2.刑事の違和感

五十嵐梓は、如月の淹れた濃いコーヒーを一口飲み、ソファに座り直した。

​「『鍵は、美術館の外にある』…どういう意味ですか?現場に残された南京錠のことなら、警察は既に徹底的に調べています。真鍮製、製造元不明。特殊な技術で作られていますが、開錠の形跡もない、ただの空の錠です」

​「空の錠、か」如月は目を閉じた。「その通りだ。開錠されていないのに、鍵穴が空っぽの錠。それは、鍵がまだ見つかっていないことを意味する。そして、もっと重要なのは、なぜ犯人があんなものを現場に残したかだ」

​「挑発、ですよね?」

​「違う」如月は首を振った。「挑発なら、もっと派手なもの、例えば、胸像の一部を破壊したり、警察への嘲笑のメッセージを残すはずだ。だが、あの南京錠は静かすぎる。まるで、犯人が誰かにヒントを与えたがっているように見える」

​五十嵐は資料に目を落とした。「そのヒントが、あの古代文字のような刻印ですか?」

​「そうだ。拡大写真を見ろ」

​如月は、南京錠の細部の写真を手で示した。

​「警察はこれを単なる装飾か、特殊な工場マークだと判断した。だが、私にはそうは見えない。これは図像学(イコノグラフィー)的な意味を持つ記号だ。この記号は…螺旋(らせん)を描いている」

​五十嵐は真剣に写真を覗き込んだ。確かに、微細な線が渦を巻くように絡み合い、円を描いている。

​「螺旋…それがどう、ユリシーズの眼差しと関係あるんですか?」

​「ユリシーズ、すなわちオデュッセウスの物語を思い出せ」如月は窓の外、巨大な都市を見下ろした。「彼の旅は、故郷イタケへ帰還するための迂回の物語だ。トロイアからイタケへの道のりは、真っ直ぐではない。彼は何度も迷い、遠回りし、苦難を経験する。彼の旅路そのものが、螺旋状の巡礼だ」

​「…つまり、犯人はユリシーズの物語をモチーフにしていると?」

​「それだけではない。犯人は、この盗難を旅と見立てている。そして、この南京錠は、その旅の最初の関門、あるいは第一の場所を示している」

​如月は立ち上がり、デスクの隅に置かれた地球儀に手を伸ばした。

​「鍵は、美術館の外にある。そして、犯人は鍵を探している。鍵を探している人間が、わざわざ『鍵』というメッセージを残す。このパラドックスが、私を眠らせない」

​五十嵐はメモを取りながら、ふと違和感を覚えた。

​「如月さん。警視庁は、犯人が『透明な泥棒』と呼ばれる、専門の盗賊団だと睨んでいます。特殊な電磁パルスでセキュリティを無力化し、化学処理でガラスケースを消滅させた。その線で、国際的な窃盗団を追っているんです」

​「ガラスケースが消滅した、ね」

​如月は鼻で笑った。彼の笑みは、嘲笑ではなく、深い洞察からくるものだ。

​「特殊な化学薬品で強化ガラスを溶かすことは可能だ。だが、わずか数分で、しかも残骸も匂いも煙もなしに、あの巨大なケースを液状化させる薬品など、この世に存在しない。少なくとも、人類が把握している技術の中には」

​「では、どうやって…」

​「消失だ。物理的な消失。これは、犯罪というよりマジックに近い。それも、観客が一瞬たりとも目を離せない、最高レベルの舞台装置だ」

​如月は、五十嵐の目を見た。

​「君は、警備担当者の佐倉健吾が、展示室の扉を開けた瞬間の報告書を読んだか?」

​「はい。彼は『強化ガラスケースが、跡形もなく消えていた』と」

​「『跡形もなく消えていた』。この表現に、君は何も違和感を抱かないか?」

​五十嵐は顎に手を当てて考えた。プロの警備員が、事件の最も重要な瞬間に見た光景だ。事実をそのまま述べているように思えるが…。

​「…ガラスケースの破片がないことに、衝撃を受けた、ということでしょうか?」

​「それもある。だが、もっと根本的なことだ」

​如月は、熱いコーヒーの香りを深く吸い込んだ。

​「ガラスケースは、ただの箱じゃない。それは、空気で満たされた空間だ。あのケースが消えたということは、中にあった空気も消えたということになる。もし液体で溶かしたなら、液体化したガラスの体積は、元の体積と変わらない。もし爆発したなら、破片が飛び散る。だが、跡形もなく消えた。それは、ケースが、その中身ごと別の次元に移動したか、あるいは…」

​如月はそこで言葉を切った。

​「あるいは?」五十嵐が焦れて促した。

​「あるいは、佐倉健吾が見たものは、最初からそこになかったのかもしれない」

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