輩が録画ボタンを押したとき、私も、同じ気持ちでしたから」
彼女は俺の手の中のスマートフォンに視線を落とす。
「見せてもらえますか? ……私たちの、最初のワンシーン」
俺は頷き、再生ボタンを押した。
小さな画面に、先ほどの映像が映し出される。手ブレで揺れる画面。逆光で表情は暗い。音声には、風の音と、遠ざかっていく二人の嘲笑が微かに入り込んでいる。
技術的に言えば、最低の映像だった。構図も、ライティングも、音声も、全てが素人以下だ。
けれど、そこに映っているものは、紛れもない『本物』だった。
全てを奪われた男の、行き場のない怒り。絶望。屈辱。そして、その隣で全てを受け止め、共に戦うことを決意した少女の、静かな覚悟。
AIには、絶対に生成できない。どんな名優にも、完全には再現できない。
俺たちの魂が、そこに焼き付いていた。
「……ひどい顔ですね、私」
寧々が、ぽつりと呟いた。
「いや……ひどいなんてことない。むしろ、俺には、すごく……綺麗に、輝いて見えた」
俺は言葉を詰まらせながらも、そう続けた。寧々の瞳の奥に、燃えるような意志の光が宿っているのが、この映像を通して初めてはっきりと見えたのだ。それは、俺が探し求めていた「本物」の輝きだった。
寧々は少しだけ驚いたように目を見開き、そしてすぐに俯いてしまった。耳が、ほんのりと赤く染まっている。
俺たちは、それきり何も話さなかった。ただ、夕暮れの河原で、短い映像を何度も、何度も繰り返し再生した。
それはまるで、これから始まる戦いのための、儀式のように思えた。
◇
それから数日、俺たちのプレプロダクション――撮影前の準備作業は、静かに、しかし着実に進んでいった。
放課後の図書館の隅で、小さな声でプロットについて議論する。囁くような声量でも、熱はこもっていた。
休日に町の喫茶店に集まり、寧々が描いてきた絵コンテを元に、具体的なシーンの構成を練り上げていく。コーヒーの香りが、俺たちの創作意欲を刺激した。
ある日のこと。寧々のスケッチブックを覗き込んだ俺は、絵コンテの間に挟まれた一枚のメモを見つけた。そこには、詩のような言葉と、抽象的な線画が描かれていた。
「これ……寧々が書いたのか?」
「あ、すみません……。昔、個人的に書いていたもので」
寧々は慌ててメモを隠そうとしたが、俺はそれを制した。
それは、失われた故郷、そして遠い星への憧憬を思わせるような、深く、繊細な世界観が表現されていた。幼い頃に見た、夢の残骸のような、しかし確かな美しさがそこにはあった。
「すごいな……。お前、こういうものも描いてたんだな」
俺の言葉に、寧々は顔を赤らめ、少し俯いた。
「まさか。ただの、落書きみたいなものです」
彼女はそう言ったが、俺は確信した。彼女には、俺がまだ気づいていなかった、深い感受性と、秘められた創作の才能があるのだと。それは、埋もれた鉱脈を見つけたような、静かな興奮だった。
俺たちの映画のテーマは、自然と決まっていた。『喪失と再生』だ。
ありきたりなテーマかもしれない。だが、今の俺たちには、これ以上ないほどリアルなテーマだった。血肉が通い、魂が震えるような、切実な叫びにも似たテーマだった。
「このシーン、主人公が昔の写真を見つける場面ですけど」
寧々が、スケッチブックの一枚を指さした。そこには、部屋の隅で膝を抱える少年の姿が描かれている。
「光は、どこから差すべきだと思いますか?」
「普通に考えれば、窓からの自然光だろうな。でも、それじゃありきたりすぎる」
俺は少し考えてから答えた。
「ドアの隙間から漏れる、廊下の人工的な光がいい。閉ざされた心の世界に、ほんの少しだけ差し込む、外部からの干渉。希望なのか、それとも新たな絶望の始まりなのか、観客にはまだ分からない。そんな曖昧な光だ」
「はい。先輩の言う通り、そこに、何が映るのか……私も見てみたいです」
寧々は嬉しそうに頷き、鉛筆を走らせて光の線をスケッチに描き加えた。彼女は、光の描き分け一つにも、深い意味を見出そうとする。それは、絵を描く者としての、生来の探求心なのかもしれない。
こんな時間が、たまらなく楽しかった。
