第5話 別れのとき

 士官専用宿舎の窓から、激しい雨が打ちつけられる音が聞こえていた。


 雨音で、目が覚めた。

 彼がもう行ってしまったのではないかと不安になって、エステラは暖かいシーツの中で彼の身体を手探りで探した。


 よかった……


 エステラは、まだマルコの腕の中にいた。

 安心して、マルコの厚い胸板に指先を這わせる。

 

 朝が、来てしまった。

 いつの間に眠ってしまったのだろう?

 この大切な夜だけは、絶対に眠りたくないと思っていたのに。

 マルコが眠っても、私はずっとマルコのことを見つめていたいと思っていたのに。

 マルコの腕に抱かれて、エステラは幸せに包まれて眠ってしまったのだ。

 

 マルコはまだ、穏やかに眠っていた。

 顎に髭が伸びている。

 この髭、チクチクして、イヤなの。

 でもいいわ。

 許してあげる。


 昨日、マルコはエステラに約束してくれた。


『帰ってきたら、モンテアルナスの湖畔に小さな家を買いましょう。


 軍なんて、もう辞めて、ふたりで静かに暮らしましょう。

 

 観光客を相手に、遊覧飛行でもして。


 2人で自由に空を飛んで、2人でつましく暮らしていければ……


 あなたさえそばにいてくれたら、僕にはそれで十分だ……』



 それは、あまりに素敵な夢だった。


 誰のためでもなく、戦うためでもなく、ただ自由に、美しい山々と、美しい湖の上をゆったりと飛ぶ。


 操縦席で隣を見れば、そこには愛する人がいて、機内はたぶん、笑顔で溢れている。


 幸せのために飛ぶ空は、きっと大きく美しいだろう。


 2人で綺麗に着陸を決めて、そして笑顔で、たくさんのお客さんを見送るの。


 新婚旅行の夫婦?


 子供を連れた家族?


 子供たちを乗せたら、僕も、私も飛空士になる、なんて言い出すかもね。


 年老いたご夫婦を乗せるかも。


 壮年のご夫婦と、その親御さんと、お孫さん。

 家族揃って空を楽しむお客さんも、きっと素敵ね。


 お客さんを見送ったら、2人で帰る、小さな山小屋。


 そこにはきっと、小さな暖炉があるわ。


 美味しいパンと、羊肉のソーセージ。

 チーズも一欠片ひとかけら添えましょう。

 彼が珈琲を淹れてくれる? それとも私が紅茶をいれる?


 おやすみの日には、ふたりでワインを開けて、素敵な本を読んで、1日過ごすの。


 犬がいてもいいな。

 ヤギを飼いましょうか?

 彼との子どもを産むことができたら、私はどんなに幸せなことでしょう?


 彼と、家族と暮らすその小さなお家では、誰はばかることなく、いつでも「愛してる」と言い合える。


 そこでゆっくり、歳を重ねていくの。


 いつか、2人が年老いて、若い頃のようには自由がきかなくなっても、お互いをいたわり合って、そして「愛してる」って言い合って、人生の終わりをゆっくり過ごすの。



 ねえ?


 私たち、贅沢なことを望んでいるのかしら?


 どうして、私たちの夢は叶わないのかしら?


 どうして、マルコは死んでしまうの?


 いやよ。


 いや。


 そんなの、いや。




 気がついたら、泣いていた。

 私は、マルコに身体を寄せた。

 温かい。

 お願い、行かないで。

 私を残して、逝かないで。



 マルコが指先で、私の涙をやさしく拭ってくれた。


 窓の外が、すっかり明るくなっている。


 この幸せな時間は、あと何分続くのだろう?


 あと何秒、彼の腕の中にいられるの?


 マルコが、身体を起こそうとした。


 私は思わず、引き止めた。



「もう……、行かないと」


 いやだ


「エステラさん」


 いやだ。エステラって呼んで。


 私をまっすぐに見る彼の目も、赤く充血して泣き腫らしたようだった。


 彼が、精一杯の愛情を込めたキスをくれた。


 彼が、静かに言った。


「エステラ。


 愛してる」


 その言葉だけでも、かまわない。

 でも。


 たとえそれが私を縛り付ける言葉でも、


 私にとって重い重い十字架になろうとも、


 私は、あの言葉を待っていた。


 あの言葉が、私には必要だった。


 彼は、ためらっていた。


 あなたは優しい人。


 私を気遣って、私を自由にしてくれようとしているの。


 あなたの優しさは知っている。


 でも、


 お願い。


 いいの。


 私を、あなたに縛り付けて。


 その想いが伝わったのか、マルコが小さく、しかし力強く呟いた。


 「……必ず、帰ってきます。


 だから、それまで、待っていてください」


 

 私は彼に襲いかかった。



 もう、我慢なんかしない。


 私はマルコを愛している。


 欲しいの!


 あなたが!


 愛してるから!



 彼の唇を唇で塞いで、彼の全てを求めるように、私はその唇を貪った。



 帰ってきて。


 帰ってきて。


 愛しているの。


 帰って、きて。


 私のもとへ、帰って、来て。



 ◆


 

 降り止まない雨の中、301特別飛空小隊は、ロスカーナ基地の全ての指揮官、飛空士、整備士、職員、訓練生に見送られて、飛び立った。


 見送られる者、見送る者。


 その目からあふれていたのは、雨粒であったか涙であったか。


 氷のように美しく冷淡と言われた女が、その日心の鎧を脱ぎさったことを、ただ1人の男だけが知っていた。


 


 (おわり)


 

 

 * * *

 

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▼次の作品のご紹介▼

女神≪ルラ≫戦記・前日譚シリーズ

【第4弾】『マーガレット咲く野原で』

を、明日11/26 21:12から投稿開始します。


デル飛空艇工房の看板娘レナータと、飛空士を目指す大学生アンドレアス。

純真でまっすぐな二人の、不器用な恋を、見守ってください。

 

 

 レナータとの初デート。

 アンドレアスは教授に頼み込んで車を借りだし、マーガレットの花束を持って、レナータを迎えにやってきた。


「私、マーガレット大好きなんです!」


 そう笑顔になったレナータは、心の中で思っていた。


「アンドレアスさん、マーガレットの花言葉、ご存知なのかしら?」


 マーガレットの花言葉。それは「真実の愛」——

  


第1話「デル飛空艇工房」は、明日11月26日 21:12 投稿です。

ぜひ、引き続き、お読みください。


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完結済 第1弾『少女が髪を切った日』(全6話)

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完結済 第2弾『ロサレダの惨劇』(全6話)

 https://kakuyomu.jp/works/822139836881446712

完結済 第3弾『明日なき翼にささぐ詩』(全5話)

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明日から👉 第4弾『マーガレット咲く野原で』(全5話)

12/1〜 カクヨムコンテスト11応募作品『女神≪ルラ≫戦記』投稿開始

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