第6話

 「先輩の撮りたいものは、あんなものじゃないはずです」


 寧々の言葉は、問いかけのようであり、同時に明確な宣言でもあった。


 その言葉が、凍り付いていた優の心に、小さな、本当に小さな亀裂を入れた。


 そうだ。


 俺が撮りたいものは、あんな空っぽの、見栄えだけの偽物じゃない。


 俺が日葵と撮りたかった映画も、あんな甘ったるいだけの、薄っぺらなラブストーリーじゃない。


 もっと、痛くて、苦しくて、それでもどうしようもなく美しい、人間の魂そのものを撮りたかったはずだ。


 だが、もう遅い。


 俺には何もない。


 カメラも、仲間も、ヒロインも。


 そして何より、撮るべき物語が、もうない。


 優が顔を上げると、寧々はまだそこにいた。


 彼女は黙って、優の答えを待っている。


 その真っ直ぐな視線から、優は逃れることができなかった。


 ## 第6話 二人だけのプレプロダクション


 どれくらいの時間が経っただろう。


 数十秒か、あるいは数分か。ひぐらしの鳴き声だけが、気まずい沈黙を埋めていた。


 優は何も言えなかった。寧々の言葉を肯定することも、否定することもできなかったからだ。


 肯定は、まだ撮れると信じること。


 否定は、自分の全てをゴミだと認めること。


 どちらも今の優には、あまりに重すぎた。


 沈黙を破ったのは、寧々の方だった。


「……ついて来てください」


 彼女はそう言うと、おもむろに優のTシャツの袖を掴んだ。華奢な指先に、意外なほどの力がこもっている。


「どこへ……」


「黙って、来てください」


 有無を言わさぬ口調だった。寧々にしては珍しい、強い声音だ。


 優は抵抗する気力もなく、まるで操り人形のように玄関のドアを跨いだ。


 サンダルに足を突っ込むと、寧々は黙って歩き始める。その小さな背中を、優はただ追いかけるしかなかった。


 夏の終わりの夕暮れは、空気を茜色に染め上げていた。


 住宅街を抜ける道すがら、家々の窓からは夕飯の匂いが漂ってくる。


 かつては、この時間帯の光が好きだった。世界が最も美しく見える瞬間だと、信じていた。


 日葵を被写体に、この光の中で何度もカメラを回した記憶が蘇る。


 ――優、今日の光、マジックアワーってやつ? すっごい綺麗!


 そう言って笑う彼女をファインダー越しに覗きながら、この瞬間を永遠に切り取りたいと願った。


 だが、そのフィルムに焼き付けられていたのは、すべて嘘だったのだ。


 俺の知らない物語の、残酷な予告編だった。


 今では、この美しい光景もただの色褪せた背景にしか見えない。


 ノイズだらけの、ピントの合わない映像。世界のすべてが、優を置いてきぼりにして回っているようだった。


 隣を歩く寧々は、何も話さない。彼女が何を考えているのか、優には全く分からなかった。


 なぜ、自分のような人間に構うのだろう。


 部活ではいつも隅の方で本を読んでいるか、窓の外を眺めているかで、ほとんど誰とも話さなかったはずだ。暗い子、何を考えているか分からない子。それが、部内での彼女の評価だった。


 自分も、彼女のことをちゃんと見ていなかった。


 彼女がどんな映画を好きなのか、どんな物語を書きたいのか、一度だって真剣に聞いたことがなかった。


 日葵と、親友と、そして自分たちが作る映画のことしか頭になかった。


 結局、俺もあいつらと同じだったのかもしれない。


 自分の見たいものしか見ず、他人の心に興味なんてなかった。


 だから、あんなにもあっさりと裏切られたのだ。


 自嘲の念が胸に広がり、優は俯いた。アスファルトの染みが、まるで乾いた血痕のように見えた。


 やがて、二人は川沿いの土手にたどり着いた。町を二分するように流れる一級河川。


 対岸には低い山並みが連なり、その稜線に夕陽が差し掛かっている。川面が、溶かした金のようにキラキラと輝いていた。


「……ここです」


 寧々はそう呟くと、優の袖を放した。


「ここが、なんだって言うんだ」


 優の声は、自分でも驚くほど乾いていた。


 美しい光景だった。だが、その美しさが今の優の心を抉る。


 あの『Private_Masterpiece』の中でも、日葵と親友はこんな夕陽を背にキスをしていた。


 美しいものは、時に凶器になる。


「ここで、撮りたいんです」


 寧々は川面から目を離さずに言った。


「ここでしか撮れない光があるから。感情が、色になって見える場所だから」


「……感情?」


 優は思わず聞き返した。あまりに詩的な、映画の台詞のような言葉だったからだ。


「そう、感情です。悲しいとか、嬉しいとか、そういう単純なものじゃなくて……もっと混ざり合った、名前のない気持ち。そういうものが、ここの光の中にはある気がするんです」


