少女が髪を切った日【女神《ルラ》戦記・前日譚第1弾】〜高貴な世界で育った侯爵令嬢は、自らの意思で鳥籠を抜け出し、自由な世界へ飛び立った

マツモトコウスケ

第1話 かごの鳥

 私をじっと見つめている、鏡の中にいるあなたは誰?


 知らない。あなたなんて知らない。


 あなたは私じゃない。


 本当の私じゃ、ない。


 腰まで伸びた、ダークブロンドの髪。


 とてもきれいに手入れされているのね?


 つやつやと輝いているわ


 すこし緩やかに波打って、まとめても、おろしても、きっときれいに見えるでしょうね?


 鏡の中の少女は答えなかった。

 ただ、その眼は強い意思を宿してキラリと輝いていた。

 片手で一束むんずとつかむと、もう一方の手に持ったはさみで、少女は長い髪を切り捨てた。


 ためらうことなく。

 思い切りはさみを握り込んだ。


 床へと堕ちていった髪は、まるで命を落としたかのように輝きを失っていく。

 髪を切り終わった時、鏡の中の少女はやっと小さく微笑んだ。


「こんにちは、本当の私。


 もう、あんな場所には帰らないでいいの。

 行きましょう! 鳥かごの外へ!」 




   ◆ ◆ ◆



 14歳の夏、私は、貴族たちが集う避暑地、ベラの湖畔で繰り広げられる夏の社交界にデビューした。


 美しいドレスを身にまとい、貴族たちの注目を浴びながら、同世代の男の子たちと流れるように踊るのは、刺激的で、楽しい経験だった。


 でも、パーティーに行くたび、舞踏会へ出るたび、


「お嬢様に、同年代のお友達ご紹介しましょう。お気に召すと思いますよ」


 そう言って、男の子たち──時には15歳も年上の殿方もいた──に引き合わされた。

 男の子たちのことを見ていて、私はすぐに気がついたの。

 彼らは、みんな同じだって。

 ポマードで髪をなでつけて、きらびやかな服を着て、宝石やら時計やらで見た目はさんざん飾り立てているけれど、中身はみんな空っぽ。

 口を開けば、領地がどれだけ豊かとか、お城がどれほど立派とか、どこの侯爵、どこの伯爵とゆかりがあるとか……


 私はすぐに、自分が、ただの飾り物として、綺麗で可愛らしい動く人形としてしか見られていないことに気がついた。

 誰も私のことなんか見ていない。

 みんなが見ているのは、私の後ろにいる父や財産だった。

 誰も、私がどんな女の子かなんて、興味もないし、知ろうともしない。

 

 ただ、お父様が選んだ家の息子たちと、順番に会っていくだけ。


 私に期待されるのは、ただ黙ってにこやかに座っていること。

 自分の意見を言うことも、殿方たちと議論することも許されない。


——わたくし、そういう難しいお話はわからなくて……

 政治ですとか、経済ですとか、そういうお話は殿方にお任せですわ。

 でも、そういう方面にもお詳しい殿方は素敵だな、って思います。

 とっても頼りがいがあるっていうか。


 ——あら奥様。ファッションのこと、ぜひ教えてくださいませ。

 エウロペアの最新流行とか、とっても気になります。

 今からちゃんと流行を追いかけておきませんとね。

 時代遅れのファッションで、殿方からお声をかけていただけなかったら大変ですもの。

 おほほほほ。


 私はすぐに、そんな日々を苦痛に感じるようになった。

 城と舞踏会を往復するだけの毎日に、辟易するようになった。


 そしてあの夜、私の中で、何かが弾けたのだ。



   ◆ 



 舞踏会の大広間。

 その一角には楽団が控えていて、指揮者が、今にも演奏を始めたそうにこちらを見ている。

 周囲には大勢の着飾った男女。

 パートナーと、見知った異性と、あるいは今日知り合ったばかりの御令息と、御令嬢と、音楽が始まるのを待っている。


 それなのに……


「これはこれは、オルティス伯爵夫人!

 すっかりご無沙汰しておりまして……

 いつも主人から侯爵のお噂はお聞きしておりますのに、ねえ?」


 母が、ホールの真ん中で見知った顔を見つけて、話し込み始めた。

 お母様がそんなところで話しはじめたら、楽団は演奏を始められないじゃない。

 みんな待っているのに、どうしてそんなことにも気が付かないのかしら?


 ううん、違うわね。

 お母様は気がついているの。

 気がついているけど、「私が話したいんだから、舞踏会のはじまりなんて待たせておけばいい」って、そう思っているの。

 そうやって、自分が偉いと見せつけて喜んでいらっしゃるのだわ。


 くだらない……


 ◇


 それにしても、暑い。

 こんなにコルセットを締め付けなくてもいいじゃない。

 苦しくて、息もできない。


 オルティス伯爵夫人とおっしゃったかしら。

 連れているのは次男の方?

 勲章を着けているから、もう軍務に就いているという長男の方ね。

 

 たしか、エミリオとかいう名前。

 空軍で期待されている人だと、婆やが言っていた気がする……


「エミリオ、あなたお嬢様とお話ししてきたら?

 私、奥様と少しお話がしたいの」


「あら奥様それは名案!

 若い人たちが聞いて楽しい話じゃないのよ。

 ごめんなさいね。

 うちの娘の相手をしてくださったら嬉しいわ」


 またか……

 エミリオ・オルティスも、私の旦那様候補っていうことね。


 お父様は、誰でも好きな男を選べとおっしゃるけれど、それって、お父様が「この家門の子息ならいい」と、あらかじめ選んだ男の子たちの中からなら、という条件付きでしょう?

