第三十六章:混沌の三重奏
『――奏でてみせろ』
狩人の、神託のような挑戦状が、宇宙の静寂を切り裂いた。
漆黒の船に並ぶ無数の砲門が、一斉に、夜空よりも暗い、光さえ呑み込むエネルギーをチャージし始める。それは、存在そのものを「調律」し、無へと還すための、時空の断裂。死のオーケストラが、その最初の音を奏でるための、指揮棒を振り上げた瞬間だった。
「始めるぞ!」
慧の、絶叫にも似た命令が、全船に響き渡る。
「決裂のレクイエムを、この宇宙に、叩きつけてやれ!」
その言葉を合図に、三つの、全く異質な「歌」が、同時に奏でられた。
第一楽章、アルゴ号。
船体そのものを共振させ、慧が奏で始めたのは、あの滅びた文明が遺した「沈黙の歌」の、不完全な主旋律だった。それは、宇宙の背景放射と調和する、美しく、そしてどこまでも物悲しいアルペジオ。だが、その旋律は、あまりにも多くの音符が欠落しており、聞く者の胸に、埋めようのない喪失感を抱かせる、幽霊の歌だった。それは、完璧な「秩序」への、憧れと絶望の調べ。
第二楽章、ヤヌスのフェンリル。
アルゴ号が奏でる主旋律を聴いた瞬間、ヤヌスは、その音響兵装の出力を最大にした。彼が解き放ったのは、慧が作り上げた「不協和音のフーガ」。主旋律を嘲笑い、冒涜し、破壊するためだけに存在する、悪魔の対旋律。それは、怒り、憎しみ、恐怖といった、生命が持つ最も混沌とした感情の脳波データを組み込まれた、純粋なカオス。秩序を切り裂く、魂の叫びだった。
第三楽章、スペクターのガルム。
彼の機体が奏でたのは、ただ一つの、しかし、最も力強い音だった。
78.7ヘルツ。
アンデスで、そしてこの船で、幾度となく人類を救ってきた、生命そのもののパルス。スペクターは、狙撃手としての完璧な集中力で、狂ったように鳴り響く二つの旋律の、そのわずかな隙間を縫うように、正確無比なリズムで、生命の鼓動を打ち込み続ける。それは、この混沌の三重奏を、かろうじて一つの「音楽」として繋ぎ止める、唯一の楔だった。
秩序と、混沌と、生命。
三つの旋律は、互いに反発し、喰らい合い、しかし、奇妙なバランスで混ざり合い、一つの、誰も聞いたことのない、歪で、醜く、そして、どこまでも力強い「歌」となって、アルゴ号の周囲に、虹色の音響フィールドを形成した。
その、瞬間。
狩人の船から、無数の、黒い槍が放たれた。
それは凄まじい速度で、しかし、音もなくアルゴ号へと殺到する。
絶望的な光景。
だが、慧の目には、勝機が見えていた。
黒い槍が、虹色の音響フィールドに接触する。
槍が持つ、完璧な「秩序」の力は、まず、アルゴ号が奏でる「沈黙の歌」の旋律に共鳴し、それを呑み込み、無力化しようとした。フィールドの一部が、急速に色を失い、黒く染まっていく。
だが、そこへ、ヤヌスの「不協和音のフーガ」が牙を剥いた。
秩序を喰らおうとする槍の力に、混沌の刃が、真正面から切りかかる。火花が散る。槍の進行が、明らかに、鈍った。
そして、その衝突の瞬間に生まれた、ほんのわずかな均衡の揺らぎ。
それを、スペクターの「生命のパルス」が、逃さなかった。
彼の正確無比なパルスは、槍が持つ「秩序」の力の、ほんのわずかな共振周波数を捉え、その内部構造を、まるでメトロノームのように、内側から、単調に、しかし執拗に、揺さぶり始めた。
結果、黒い槍は、その完璧な秩序を、内部から破壊された。
それは、もはや獲物を貫く槍ではなく、ただのエネルギーの塊となって、その軌道を大きく逸れ、アルゴ号のはるか後方へと、虚しく飛び去っていく。
一本また一本と、放たれる全ての槍が、同じように、その力を失っていく。
狩人の、完璧な攻撃が、完全に無力化されたのだ。
漆黒の船は、沈黙した。
全ての砲門が、その光を失い、ゆっくりと、船体内部へと格納されていく。
それは、敗北を認めた証か、それとも、新たな攻撃の準備か。
ブリッジの誰もが、息を殺して、次の瞬間に備える。
やがて狩人からの、新たな思考が、慧の脳へと、直、流れ込んできた。
それは、もはや、小物をあしらうような、傲慢な響きではなかった。
初めて、対等の、あるいはそれ以上の存在を前にしたかのような、純粋な、問いかけだった。
『……解せぬ』
『お前たちは、何だ』
『その歌は、調和でもなく、混沌でもない。秩序でもなく、無秩序でもない。……それは、我々の宇宙の、いかなる法則にも、当てはまらぬ』
慧は、ゆっくりと、息を吐いた。
そして、震える声で、しかし、確かな誇りを持って、その問いに答えた。
『我々は、人間だ』
『そしてこの歌が、我々人類の、魂の歌だ』
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