第2話 運命の少女・アポロニア
最初は、小さな事業のささいな失敗がきっかけだった。
簡単に立て直せるはずの小さな傷が、不運とミスが重なってどんどん大きくなっていき、クラウディアの浪費癖がとどめとなった。
ヴァイス男爵家は、破産の瀬戸際にある。
「金がない」というアルベルトの告白に、室内の時間は止まったようだった。
クラウディアは目を大きく見開いたまま、言葉を失って固まった。
夫の言葉を、受け入れられない。
「あらゆる手を尽くしているのだが……」
夫人のブルーグレイの瞳から、ひとすじ涙がこぼれた。
次の瞬間、夫人はドレッサーに突っ伏して、火がついたように泣き出した。
「クラウディア……許してくれ。すまない。本当にすまない」
がばっと身を起こした夫人が、怒りに任せ、香水の小瓶を夫に投げつけた。
アルベルトの額から、スーッと一筋の血が流れ落ちた。
「だからなのね!?
持参金目当てに、薄汚い農家の娘をレオネルの嫁に迎えるなんて……
あなたっ! よくもそんな恥知らずなことが言えたわねっ!」
領内有数の豪農エルナンド・ロサリオから用意できる持参金の額を聞いて、アルベルトの目の色が変わったのは事実だ。
その金があれば、危機に陥っているヴァイス家の財政を立て直せる。
この縁談に、ヴァイス家の命運がかかっているのだ。
アルベルトは額に流れる血などかまわず、必死になってクラウディアの説得にかかった。
「それは違うぞクラウディア。
ロサリオはそこらへんの農家とは違うんだ」
「何がちがうのよっ! 土の上をはいまわる平民に変わりはないでしょっ!」
「ロサリオ家は100人以上の小作人をかかえる豪農なんだ。
そりゃあ自分で耕す土地もあるとはいうが、それはごく限られたものだ。
郷士株の出物があれば、すぐにでも買うつもりだと言っている。
そういう奴だから、娘のしつけだって行き届いているんだよ。
君が思っているような、土にまみれた田舎娘がくるわけじゃないんだよ」
「黙りなさいっ! 出て行って!
もう嫌よっ! 私はこんな国には来たくなかったのに!
あなたが、私を幸せにすると、一生不自由させないって約束したから、ここにいるのに、私を裏切ったわね!
もう、アルバ王国へ帰りますっ!
二度と私にその顔を見せないでっ!
出ていけ!
出ていけっ!」
妻の怒りに気圧され、うなだれたままアルベルトは部屋を出た。
◆
帰国すると言っても、クラウディアの実家の、アルバ王国オルティス子爵家もすでに代替わりしている。
今さらクラウディアが帰れる家など、実際にはないのだ。
クラウディアが部屋から出てくることは滅多になかったが、アルベルトとの離婚話も、進む気配はなかった。
一方で、ヴァイス家の経済状況を救うロサリオ家との縁談は、着々とすすんだ。必要に迫られて。
正式な婚約は、来年の夏前に、レオネルが士官学校へ入る前に取り交わし、結婚そのものはレオネルが卒業する3年後と決まった。
近日中にレオネルが、ロサリオの屋敷――通称「
生き馬の目を抜く貴族社会でずっともまれてきたアルベルトにとっては、簡単な交渉だった。
交渉事などとは縁がなかったエルナンド・ロサリオに、法外な持参金を、しかも婚約前に支払うように仕向けることなど、赤子の手をひねるようなものだったのだ。
◇
レオネルが、家庭教師で従騎士のディエゴ・マルティネスを伴ってロサリオ家を訪れたのは、晩秋の、うららかなある午後のことだった。
レオネルとディエゴは朝から狩りを愉しみ、その帰りがけ、「たまたま通りかかった」ロサリオの屋敷で水を所望する――貴族が平民を訪ねる時の、伝統的な作法である。
「お訪ね申し上げる!
我は、ルラヴィア公国男爵ヴァイス家の従騎士ディエゴ・マルティネスと申す者!
我が主人に、水を一杯所望したい!
当家のご主人はおられるか?」
「当家の主、エルナンド・ロサリオでございます。
遠路はるばるのお通い、誠にご苦労様にてございます。
ヴァイス男爵ご家中と承りました。
御所望の水一杯、喜んでご用意いたします。
どうぞ
その後、水の礼として狩りの獲物を主人に渡し、主人が過分の褒美と恐縮して、よろしければぜひ午餐にと誘う――までが一連の流れだ。
ディエゴは午前中に仕留めた数羽のウサギをエルナンドに手渡し、主人たるレオネルとともに、ロサレダ屋敷のテラスにしつらえられた食卓へと通された。
大きな食卓には、ロサリオ家の家族、縁者がずらりと並び、レオネル・ヴァイスを出迎える。
エルナンドが、ひとりひとりを順番に紹介していった。
「我が父ファン・ロサリオの姉カルメンの息子、ミゲルでございます!
