第5話 決断の夜

 夜は、音を失っていた。

 森を包む風も、遠くの水音も、

 すべてが息を潜め、ただ月だけが凍てつくように輝いている。


 椿はひとり、岩陰に身を寄せていた。

 烏丸に報告を返す刻限は過ぎている。

 すでに追手が放たれたことも、察していた。

 それでも動けなかった。


 黒鴉と別れてから、どれほどの時が過ぎたのか。

 掌に残る感触が、まだ消えない。

 彼の言葉が、耳の奥で何度も反響している。


 ――お前の目で選べ。


 簡単なことではなかった。

 忍びとして生きてきた椿には、「選ぶ」という行為そのものが禁じられている。

 命令に従い、心を殺し、闇に従うことが“生きる”だった。

 だが今、その定義が崩れていく。


 頭上の木々がざわめき、気配が走った。

 息を詰めるより早く、影が二つ、彼女を囲む。


 「烏丸の命に背くか、椿。」


 面をかぶった追手が、冷たく言い放つ。

 椿はゆっくり立ち上がった。

 雨に濡れた草を踏む音が、夜気の中で細く響く。


 「背いたのではない。……まだ、答えを出していないだけ。」


 静かな声だった。

 だがその言葉に、追手の一人が刀を抜いた。

 刃が月光を受けて冷たく光る。


 次の瞬間、椿は動いた。

 風を裂くように体がしなり、刃が唸る。

 短刀の軌跡がひとつ、ふたつ、

 闇の中で花弁のように開く。


 呼吸。足運び。

 全てが流れるように連なっていた。

 長年の修練が身体の奥で蘇り、

 刃と呼吸が一体となる。


 ひとりを斬り伏せ、もうひとりをかわす。

 相手の刀が肩を掠め、血が滲む。

 痛みが、妙に鮮やかだった。


 椿は息を吐く。

 呼吸が白く散る。

 月明かりに照らされた刃が震えた。


 「……私は、まだ闇を捨てられない。」


 呟くように言い、再び身を構える。

 そのときだった。

 背後から、別の気配が風を裂いた。


 黒鴉だった。

 いつからそこにいたのか、分からない。

 彼の刀が一閃し、追手の胸を貫く。

 血が散り、夜に溶けた。


 「追手が動いたと聞いて、来た。」

 黒鴉の声は、夜より低く沈んでいた。


 椿は目を伏せた。

 「あなたまで、危うくなる……」


 「構わぬ。どうせ、俺はもう敵として追われている。」


 短い沈黙が落ちた。

 竹林の間を風が通り抜け、葉が微かに揺れる。

 その音が、まるで過去を振り払うようだった。


 「椿。」

 黒鴉が一歩近づく。

 その眼差しに、いつか見た夜の光が宿っている。


 「お前が選ぶ道が、闇でも光でも――俺は共に行く。」


 言葉は穏やかだったが、

 その底には刃よりも強い意志があった。

 椿は息を呑む。

 胸の奥で何かが熱を帯び、溶けていく。


 「黒鴉……あなたは、なぜ私を救うの?」


 彼は微笑んだ。

 「お前が、俺を殺せなかった夜から――俺はもう、生きてはいない。」


 その声に、椿の瞳が揺れた。

 月が雲の切れ間を照らし、二人の影が交わる。


 互いの呼吸が触れるほど近く、

 言葉よりも確かな何かが流れていた。


 椿は一歩、彼に寄った。

 「……行こう。」


 黒鴉が頷く。

 「どこへ。」


 「まだ見ぬ闇へ。」


 ふたりは月の下で向かい合い、

 静かに背を向けた。

 里を、命を、過去を、すべてを置いて。


 夜明けが近づく。

 東の空がわずかに白む頃、

 椿は振り返らずに言った。


 「黒鴉。もし次に会うとき、敵であっても――

  私は、あなたを斬れない。」


 黒鴉はその背に向かい、ただ短く答えた。

 「ならば、その刃を守るために生きよう。」


 その言葉が、夜風に溶けていった。

 月が沈み、朝が始まる。


 闇を選び、愛を抱いた二つの影が、

 光の届かぬ方へと歩き出した。

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