映画研究部では、いつしか俺は監督として指示を出すだけになっていた。全体の進行を管理し、技術的な問題を解決する。それはそれで重要な役割だったが、純粋な創作の喜びは、どこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。
寧々との作業は、違った。彼女はただの助手でも、言うことを聞くだけのスタッフでもない。対等なクリエイターだった。
俺のアイデアに、彼女はさらに鋭い感性で応えてくれる。彼女の感性に、俺は映画的な知識と技術で形を与えていく。
二人の歯車が、カチリ、カチリと噛み合っていく感覚。失われた世界が、少しずつ再構築されていくような、そんな手応えがあった。
だが、そんな穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。
ある日の放課後、いつものように図書館で打ち合わせをしていた時のことだ。俺のスマートフォンが、静かに震えた。
画面に表示されたのは、SNSアプリからの通知だった。
『【〇〇高校 映画研究部】が新しい動画を投稿しました:新作『Astra』ティザーPV』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。胃の奥から、冷たい塊がせり上がってくるようだった。
映画研究部。俺が作った、そして追放された場所。
「……見ないんですか?」
寧々が、俺の凍りついた手元を見て言った。その声は、静かながらも、深い水底を覗き込むような響きがあった。
「いや……」
見たくない。あいつらが、日葵を使ってどんな映画を撮ったのか、知りたくもない。喉の奥に、鉄の味が広がる。
だが、指は意思に反して、通知をタップしていた。
画面が切り替わり、動画のサムネイルが表示される。それは、夜空に浮かぶ巨大なガラスの城だった。幻想的で、息を呑むほどに美しい。
再生ボタンを押す。
ヘッドフォンはしていなかった。スマートフォンの小さなスピーカーから、壮大なオーケストラの音楽が流れ出す。
そして、映像が始まった。
―――言葉を、失った。
それは、高校生が作ったとは到底思えない、圧倒的なクオリティの映像だった。
逆さまに降り注ぐ、虹色の雨。
七色の鱗を持つクジラが、雲海を悠然と泳いでいく。
ステンドグラスでできた森を、光の粒子を纏った少女が駆け抜ける。
場面が切り替わるたびに、脳が理解を拒むような、幻想的で美しい光景が次々と展開される。ハリウッドのブロックバスター映画の予告編だと言われても、信じてしまうだろう。
映像の最後に、日葵のアップが映し出された。
完璧なライティングを浴びて、憂いを帯びた表情で空を見上げる彼女は、まるでこの世ならぬ女神のように美しかった。
そして、画面にタイトルが浮かび上がる。
『Astra』
監督として、あいつの名前がクレジットされていた。
動画は、わずか30秒。
だが、その30秒は、俺がこれまで築き上げてきた自信と、これから築こうとしていた希望を、粉々に打ち砕くには十分すぎる時間だった。
コメント欄に目をやると、案の定、絶賛の嵐が吹き荒れていた。
『何これ!? 高校生のレベルじゃないだろ!』
『天才監督、爆誕!』
『日葵ちゃん、マジで天使……』
『文化祭で全編見れるとか、神すぎる! 絶対行く!』
その中に、日葵自身の投稿があった。
『最高のチームで、最高の作品ができました!✨みんな、文化祭に来てね!』
元仲間たちのコメントも、その投稿に群がっていた。
『やっぱ、あいつについていって正解だったわ』
『優先輩には悪いけど、格が違いすぎる』
『これが”売れる”映画だよな』
胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。視界が歪むほどだった。
これが、現実だった。俺が寧々と二人、地べたを這いずり回るようなやり方で「本物」を追い求めている間に、あいつは、誰もが絶賛する「傑作」をいとも簡単に作り上げていたのだ。
嫉妬。焦り。そして、どうしようもない無力感。全てが、俺の心を覆い尽くした。
俺が撮ろうとしている、手ブレだらけの8mmフィルムの映像。こんなもので、あの圧倒的な映像美に対抗できるというのか?
