第四十五章:創生のシンフォニー
アルゴ号の船内は、かつてないほどの静かな熱気に満ちていた。
それは、恐怖や絶望から来るものではない。死の淵から持ち帰った、あまりにも不確かで、しかし、確かな輝きを放つ三つの希望を前にした、創造の熱だった。船内の空気は、祈りと、科学的な興奮と、そして、これが最後の賭けであるという悲壮な覚悟が入り混じった、奇妙な緊張感に満ちていた。
機関室は、船で最も神聖な場所へと変わっていた。
ヤヌスとスペクターが命を賭して持ち帰った三つの共振鉱物が、無重力状態の格納フィールドの中で、それぞれが独自の「歌」を奏でるように、静かに浮かんでいる。
秩序を司る、完璧な結晶構造を持つ青い水晶「アストライト」。それは、宇宙の法則そのものを体現したかのように、静謐で、安定した青い光を放っていた。
混沌を司る、見る角度によって色を様々に変える黒い蛋白石「カオス・オパール」。その内部では、予測不能な虹色の光が、まるで嵐のように渦を巻いている。
そして、生命を司る、内部で心臓のように赤い光を明滅させる、翠の玉石「ガイア・ハート」。その鼓動は、78.7ヘルツという、生命の根源的なパルスを、静かに刻んでいた。
「これより、人類初の、アドリブで歌う宇宙船の心臓、『トリニティ・ドライブ』の組み込み作業を開始する」
作業服に身を包んだ慧の、静かな、しかし、揺るぎない宣言が、機関室に響き渡る。
彼の周囲には、船の全ての技術を結集した、機関士たちの精鋭が、固唾を呑んで、その言葉を待っていた。
慧の指揮は、もはや科学者のそれではなく、偉大な交響曲を創造する、マエストロ(指揮者)のそれだった。
「まず、アストライトを、船体の主軸と完全に平行に設置。誤差は、許されない。これは、我々の歌の、絶対的な基盤となる『主旋律』だ。宇宙の法則という、我々が決して抗うことのできない、絶対的な秩序。全ての音は、ここから始まる」
機関士たちは、レーザー測定器を使い、ミクロン単位の精度で、青い水晶を固定していく。
「次に、ガイア・ハートを、アストライトの直下に。二つの鉱物の共振フィールドが、互いに干渉し合わない、ギリギリの距離を保て。これは、我々の音楽に、生命の『リズム』を与える、魂のメトロノームになる。秩序だけでは、音楽は生まれない。そこに、生きようとする意志の鼓動が加わって、初めて、歌は命を宿す」
翠の玉石が、ゆっくりと定位置に収められる。その赤い鼓動が、機関室全体を、まるで巨大な胎内のように、温かい光で満たした。
そして、最後に。
「……カオス・オパールを、二つの鉱物から、最も離れた位置に設置する」
慧の指示に、機関士の一人が、訝しげな声を上げた。
「キャプテン、それではエネルギー効率が……!」
「それで、いい」
慧は、静かに言った。
「こいつは、予測不能なアドリブを奏でる、気まぐれなソリストだ。主旋律とリズムから、最も遠い場所で、自由に歌わせる。だが、完全に解放するのではない。アストライトとガイア・ハートが生み出す、調和の引力によって、かろうじて、このオーケストラに繋ぎ止めるんだ。混沌は、秩序と生命によって、かろうじて制御される。それこそが、我々人間そのものだ」
それは、あまりにも人間的な、あまりにも、不完全で、危ういバランスを持った設計思想だった。
格納庫では、ヤヌスとスペクターが、その作業の様子を、モニター越しに、ただ黙って見つめていた。
自分たちが、死線をくぐり抜けて持ち帰った「宝」が、今、全く理解できない、しかし、とてつもなく重要な「何か」へと、姿を変えようとしている。それは、兵士である彼らにとって、もどかしく、しかし、どこか誇らしい光景だった。
数時間後。
全ての設置作業が、完了した。
三つの鉱物は、機関室の中央で、それぞれが、静かに、その出番を待っている。
「……いいか」
慧は、ブリッジにいる、全てのクルーに向かって、通信を入れた。
「これから、ドライブを起動する。何が起こるか、正直、私にも、完全には予測できない。だが、これだけは、言える。これは、我々人類が、初めて、自らの意志で、自らの手で創り上げた、神々の楽譜にはない、俺たちの、歌だ」
慧は、ゆっくりと、起動スイッチに、手を伸ばした。
船内に、息を呑む音だけが響く。
スイッチが、押される。
最初に、歌い始めたのは、アストライトだった。
キィン、という、宇宙の静寂そのもののような、完璧で美しい、単一の音が、船全体を震わせた。
次に、カオス・オパールが、それに反発するかのように、耳を劈くような、無数の不協和音を、同時に奏で始めた。
そして、最後に、ガイア・ハートが、全てを包み込むように、力強く、そして温かい、生命の鼓動を、打ち鳴らした。
三つの音は、最初は、バラバラだった。互いに喰らい合い、反発し船体は、悲鳴のような軋みを上げた。船内の照明が激しく明滅し、アラートが鳴り響く。
誰もが、失敗を覚悟した、その時。
三つの音が奇跡のように、一つの、新しい「響き」へと、収束し始めた。
それは、調和ではない。
かといって、混沌でもない。
美しくもあり、醜くもある。
力強くもあり、か弱くもある。
それは矛盾そのものを、エネルギーとして、前へと進む人類の、魂の歌。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます