第3話 紅と黒の呼吸
冷気の中で、竹林の葉が淡く光を返す。
椿はひとり、里の外れの岩陰に身を潜めていた。
夜が明ける前に、標的の屋敷に忍び込む――それが今宵の任務。
指先の感覚を研ぎ澄まし、呼吸を整える。
だが、心の奥には微かなざらつきがあった。
あの夜の影。
黒鴉の目。
呼吸の音。
刃のすれ違う一瞬に、確かに感じた何か。
――なぜ、殺せなかったのだろう。
任務中に迷いを持つなど、本来あり得ない。
けれど、あの夜の感触がどうしても消えなかった。
呼吸を深くするたび、彼の気配が蘇る。
それが邪魔だと知りながら、どこかで求めてしまう自分がいた。
椿は首を振り、意識を戻した。
忍びは情を捨ててこそ生きられる。
心を乱すのは死を招く。
そう教えられてきた。
月が沈み、夜が薄らぐ。
屋敷の中では、灯が一つ、また一つと消えていく。
標的が眠りに落ちる時刻。
椿は闇を割るように動いた。
屋根を走り、障子の隙間から音もなく滑り込む。
室内の空気はぬるく、香の煙が漂っていた。
障子越しに、寝台の影が見える。
静かに短刀を抜き、息を殺す。
だが、次の瞬間。
足裏に伝わるわずかな異変――。
床板のきしみ。
感覚が告げる、「罠」。
反射的に身を翻した。
直後、天井から鋼糸が落ち、床を斬り裂いた。
同時に、障子が弾ける。
黒い影が飛び込んできた。
刃が交わる音。
目を見開いたまま、椿はその影を見た。
「……黒鴉。」
彼は何も言わず、ただ刃を受け止める。
月明かりが彼の頬を照らし、血の跡が薄く光る。
前回の戦いで負った傷。
まだ癒えていない。
「また、お前か。」
黒鴉の声は低く、穏やかだった。
殺気はなく、ただ何かを確かめるような静けさがある。
「任務か?」
「そう。……お前の任務も、同じだろう。」
言葉の後、ふたりは同時に動いた。
黒鴉の太刀が弧を描き、椿の髪を掠める。
椿の短刀が彼の腕を裂く。
だが、どちらも致命には至らない。
呼吸と呼吸が重なり、刃と刃が交錯する。
その音が、どこか懐かしくさえ感じられた。
戦いながら、心が静かに震えていた。
黒鴉の眼が、一瞬、揺らいだ。
そのわずかな隙に、椿は彼の懐へ入り込む。
短刀を胸に向け、止めを――。
しかし、できなかった。
刃が彼の衣を裂いただけで止まる。
彼の体温が、すぐ目の前にあった。
「なぜ、躊躇う。」
「……あなたもだ。」
ふたりは見つめ合った。
息が、触れ合う。
刃の冷たさの中で、互いの瞳だけが熱を帯びていた。
黒鴉が、ゆっくりと刀を下ろした。
その動きには、決意のような、諦めのような静けさがあった。
「椿。俺たちは、同じものを背負っている。」
「……それでも、私は任務を果たさねばならない。」
「ならば――俺が止める。」
刹那、ふたりの刃が再び火花を散らした。
激しい衝撃が走り、椿の体が壁に叩きつけられる。
息が詰まり、視界が滲む。
黒鴉が近づいてくる。
その眼差しに、敵意はなかった。
ただ、静かな哀しみがあった。
「生きろ、椿。」
低い声が、夜に沈む。
次の瞬間、黒鴉は闇に溶けた。
その姿は、まるで霧のように消えていった。
椿は壁に背を預け、息を整える。
胸の奥が熱い。
痛みでも恐怖でもない。
――名もない感情。
屋敷の外では、夜明けの風が吹き始めていた。
空がわずかに白み、鳥の声が遠くで響く。
椿はその音を聞きながら、ひとり呟いた。
「なぜ……あなたなの。」
声は風に溶け、夜が終わっていった。
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