自己満足。ごっこ遊び。
河原で投げつけられた言葉が、頭の中でこだまする。
俺は、ただの負け犬なのかもしれない。
「……先輩」
寧々の声で、我に返った。
彼女は、俺のスマートフォンを、静かな目で見つめていた。その表情は、先ほどまでとは違い、冷たく、そして鋭い。まるで獲物を見定める狩人のようだった。
「もう一度、見せてもらえますか」
俺は無言で、スマートフォンを彼女に手渡した。
寧々は動画を最初から再生し、食い入るように画面を見つめている。一度、二度、三度。画面が、彼女の瞳の中で何度も点滅する。
彼女は指で画面を拡大したり、再生速度を落としたりしながら、まるで粗探しをするかのように、繰り返し映像を確認していた。普段から絵を描き、光や構図、表情の細部にまで気を配る彼女の目には、きっと見慣れない違和感がいくつも映っているのだろう。
やがて、彼女はふっと息を吐き、顔を上げた。
「……心が、ありません」
それは、以前、俺が作った『青とサイダー』を評してくれた時と、全く同じ言葉だった。しかし、その響きは、あの時よりも遥かに深く、冷徹だった。
「どういう、ことだ?」
「綺麗です。壮大です。技術も、すごいと思います。でも、ここには、魂が一つも映っていません」
寧々は、動画の一場面を指さした。逆さまに降る雨のシーンだ。
「この雨粒、見てください。地面に落ちても、跳ね返らない。ただ、吸い込まれるように消えていくだけ。物理法則を無視しています。意図的な演出というより、ただ、そうなってしまっているだけに見えます」
次に彼女が指したのは、雲海を泳ぐクジラのシーン。
「このクジラの影。光源は上にあるはずなのに、影がクジラの真下に落ちていない。まるで、背景とクジラが、別々のレイヤーで動いているみたいです。絵コンテを描く私から見ても、不自然なライティングです」
そして、最後の日葵のアップ。
「坂田先輩の瞳。涙が一筋流れていますけど、この表情で、この瞳孔の開き方は不自然です。悲しんでいるようには、見えない。ただ、そういう表情をするように命令された、人形みたいです」
寧々の言葉に、俺はハッとした。
言われてみれば、確かにそうだ。圧倒的な映像美に目を奪われて、気づかなかった。細部に、奇妙な違和感がいくつも転がっている。
一つ一つは些細なことだ。だが、それらが積み重なることで、映像全体から生命感が失われている。どれだけ美しくても、どこか空虚で、作り物めいて見える。
これは、動画生成AIだ。
おそらく、『Sora 2』か、それに類する最新のツールだろう。テキストで指示(プロンプト)を入力するだけで、フォトリアルな映像を生成する、あの悪魔的な技術。
あいつは、映画を撮ってなどいなかった。ただ、AIに命令して、映像を「生成」させていただけなのだ。
だから、心が無い。
だから、魂がこもっていない。
それは、創作と呼べるような行為ですらない。ただの、技術の切り貼りに過ぎない。
「あいつ……」
怒りが、再び腹の底から湧き上がってくる。もはやそれは、黒く煮えたぎるマグマのようだった。
あいつのやり方は、何も変わっていなかった。日葵を「最高の被写体」と甘い言葉で飾り立て、自分の欲望を満たすための道具にした。
今度は、AIという最新技術を使って、創作という行為そのものを冒涜し、手軽な称賛を得るための道具にしている。
恋愛も、創作も、あいつにとっては同じなのだ。自分の空っぽな内面を飾り立てるための、見栄えの良いアクセサリーでしかない。
「俺たちは……」
俺は、自分のスマートフォンに保存されている、あの映像を開いた。
河原で撮った、俺と寧々の、歪んだ顔。
「俺たちは、俺たちのやり方で戦うしかない」
手ブレだらけで、ライティングもめちゃくちゃな、この映像。
だが、ここにはAIには絶対に生成できない、俺たちの『痛み』が焼き付いている。
寧々は、俺のスマートフォンの画面と、図書館の窓の外に広がる夕焼けを、静かに見比べていた。燃えるような夕焼けが、二つの画面に映り込んでいる。
「AIは、夢を見るんでしょうか」
彼女が、ぽつりと呟いた。
「もし見るとしたら、きっと、誰かが過去に見た夢の、つぎはぎなんだと思います」
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、夕焼けの色を映して、静かに燃えているように見えた。
「でも、私たちは、私たちだけの現実を生きてる。痛みも、喜びも、全部本物です」
その言葉が、俺の心の靄を、完全に吹き払った。淀んでいた空気が、一気に澄み渡っていく。
そうだ。戦う土俵が違う。
あいつらがAIで作った偽物の夢で観客を魅了するなら、俺たちは、俺たちにしか撮れない現実で、人の心を揺さぶる。
美しさや技術で、勝てるわけがない。
だが、『本物』であるかどうかでなら、絶対に負けない。
「ああ、そうだな」
俺は力強く頷いた。胸の奥に、確かな熱が宿った。
「あいつらが生成AI(ジェネレーター)なら、俺たちは、俺たちの痛みで現実を撮るドキュメンタリストだ」
図書館に閉館を告げるチャイムが鳴り響く。
それは、俺たちの反撃の始まりを告げる、ゴングのようにも聞こえた。
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