我が父ファン・ロサリオの妹ロサの娘、アントニア・ロサリオ・モンテロでございます!」
名を呼ばれた者は立ち上がり、男は帽子をとって頭を下げ、女は胸に手を当てて小さく膝を曲げて礼をする。
ひとりひとり、ディエゴが配る簡単な土産を受け取った。
そのあいだ、レオネルはその誰のことも見てはいなかった。
一番奥で恥ずかしそうに小さくなっている少女に、完全に目を奪われていたのだ。
笑顔が映える丸顔は、健康的に日に焼けている。
豊かな黒髪を両側でおさげにまとめ、快活にくるくる動く大きな瞳が光をたたえて魅力的だった。
今日のためにおろしただろう。まっさらの白いワンピースが眩しかった。
ひときわ張り上げた、エルナンドの芝居がかった声が、不意に耳に飛び込んできた。
「そして、最後が――我が娘……アッポルォーニア・ロッサァリオゥにございますっ!」
アポロニアと呼ばれた美少女は小さくはにかみながら立ち上がり、レオネルに一瞬目線をくれて会釈した。
彼女に見とれたレオネルは、会釈を返すことも忘れて立ち尽くした。
ディエゴにうながされ、ハッと我に返って、機械仕掛けの人形のようなぎこちなさでアポロニアに歩み寄り、用意したプレゼントを手渡す。
黄金の卵を胸に抱いた、女神ルラのペンダントだ。
「まあ!なんて素敵な贈り物でしょう!ありがとうございます、レオネル様っ」
アポロニアの満面の笑みを見て、レオネルは真っ赤な顔で立ち尽くしていた。
ディエゴがエルナンドにささやいた。
「……ロサリオ殿。
こりゃあ、なんの心配もいらなさそうですな」
◇
食事が終わると、大人たちは酒とたばこを楽しみ始めた。
すっかり上機嫌になったエルナンドは、レオネルに言った。
「煙たいのもお嫌でしょう?
せっかくですから、”
と語りかた。
「アポロニア! レオネル様を、ご案内してさしあげなさい」
アポロニアの弟と妹が一緒に行きたがったが、エルナンドの妻イネス・ロサリオに引き留められ、兄妹は口をとがらせて抗議した。
アポロニアに案内され、薔薇園にむけて歩き始めたレオネルの心臓は、もういつ口から飛び出してもおかしくないほどドキドキしていた。
何か話さなきゃ。何を話せばいいんだろう?
ああ、彼女がつまらなそうだ。どうしよう、どうしよう……
「レオネル様は、士官学校へ進まれるのだそうですね?」
沈黙を破ってくれたのは、アポロニアのほうだった。
「え? あ……え、ええ。はい。そうです」
「陸軍ですか? 海軍? それとも、空軍?」
「えっと……ウォルドルフ学舎へ、進みたいと思っています」
「あら! 英雄ウォルドルフの! ということは、レオネル様は飛空士を目指されているんですね?」
「え……ええ」
「素敵だわ。とっても素敵。
飛空士をめざされているということは、レオネル様は
「まあ、そうですね。人並みよりはだいぶ……」
「じゃあ、カバルタなんて、お手のもの?」
カバルタは、空力を使う庶民の乗り物で、平たい石の上に空力を流すための石柱を立て、場合によっては粗末なベンチがくくりつけてある。
重たい上に、空力の伝達効率が悪い石材を使うこともあって、これを浮かべるにはかなりの空力がいる。カバルタを浮かせられない庶民も少なくない。
「ええ。カバルタ程度なら。たぶん大丈夫だと思いますよ……」
「まあ素敵! ちょっと待ってくださる?」
アポロニアは、ととと、っとテラスの方へ数歩駆け戻り、エルナンドに向かって大きな声で叫んだ。
「お父様っ! 納屋にあるカバルタ、使ってもいいかしら!?
レオネル様が、乗せてくださるっておっしゃるのっ!」
エルナンドがニコニコしながら、両手で大きな丸をつくるのが見えた。
「よかった! レオネル様、こっちよ! 行きましょう!」
走り出したアポロニアを追って、レオネルも駆けだした。
レオネルは自然に笑顔になっていた。
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