 寧々はゆっくりと優の方を振り返った。彼女の瞳が、夕陽を反射して琥珀色に輝いている。


 その瞳は、優が今まで見てきたどんな被写体よりも、雄弁に何かを語っていた。


 彼女は自分のリュックを下ろすと、中から一冊のスケッチブックを取り出した。年季の入った、角の擦り切れたクロッキー帳だ。


「これ、見てください」


 差し出されたスケッチブックを、優はためらいながら受け取った。


 ページをめくると、そこに描かれていたのは、鉛筆で描かれたラフな絵コンテだった。


 だが、それはただのラフではなかった。


 最初のコマ。バス停のベンチに座る、一人の少女の後ろ姿。


 次のコマ。その少女の横顔のアップ。何かを堪えるような、硬い表情。


 ページをめくる。バスが到着し、ドアが開く。少女は乗り込まず、ただバスを見送る。


 バスの窓に、一瞬だけ、泣き出しそうな少女の顔が反射して映り込んでいる。そのカットの横には、『反射、ゴーストを重ねる』と小さな文字で書き込みがあった。


 言葉は、一つもない。台詞も、ナレーションも、何一つ書かれていない。


 なのに、物語がそこにあった。


 少女が何を待ち、何を失い、それでもなぜそこに座り続けているのか。


 その喪失感と、ほんの僅かな希望が、線の強弱や構図の巧みさから痛いほど伝わってきた。


 優は息を呑んだ。


 これは、自分が撮りたかったものだ。言葉で説明するのではなく、映像だけで、光と影だけで、人間の心の機微を、その魂の在り処を捉える。


 そんな映画を、ずっと撮りたいと願っていたはずだ。


 日葵を撮っていた時、自分は彼女に台詞を与え、役割を与え、「ヒロイン」という記号の中に押し込めていた。


 彼女自身の内面から溢れ出るものを捉えようとはしていなかった。


 親友の言う通りだった。俺は、カメラの向こう側しか見ていなかった。


 だが、この絵コンテは違った。


 描かれた少女を生身の人間として捉え、その内面に深く潜り込もうとする意志が、一本一本の線から伝わってくる。


「……どうして、これを」


 かろうじて、それだけを口にした。


「誰にも見せられないと思ってました。あの映画研究部の連中には、どうせ地味だって笑われるだけですから」


 寧々は、一度視線を落としてから、優の目を見据えた。


「でも、先輩の、一年生の時に撮った自主制作映画。『青とサイダー』を観てから、ずっと考えてました」


 寧々は静かに言った。


「あの映画、誰も褒めてなかったけど、私は……大好きでした。夏休みの終わりに、もう会えなくなる友達とサイダーを飲むだけの、短い映画。でも、サイダーの泡が弾ける音とか、グラスを透かして見える歪んだ風景とか、そういうもの全部に、もう戻れない時間の切なさが詰まってました。あれを観て、先輩なら、きっとこういう物語を撮れるって、勝手に信じてたんです」


『青とサイダー』。


 それは優が、映画研究部を作る前にたった一人で撮った、拙い短編だった。


 誰に見せるつもりもなく、ただ撮りたいという衝動だけで作り上げた、パーソナルな作品。


 技術も未熟で、構成も滅茶苦茶な、自分でも忘れていたような映画だ。


 それを、この後輩はずっと覚えていてくれた。


 そして、その奥にある魂のようなものを、正確に読み取ってくれていた。


 胸の奥が、熱くなった。


 裏切られ、否定され、ゴミだと思い込まされていた自分の原点が、今、目の前の少女によって肯定されている。


 撮りたい。


 心の底から、声が聞こえた。


 この絵コンテを、自分の手で映像にしたい。この物語に、命を吹き込みたい。


 だが、その衝動と同時に、冷たい恐怖が足元から這い上がってくる。


 また失敗したら?


 また独りよがりな作品になったら?