 その中に、尊敬できる、素晴らしい男性がいなかったら、どうすればいいのかしら?


「お嬢様…… どうぞ、お手をお取りください」


 にやけた顔がむかつく。


「よろしくお願いいたします、オルティス様」


「踊りますか?」


「いえ、少し胸が苦しくて」


 オルティスが、私の胸の谷間をチラリと盗み見た。

 男の子なんて、みんなそう。

 こんな、コルセットで作った谷間のなにが嬉しいのかしら?


「それはよくない。

 座りましょう。

 さあお嬢様、どうぞこちらへ……」


 ”お嬢様”


 そう呼びかけられるだけで、胸がざわつくようになったのはいつからだろう?


 虫酸が走る。


 でも苦しさに負けて、エミリオに導かれるまま、ホールの真ん中の目立つ場所にあるテーブルに座った。


 どうしてこうみんな目立ちたがるのかしら。


 私と話しているところを、私の結婚相手の候補になっていることを、この舞踏会に来ているみなさんに見てほしいんでしょう?


 はぁ。くだらない……

 もう、帰りたい。

 苦しいのよ。 

 帰って、コルセットを緩めたいの。…


 

 ◆


 

「お嬢様! どうなさったんですか?

 大丈夫でいらっしゃいますか!?」


 婆やに助けられて、私はやっとセレステール天空の馬車から降りた。

 婆やが、コルセットの紐を緩めてくれた。

 ああ、これでやっと息ができる。


「舞踏会で倒れたのよ。

 せっかく、近衛飛空師団のエースだっていう、オルティス伯爵のお坊ちゃまとのお見合いだったのに、この子ったら!

 みっともないったらありゃしない!! 

 いったいいつになったらコルセットに慣れるのかしら?

 そんなことでは、侯爵令嬢は務まりませんよ!!」 


 お母様はプンプン怒って、手袋を投げ捨てながら城の中へと入っていった。


「お嬢様、申し訳ありません。

 下女たちがコルセットを少し強く締めすぎたようですね。

 気をつけるように、言っておきますのでね」


「ありがとう婆や。

 お水を頂戴。

 ずっと何も飲んでいないのよ」


「おやまあそれは大変!

 今すぐ冷たいお水をご用意しますわね。


 さあ、お部屋に上がりましょう。

 歩けますか?」


「ええ、大丈夫……」


 

 ◇


 

 部屋に戻ってドレスを脱ぎ、やっと一息ついた。


 ドレッサーの前に座って、婆やに髪を下ろしてもらう。

 婆やが、丁寧に髪をいてくれた。


「ねえ、婆や……」


「はい、何でございましょう?」


「婆やは、”お給金”をもらっているのでしょう?」


「はい、大変ありがたいことでございます」


「お給金をもらったら、嬉しいの?」


「はい、嬉しゅうございますよ?」


「ふぅん……」


 私が、世間知らずだということはよく知っている。

 使用人たちはいつも「お給金」の話をしている。

 お給金が出た日には喜んで、私にまで「ありがとうございます」って言ってくれるの。

 私は、お金の心配なんてしたことがないし、お金を自分で使ったこともない。


 ふつうの人たちは、毎日、市場というところへ行って、その日に食べるものを「買う」のですって。

 市場で「お金」と食材を交換し、自分でそれを料理にするって……

 どうやって? わからない。

 使用人たちは、木でできた匙で食事をするそうよ。


 侍女たちが着ている、お揃いの黒い粗末な服。

 それが、それでも、彼女たちがいつも着ている服よりはるかに上等なものだと聞いて驚いた。

 ふだん彼女たちはどんな服を着ているのかしら?

 街で見かける、あの貧しい人たちのようなひどい服を着ているのかしら?


 私たちが使う銀の食器を持ち出して、使用人が捕まったことがあったわ。

 売り払えば大金になる、と、魔が差したのですって。

 お金って、そんな大切なものなのかしら?

 私には、彼女がどうしてそこまでしてお金を手に入れたかったのか、その理由が全然わからない。


 私たちが出かけるときに乗るセレステ―ル天空の馬車

 市井の民は、そんなものには乗らないそうよ。

 カバルタ浮石板という、大きな平たい石の上に、支柱のような石と、木でできた椅子がついただけの、粗末な乗り物を使うのですって。

 しかも、自分の空力くうりょくを使って浮かせるそう。


 楽しそう。


 私も乗ってみたい。


 そういえば、家庭教師の先生が、空力のことで面白いお話を聞かせてくださった。

 

「空力は女神ルラが人間に与えし力。

 ですから、もし将来お嬢様がご自分で空へと舞い上がる機会がございましたら、そのときには絶対に、女神ルラへの感謝を忘れてはいけません。

 実際に飛空士の方々にお話を聞くと、離陸するときには必ず、静かな環境で、心を整えて、女神ルラへ感謝を捧げながら空力を翼に流し込まれているそうですよ」


 なんて素敵な話なのかしら。

 

 

 ◇

 


 私は世間知らず。

 私は、かごの中の、何も知らない、空っぽの女の子。


 鏡の中にいるあなたは誰?

 使用人たちが着ている黒い服より遙かに上等な、柔らかいシルクの寝間着を着て。

 丁寧に櫛を通してつやつやした長い髪を、やわらかくウェーブさせて。


 思い切って、この髪をばっさりと切り捨ててしまおうか?


 ううん。


 そんな、おとぎ話の世界じゃないの。 


 髪を切るだけじゃ、何も変わらない。


 その日私は、心に決めた。

 いつか必ず、この城に私を縛り付けるこの長い髪を切り落とし、鳥かごのような世界を抜け出して、自由に、自分らしく暮らすのだ、と。

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