紅椿は闇に咲く
御子神 花姫
第1話 紅に濡れる刃
夜は深く沈み、森は息をひそめていた。
竹の葉が濡れ、風さえ音を立てない。
椿は闇に身を預け、呼吸をひとつ、ゆっくりと吐いた。
冷たい空気が肺を満たし、血の温度を落とす。
今夜もまた、命を奪う。それが彼女の生。
標的は山間の小屋に潜む。
夜目を凝らすと、薄い灯が障子を透かしている。
二人の見張りが外に立ち、話しながら手をこすっていた。
緩んだ姿勢、荒い息。油断している。
椿は、地を蹴る。
土も草も踏まず、まるで風が滑るような動き。
背後を取った瞬間、呼吸と同時に刃を走らせた。
短く、静かな音。
男の喉を裂く血の温かさが、夜気の中で散る。
もう一人が振り向く。
驚愕の声を上げかけたその瞬間、椿の身体はもう動いていた。
左足で敵の膝を払い、右腕で首を押さえつける。
抵抗の気配を感じ取ったときには、苦無が喉に沈んでいた。
外の空気が静まる。
血の匂いが湿った土に混じり、夜を濃くする。
椿は呼吸を整えた。
わずかに震える指先を押さえ、再び小屋の方へ目を向ける。
戸を少し開くと、内側の灯が弱々しく揺れている。
眠る男がひとり。もうひとりは奥で見張っていた。
椿は音を立てずに足を進め、寝息の主のそばに膝をついた。
短刀を抜く。
ためらいはない。だが胸の奥がわずかに軋む。
刃が骨を断つ。
その音が灯の揺れに混じったとき、背後で床が鳴った。
――もうひとり。
咄嗟に身を翻す。
敵の刃がかすめ、髪が数本、宙を舞った。
その男は他の者とは違う。
構え、呼吸、目の動き──すべてが洗練されている。
同じ忍び。
互いに一歩も引かず、間合いを測る。
刃と刃が触れ合う音が、静寂を裂いた。
その音が、心臓の鼓動と重なる。
男の斬撃は速かった。
腕の軌跡が光の残像を描き、椿の肩を掠める。
熱い痛みが走るが、構わない。
痛みは、生きている証だった。
反撃。
椿は低く潜り込み、相手の懐へ踏み込む。
足裏で地を蹴り、肘で脇腹を打ち上げる。
衝撃が骨を伝い、呼吸が乱れる音が聞こえた。
その隙を逃さず、短刀を振るう。
刃が相手の肩を裂き、血が飛ぶ。
鉄の匂いが鼻を刺す。
男の目がわずかに揺らいだ。
恐怖ではない。闘志。
その瞳に映る光が、なぜか美しかった。
互いの呼吸が荒く、夜の中で交じり合う。
刃がぶつかるたび、胸の奥の熱が強くなる。
この瞬間だけが、生きている実感。
最後の一閃。
男の動きが止まり、紅が宙に舞った。
椿は静かに息を吐く。
足元で倒れた男の顔には、どこか穏やかな影があった。
――同じ闇を生きる者。
椿はその顔を見つめ、刃を拭った。
指先に残る血の感触が、いつまでも離れない。
外へ出ると、雲の切れ間から月がのぞいていた。
白い光が地を照らし、血の跡が紅椿の花のように広がる。
その光景が美しいと思ってしまった自分が、恐ろしかった。
夜風が吹く。
冷たさの中で、胸の奥がまだ熱い。
椿は呼吸をひとつ整え、再び闇に身を滑らせた。
音は消え、ただその呼吸だけが夜を震わせていた。
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