 何より、今の自分に、カメラを握る資格なんてあるのか?


「……無理だ」


 優はスケッチブックを閉じ、寧々に突き返しながら首を振った。


「もう、撮れない。俺には、何もないんだ。機材も、仲間も……撮る資格も、自信も、全部あいつらに奪われた」


 それは本心だった。情熱だけではどうにもならない現実が、重くのしかかっている。


「資格なんて、誰かがくれるものじゃありません」


 寧々の声に、初めて感情の熱がこもった。


「自信だって、最初からある人なんていない。作りながら、見つけていくものです。仲間なら……ここに、います」


 彼女は自分の胸を、とん、と指で差した。


「一人じゃ、ありません。二人が、います」


「二人で、何ができるって言うんだ……」


 自嘲の笑みが漏れた。映画は一人では作れない。それが、この数年間で優が学んだことだった。


 すると寧々は、再びリュックに手を入れた。今度は、くしゃくしゃに折り畳まれた一枚のチラシを取り出す。


「これがあります」


 広げられたチラシには、『第二回〇〇町ショートフィルムコンペティション』という文字が印刷されていた。町の公民館が主催する、小規模な映画祭だ。


「……映画祭?」


「はい。映画祭、出てみませんか」


 寧々の提案は、あまりに突拍子もなかった。優は思わず、乾いた笑いを漏らす。


「冗談だろ。こんなものに出たって、あいつらには勝てない。それに、機材はどうするんだ。編集するPCだって、もう部室には入れない。金だってないんだぞ」


 できない理由を並べ立てる優に、寧々はチラシのある部分を指差した。


「見てください。ここ」


 彼女が指した先には、応募資格の欄があった。


『二人一組から応募可能。撮影機材は問いません(スマートフォンでの撮影も可)。プロ・アマ不問』


 そして、その下には、グランプリの賞品として『奨学金十万円、及び市内映画館での一週間限定上映権』と書かれていた。


「二人で、いいんです。機材だって、先輩のスマホと、私の持ってる古い8ミリカメラがあれば、なんとかなります」


「8ミリ……?」


「はい。おじいちゃんの形見です。フィルム代は、私のお年玉で払います」


 淡々と、しかし力強く彼女は言う。まるで、ずっと前からこの計画を練っていたかのように、淀みがない。


 優は言葉を失い、チラシと寧々の顔を交互に見つめた。


 チラシの片隅に書かれたキャッチコピーが、目に飛び込んできた。


 ――あなたの物語を、待っています。


 俺の、物語。


 俺にはもう、物語なんてないと思っていた。


 だが、本当にそうだろうか。


 裏切られ、傷つき、絶望した。これもまた、一つの物語ではないのか。


 寧々の瞳が、じっと優を見つめている。


 その眼差しは、哀れみでも同情でもなかった。それは、共犯者を求めるような、共作者を信じるような、強い光を宿していた。


 彼女は、俺を信じている。俺が撮るものを、信じてくれている。


 優の心の中で、絶望という名前の分厚い氷が、ミシリ、と大きな音を立てて軋んだ。


 まだ「やる」とは言えない。恐怖が、足を鎖のように縛り付けている。


 だが、諦めたくない。このまま終わりたくない。


 あいつらの作った、魂のない偽物の『傑作』に、負けたままでいたくない。


「……考えさせてくれ」


 絞り出したのは、そんな弱々しい言葉だった。それでも、完全な拒絶ではない。


 それは、優に残された、最後の意地だった。


「はい」


 寧々は、満足そうに小さく頷いた。


「待ってます、先輩」


 彼女はそう言うと、ずっと持っていたカチンコを、優の手にそっと握らせた。


 ひんやりとした木の感触と、ずしりとした重み。優は、それを落とさないように、無意識に強く握りしめていた。


 いつの間にか、夕陽は山の向こうに沈み、世界は青と紫のグラデーションに包まれていた。


 マジックアワーは終わり、夜が始まろうとしている。


 手の中のカチンコが、やけに重い。


 それは、終わった物語の墓標か。


 それとも――――。


 まだシナリオのない、新しい物語の始まりを告げる合図なのか。


 その答えは、まだ見つからない。


 けれど、脳裏には、日葵と親友の、あの底意地の悪い笑顔がまだこびりついて離れなかった。その残像が、優の指を震わせる。


 だが、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、後者に傾き始めているのを、優は確かに感じていた。

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